黒子は自分の固有名詞での呼称でない限り、振り向いたりはしない。影が薄いこともあり、早々自分が呼ばれることはないからだ。
だが、その時ばかりは流石の黒子も振り向いた。頭上から襲い掛かってきたのが、裂帛を帯びた声だったからだ。
背後を顧みた色素の薄い瞳に映ったのは、透明な何か。自分に向かってくるそれを正しく認識する前に、黒子の全身に鈍い痛みが走った。次いで走ったのは、耳を劈く破壊音、周囲の悲鳴。
一瞬、辺りには静寂が圧し掛かり、そして耳障りな喧騒が波紋のように広がった。
黒子は身体を影に包み込まれ、羽交い絞めにされ自由が利かないまま、それを認識していた。
「黒子、黒子?怪我は?何処も痛くない?」
影が拘束を緩め、白藍色の髪を梳いてくる。黒子は声の道を辿るように顔を上げた。影は、黄瀬だった。
だが、黒子はその姿を見て首を傾げた。
「きせくん」
「痛い所ない?なんか、熱いとか、痒いとか、ないか?」
黄瀬は頭と腕を濡らしていた。
黒子は不思議に思い、ふと地面に視線を這わせた。その先で蛍光灯の光を反射する無数の物体を見つけた。それを認識しようとしたところで黒子の視線は掬い上げられる。
「黒子、痛いとこは?なんにもないのか?」
再び視界に映った彼は表情険しく、焦燥の見える声音でそう問い掛けてくる。その合間も、顔を、頭を、体を確かめるように触れてくる。いつものように、淫靡なそれではない触れ方だった。
おかしいと黒子は漸く認識し始め、記憶を辿っていく。辿り、黒子は尚も身体を這う手を掴んだ。
「それは此方のセリフです、黄瀬君」
黄瀬の眼を睨み黒子がそう言った時、生徒に先導された教師が此方へと走って来た。
教師は周囲を見回し逸早く現状を認識したようで、詳細を知るベく喧騒雑じりの説明する声を拾っていた。
「先生、そんなことは後でも十分に間に合います。先に黄瀬君を病院へ連れて行ってください。そこらで破砕されている薬品のどれかを被ってます。無臭ですし、彼の様子からして大事はなさそうにも見えますが、目に入っている可能性もあります。さっさと連れて行って、専門家に見せてきてください」
込み上げてくる不甲斐無い自身への苛立ちと不快感に、黒子はお門違いにも教師を睥睨するように諫言する。普段は大人しい生徒にそんなものを向けられ、教師はたじろぐ様を見せた。それさえも今は黒子の苛立ちを増長させる。
「あ。ああ、悪い、お前は?大丈夫なのか?」
「平気です。彼が庇ってくれたので」
気遣われているのだと頭ではわかるのだが、如何せん今は早急な対応だけを黒子は望んでいる。だが、教師は黒子ほどこの事態を重く見ていない。だから、行動が遅々としている。
黒子の眦がひくりと痙攣を起こす。
教師は未だにこの場から動かず、本当に平気なんだな、大丈夫なんだな、と問うて来る。黄瀬も黄瀬で自分のことを棚に上げて教師と同じことを問う。
血管が切れる、というのはこういうのを言うのだろうか。黒子は苛立ちを治めようと拳を握り締めながらそう思った。
「なら、僕も行きます。ですから、さっさと彼を病院に連れて行ってください!」
スポーツ選手にとって目は大事なものだ。その目になんらかの損傷があったらどうしてくれるのだろう、この教師は。
黄瀬の言動や、自分をみだりがわしく変化させる手管は黒子の嫌悪の対象でしかない。それでも黄瀬を根本から嫌うことはできなかった。黒子にとって黄瀬は強い憧憬の対象でもあったからだ。
誰にも真似できない、自分にしか出来ないバスケ。黒子はそれを持っていて、誇りにしている。けれど、チームメイトのようなバスケもやはりしたかった。黒子には入場する権利すら与えられなかった光の世界で。けれど、黒子にとってそれは正しく不可侵であった。
それを知らしめ、そして納得させたのが、キセキと呼ばれた他のチームメイトではなく、たった一年間でキセキの仲間入りを果たした黄瀬だった。
だからこそ、その世界に存在することを許された黄瀬を憧憬し、誰よりも敬愛した。だのに、影の世界の住人である自分が、黄瀬からその世界を奪うことになるなど、冗談じゃない。
「さっさと、連れて行ってくださいっ……」
