気が付いたら温かみのある室内で目が覚めた。
外は鳥がさえずり、ほんの少し開かれたカーテンからは朝日が射していた。
辺りを見渡せば、今自分がいる大きなベッド、小さな机、クローゼットしかない。なんだか寝るためだけの場所らしいのだが、見覚えのない環境にロイが首を傾げれば、ふと思い出したのは昨日の出来事。
よく知りもしない女に家族にならないかと手を差し伸べられて、そこに潜む真意もわからずその手を取ってしまったことを。
寂しいから、そう彼女は言ったがそれが真実であるとは限らない。『善意』。その言葉ほど怖いものはない。それをロイは痛いほど知っている。
なのに何をやっているんだと、ロイが後悔の海に沈み込んでいれば、どこからか流れてくる匂いに気が付いた。
パンでも焼いているのだろうか、その匂いは香ばしく甘い。思わず食欲をそそられロイの腹が鳴った。たった一人の空間ではその音は大きく聞こえて、ロイはびくりと肩を揺らし誰にも聞こえないようにと反射的に自分の腹を両腕で隠した。頬は高潮して熱を持っている。
腹を抱えこみ、誰の気配も感じないとわかっていながら、それでもロイはそこを解放することができなかった。
腹の虫が鳴いて空腹を訴える。
それは当然のことなのに、此処では。あの女の住処であるのだろう綺麗なこの場所では、それがとても恥ずかしく、そして浅ましく思えた。
家族になろうといったあの女と自分はやはり違う世界に生きていて、そうして自分はまかり間違っても此処にはいられないのだと、実感させられた。
利用するんだと、言い聞かせたその決心が揺らいだ。
それでもいつまでも此処にいるわけにもいかず、ロイはベッドを降りた。
寝る前に貸し出された寝着は大きくて、ロイの丈に合わせ手の裾も足の裾も折ったはずだったが寝ていて元に直ってしまったのだろう。今は床をずるずるとズボンの裾が滑っている。
どうでもいいか、一瞬そんな考えが浮かんでこの部屋の唯一の扉のドアノブに手を掛けたが、なんだか今の自分の格好が無様に思えてやはり裾を直すことにした。
けれど屈もうとした瞬間に扉が開いた。
ロイが起きているとは思っていなかったのだろうか、現れた金色の瞳は大きく見開かれる。
そうして。
「おはよう」
そう云って金色が自分を映しながら微笑んだ瞬間に、ロイは何故か安堵した。
いままで巡った思いのすべてが吹き飛ぶほどに。
「おはよう、ロイ」
通されたダイニングルームのテーブルには既に朝食が用意されていた。
小金色のフレンチトースト、サラダ。それからホットミルク。ロイの目の前にはそれが用意される。
こんな豪勢な食事は初めてでロイが無言でフォーク口に運んでいると、エドワードはふと思い出したように聞いてきた。
「そういえば、ロイは今何歳なんだ?」
在り来たりであり、必然でもあるその質問にロイは眉間に皺を寄せる。
「なんで」
「いいから。因みに俺は二十六歳だ」
そんな聞いてもいないことを口にしながらエドワードはコーヒーを両手に持った。カップを囲いながら熱を持つ水面に彼女が息を吹けば、湯気はユラユラと天井へと昇っていった。
なんだかその様が子どもっぽく見えてそれで自分よりも十歳も上なのかと眉を顰めたのは内心での話。実際には顔に出ていたのだろう、エドワードも文句でもあるのかとジトッとロイを見つめてきた。もしかしたら自分は答えたのだからロイも答えろと言う無言の要求だったのかもしれない。
「……十三歳」
意図がわからないまま、けれどロイが答えれば、金色の瞳は嬉しそうに笑い、間もなく何か悩むように金色の髪を揺らして小首を傾げた。
「…なあ、字の読み書きは出来るか?」
「一応」
「そうか、なら問題ないな」
ロイには何が問題ないのかわからないまま、けれどエドワードの中では何かが決定していく。
秘密と言うよりも蚊帳の外に追い出されているようで、ロイはそれが気に食わない。眉間に寄っていく皺を解そうとホットミルクが入ったカップに手を伸ばせば、ほんのりとした温かみに自然と顔が和らいだ。
それも目の前の彼女は金色の髪を揺らして笑顔でその言葉を言い放つまで。
「ロイ、お前今日から学校行け」