冗談じゃない。自分の『愛する彼』を殺すなんて、悪夢以外のナニモノでもないのだ。
黒子は、血反吐を吐くように、言葉を繰り返した。
がちゃり、といつかのように檻の扉が開かれる。ただ、今日はその扉を開いたのは黒子であったのだけれど。
黒子は大きな手を取り、中に入り、靴を脱ぐ。繋いだ手を黄瀬に擽られるように弄ばれながら、足を進めると直ぐにリビングに着いた。
「黄瀬君」
黒子は振り返り、呼称する。
黄瀬は双眸を柔らかな白い布で封じられていた。
医者が言うには、診断と薬品を考慮しても眼球の損傷や炎症はなく、失明の恐れはないとのこと。それでも念のため一週間ほど眼を休めるようにと言い、黄瀬は瞼の上から薬を塗布され包帯を巻かれた。
「ソファーまで連れてって欲しいっス」
その要望通り、黒子は手を引く。
ゆっくりと黄瀬は其処に腰掛け、黒子の手を引き、その細腰を引き寄せた。黒子はそれに逆らわず、求められるまま彼の大腿に座る。
黄瀬は満足そうに微笑む。瞳が見えないからか、いつもよりもずっと穏やかな笑みだった。それでも、このままがいいとは、黒子には思えないけれど。
黄瀬は両手を伸ばし白藍色の頭に触れ、そこからゆっくりと伝い下りる。耳介に触れ、耳朶を揉み、そのまま顎へと指を流す。
「頭―――耳、耳たぶ柔らかいっスね―――顎―――口唇」
節榑立つ指に触れる顔のパーツ一つ一つを確かめるように黄瀬は口にする。そして、行き当たった口唇を模るようになぞり、綺麗な顔を寄せてくる。
見覚えのあるシーンに黒子は身を堅くし、けれど動きはしない。
だが、黄瀬の薄いけれど柔らかなそれは、黒子が予想していたのとは違う場所に落ちた。
「やりにくいっス、流石に。うーん、……」
口付けられた頬が舐め上げられる。ぞわぞわとこそばゆさが走り黒子は声を噛み締めた。
大きな両手で顔を固定され、大きな口で頬を食まれる。口腔内に捕らわれた頬を舌で味合われ、黄瀬の制服を掴む黒子の手が震えた。
「かわいい、かわいい、黒子っちってどこもかしこもオイシイっス。でも、オレキスがしたいっス。黒子っちの歯ぁ擽って、口ン中舐め回して、舌吸って絡めて、甘い唾液飲みたいっス。ね、黒子っち、オレ、キスしたいっス」
解放された頬は濡れた感触が拭えず、ひんやりとしている。キスがしたい、と言う黄瀬はそこを撫でる。それだけ。いつも受身でいる黒子に、今は動け、とそう言っているのだ。
黒子は少し逡巡し、手を広い肩に伸ばして腰を浮かせた。
今、黄瀬の目は物理的要因によってではあるが、光を完全に拒絶している。その原因は、不注意で薬品を落とした下級生よりも、自分にあるということを黒子は認識していた。当然、後ろめたさや罪悪感があった。だから、黄瀬の要求を理不尽に思うことも、従わないという選択肢も、黒子にはなかった。
だが、性的なことに興味も関心もない黒子にとってキスは黄瀬が施してきたものが全て。口唇を重ね合わせた後で、黒子はどうすればいいのだろうかと混迷した。
それに気が付いたのか、黄瀬が口唇を舐めてきた。いつものように、口唇を開け、という示唆でないことは黒子も解った。恐らくは黄瀬がいつもやっていたみたいに、今度はその舌をこっちに持って来い、ということなのだろう。
黒子は溜まる唾液を飲み込んで、瞳を閉ざした。口唇の合間から戦々恐々と舌を伸ばし、重ね合わせたそれを舐める。愉しげな風情を醸し出す黄瀬はそれでも口を開こうとはしない。本当に、いつも黄瀬がやっているように黒子にやらせるつもりなのだ。
肩を掴む手に力が入る。閉ざした瞼の奥で、眼球が熱を帯びる。出来るわけが無い。黒子はそう思った。やり方がわからないし、なによりも羞恥心が勝る。
黒子がまたもや混迷していると、臀部に衝撃が走った。反射的に肩を竦ませた後、叩かれたのだと気が付いた。
「やれ」
触れ合った状態の口唇が、低い音を出す。それに黒子は息を呑んで怯え、覚悟を決めた。
成長段階とはいえ、自分のそれより逞しい首に縋り付いて黒子はもう一度口唇を重ねる。尖らせた舌で軽く結ばれた口唇を割り、その中へと侵入する。黄瀬が言ったように歯列を、口腔壁を、舌を舐める。繰り返し、繰り返し、黄瀬は口腔内で溜まった唾液をこくりと音を立て飲み下した。
黒子を褒めるように大きな手が腰を撫でたので、口唇を離す。黄瀬は気を害した様子もないので、それで正解だったのだろうと、黒子は安堵の息を知らず吐き出した。
だが、それも束の間。黒子は手を取られ、黄瀬の昂ぶり始めた熱に触れさせられる。
目の前で黄瀬は口唇を歪ませ、嗤う。
「さあ、どうしよう」
黒子は服を脱ぎ落とし、完全な裸体を外気に晒す。そして、着衣も乱さずソファーに座たままの黄瀬の大腿を跨いだ。
黄瀬はゆっくりと大きな手で膝から大腿を舐めるように撫で上げ、クツクツと咽喉で笑う。緊張する華奢な体躯が引き寄せられ、あやす様に首筋を舐められる。舐められたかと思えばやんわりと食まれ、肌を千切られるように吸い付かれた。きっとそこには、冬休みに入ってからずっと消えることの無い、黄瀬の所有印が捺されている。白い地肌の上でしか咲かない赤い華の形をして。
「どうするんスか、やってくれるんスか、やってくれないんスか、ねぇ、どうするんスか?」
黄瀬はキスだけは強要するようなセリフを口にしたが、それ以降はそんな口振りはしなかった。熱を持ち始めたそこを黒子に触れさせた後も、風呂場に連れて行って欲しいと言っただけで行為を強要させる素振りは全く見せなかった。それどころか、黒子に帰る様に言ってきた。
『だって、黒子っちが傍に居るのに触れないってすっげぇ地獄なんスよ。どうせ居るなら触りたいし、ヤリタイ。でも、見えないからね。しょうがないでしょ。だから、帰って?』
だが、双眸を包帯で封じられている彼の足取りは決して信用のできるものではなく、この場に一人残せばどうなるかは明々白々としていた。だから、黒子は残った。残って、彼に追い出されないために、こうして淫猥な願望を満たそうとしている。
けれど、やはり、わからないのだ。本当に、黒子はそういう知識なんて必要としなかったし、黄瀬と関係を持つことになって覚えこまされたのは奉仕に関することだけだった。これからすることもまたそうと呼べなくもないが、こちらは本当に受身ばかりでわからないし、覚えていない。
「やってくれないんなら、帰ってね?オレは堪え性なんてないんスから」
「っ……どう、すれば、いいです、か」
「ああ、そっか。うーん、じゃあ、手ぇ貸して?」
不安を覚えながらも差し出された手に黒子は自分のそれを重ねた。
黄瀬はその手の形を確認するように触れ、その細い手首を捉えて指を口に含んだ。黒子は驚きに眼を見張り、しかし、直ぐに耐えるようにその瞳を閉ざした。
口腔の生温かさと肉厚な舌の感触をたった一本の指が感知する。指の腹が舐められ、付け根に舌がじっとりと這う。くすぐったいような、微かな電撃が流れるような刺激に黒子の背筋が震える。口唇を噛み締めてやり過ごそうとしてみるが、微かに喘ぎが漏れていく。そして、偽りようもなく、黒子の体内に熱が篭もり始めた。
一本、二本、三本と第二指から第五指まで順に口に含まれ、全体を唾液で塗らされる。
黒子の指を食み、黄瀬は笑った。
「これでね、オレがいつもやってるみたいに、黒子っち後ろに入れて解すんっスよ」
華奢な腕を掴んだ手ではなく、もう一方の手が臀部を摩り、割れ目を縫って蕾を撫でる。
黄瀬はふと嗤い、指を食む歯に力を籠めた。
「っ、いた、い」
「本当?ね、黒子っち、ココ、わかる?オレがこうして舐めたり噛んだり擽ったりするとパクパクするっスよ。痛いって言いながら、今の方が反応いい。ふふ、くすぐったくて気持ち好かった?痛くて気持ち好かった?そうだよね、オレも黒子っちに舐められると気持ちいいもん、指でも、オレのでも」
珍しいほど上機嫌な様子を見せる黄瀬は細い指を口付けて解放する。
黒子はてらりと光る指を撫で合わせ、腰を浮かした。濡れていない手で黄瀬の肩に縋り付き、手を臀部より下へと向かわせる。割れ目に濡れた感触がし、一瞬身体を竦ませたが、黒子は更に指を包ませる。漸く辿り着いたそこは黄瀬の言う通りピクリピクリと反応していた。
息を止め、黒子は引掻くように蕾を抉じ開け一本指を潜り込ませた。
「ひぅ、……は、ぁ」
第一関節までは入ったが、怖くてそこから抜くことも出すことも出来ず、広い肩に縋って黒子は喘ぐ。黄瀬は黒子を宥めるように大腿を摩るが、手伝う様子はない。それどころか、やはり、こう言う。
「いいよ、止めても」
続けられる言葉を遮り、黒子は頭を振って続けると答える。黄瀬は良く出来ましたと言わんばかりに笑みを湛え、黒子の肩にまた所有印を刻み込んだ。
息を整えて黒子は、ぐぐ、と指に力を入れ完全に嵌入する。びくびくと異物感に震える熱い肉壁が、どこかしかでその異物を悦んでいることがわかった。
冬休みをいれて約三週間と言ったところだろうか。この身体に快楽を植え付けられた期間は。流石にそれだけやられていれば、種も芽吹くということか。黒子は思い知り、涙を流した。
務めて無心に、何も感じず、何も感じないように、黒子は指を動かして少しずつ数を増やす。それでも、心とは裏腹に身体は快楽を浅ましいほどに拾い上げてくる。黒子の息も、少しずつ上がってくる。
「黒子っち、ちょっと入れさして?」
そう言って黄瀬が大腿を擽る。黒子がひくつく蕾から指を引き抜こうとすると、黄瀬は指で抉じ開けたままにして、と言う。
意地の悪い話だった。黄瀬は、黒子に自分が感じていることをずっと自覚させたがっていた。休みの間も、学校がある日も、自覚して泣いていると知っている今も。黄瀬は言葉を求める。まるで逃げ道を自分で塞がせるように。
黒子は歯を食い縛りながら、その要求に応えた。開かせる二本の指が緊張して震える。黄瀬の長い指が入り口を撫で、次いで身体を期待に震わせた黒子は涙を零した。本当に嫌だった。もう、何も知りたくはなかった。なにも、思い知らせないで欲しかった。
けれど、黄瀬はそれを許さない。
「ひっ、ああっ……は、くぅうっ」
いきなり節榑立った長い指を四本入れられた。入り口にはまだ黒子の指が二本ある状態でだ。黒子の蕾は合計で六本の指を呑み篭んでいることになる。黒子は初めて感じる強い圧迫感に襲われ、喘ぎ苦しむ。
「苦しい?でも、痛くないっスよね?頑張って解してたっスもん。―――ほら、こうやって、動かしてやると、気持ちいいでしょ」
「ひ、あ、…ん、あっ、ああっ」
激しく抽挿を繰り返し、黄瀬の指がばらばらに蠢く。裂ける、と思いはしても黒子は自分の指が引き抜けなかった。引き抜いたらそれこそ、裂けるような気がした。
「こわ、ぃ……は、うん、ああ…」
泣いてこわいと訴える黒子の眦を口唇で探り当て、黄瀬は流れる涙を啜る。耳介に音を立てて口付ける。それらは優しげであるのに、指は暴虐的でしかなかった。
「こわくないよ、つらいわけでもない―――黒子が怖いのは、気持ちがいいって、わかることだろ?それを、自覚しそうで、つらいんだろ?」
漸く、指の蹂躙が止む。黄瀬のもう一方の手で白藍色の髪を掴まれ、顔を上げれば、彼は口元を歪ませて嗤っていた。いままでよりもずっと、酷薄な様子で嗤って、黄瀬は、そう言ったのだ。こわいんじゃない、つらいんじゃないと。いい加減に、この身体の変化を認めろと。
黒子は涙を零して、必死で頭を振る。見えない黄瀬への応えではない。黒子が、そんなこと認めたくなかった。
「馬鹿な黒子……ほんと、なんにも理解しようとしない」
苛立ち雑じりに黒子の頬に口付け、狙いが外れたのだろう、黄瀬は舌打つ。そのまま乱暴に舌を這わせて行き着いた口唇を貪った。
「で、どうする?オレは何もしない。黒子もこれ以上したくないなら直ぐに帰れ」
冷酷な声音で黒子を冷遇する。
激しい拘束には胸に息苦しさを、暴虐な性交には心に痛みを覚えた。きっと、この関係上で突き放されたら、喜びこそすれ、悲しむことはないと黒子は思っていた。それは正解だが、それでも、正解とも言い切れない。今、黒子の胸はそのときよりも酷い息苦しさを、そのときよりも酷い痛みを、感じていた。悲しみなんて、入る隙はなかった。
「かえ、ったら、おとなしくっ、しててくれるん、です、か」
涙混じりに、しゃくるように、黒子が問えば黄瀬は嘲笑った。本気で馬鹿か、と。
「熱が溜まったこの状態で、何もするなって?無理言うなよ。大体、いくら目が見えなくても、生活するためには動かなきゃなんもできないんだぜ?……逃がす心算はさらさらねぇけど、一週間だけなら手ぇ離してやる。好きにしていい。―――どうする、黒子?」