その言葉を聞かなければ、初めての朝は澄み切った青空と同様にまだ清々しい気分でいられたのだろう。
突如振ってきた爆弾発言に、ロイは顔を強張らせるより道はなかった。
(なんで、なんでこうなるんだ)
今ロイの頭の中を占めるのはそれだ。
窓に一番近く、黒板に一番遠い席に座るロイはボウとそれを見つめた。
エドワードが用意した真新しい服に袖を通し、おいでおいでと手招きされるように連れてこられたのは近所の学校。
古いわけでもなく、新しいわけでもないそこの校長は、自慢らしいふくよかな白い顎髭を手で梳きながら手続きをしたその日のうちに入学を許可した。
ご機嫌に送り出すエドワードとわかれ、君が勉強する場所だよ、そう云って校長に案内されたのはたった一つしか使われていないこの教室だった。
今情勢では子どもを学校に通わせてやれる余裕がある家庭は少ない。
若い女教師が説明をしながら、黒板に白い文字を走らせ授業を進めていく姿。ノートに書き写していく男女合わせて四十人に満たない生徒。それがなんだか、荒れ果てた世界の情勢を厭に見せ付けていた。
それにしてもと、ロイは苦々しく溜息をついた。
隣にいる少年は何故か自分をじっと見る。それは穴が空くのではないかと思えるほど。授業を中断させて校長が直々に編入生だと紹介したときは、教室中の子どもがロイに視線を集中砲火のように浴びせたがそれも今はやんでいる。今なお浴びせているのは隣の真っ黒な瞳だけだ。
居心地悪くは有るが、気にしていたら相手の何らかの感情を増幅するかもしれないとロイは気付かないふりをした。
ほかの事を考えようと、視線を前に向ける。
飛び込んでくるのは白い数字。黒板に書かれている文字を見て、ロイにもその内容はわかる。わかるが、如何せんこの教室にいる子どもと同じように理解できるわけではない。
以前いた教会では書物を通して勉強していた。だからロイが学校での勉強で付いていけるのは恐らくは歴史、物理、地理などの社会系等と国語のみだ。今目の前で展開されている授業は算数。
「さあ、解いてみましょうか」
などと女教師は媚を売るような声で言うが、基礎がロイにはないのだからどうしようもない。
ロイは溜息をついた。
こんなこと、あの女が判らないわけがない。ならば何故こんなところに自分を放り込んだのだろうか。
いくら考えても答えは出ない。
「あの女、実は俺が嫌いなのか。苛めたおしたいのか」
ぼそりと呟いたそれは存外にロイの心に突き刺さった。
その言葉が真実ならば、今朝向けられたあの笑顔も偽りなのだろうか。
ロイは憂鬱な気分のまま窓の外を見た。
「な、お前、ロイじゃねぇ?」
引き戻したのは、隣から掛かった声だった。
「な、ロイだろ」
重ねて馴れ馴れしくファーストネームを呼ぶのは、ずっと自分を凝視していた少年だった。ロイと同じく真っ黒な髪。真摯な表情をしていたら鋭利に見える黒瞳。見覚えがないのだが、彼は自分を知っているようで、やはりロイの名を呼ぶ。
「いやー。元気だったか?久しぶりだよな。俺はあの後直ぐにいい人に拾われてよ。今はヒューズって名前を貰ってんだ」
嬉しそうに笑うその笑顔に何かが重なる。
ロイの口は操られるようにその名を模った。
「…マー、ス?」
目の前でにやりと口唇を歪める少年が、ロイの記憶の中の幼い友人と重なった。
「バーカ、気付くのが遅いんだよ、お前は」
「じゃあ、お前今はエドワードさんの家に居んのか」
ヒューズが羨望の眼差しをロイに注ぐ。
ほんの少し、懐かしい友が彼女を呼んだ事実が気に食わず、ロイは片方がピクリと動く。
察するにエドワード・エルリックは有名な人物であるらしい。考えれば校長に面会を求めたエドワードに対し、若い男教師がえらく緊張していたようにも思えた。校長自身、まるで身分上の人間と接しているようにエドワードを敬っていた気がする。
考古学者、と彼女は云っていたが、学者はそんなに人よりも上にいける人種なのだろうか。
「聞いてんのか、ロイ」
「ああ。昨日丁度拾われた」
「拾われたって、お前犬や猫じゃねえんだからよ。そういう言い方は」
止めろよ、そう続いたのだろう言葉をロイは遮る。
「マース・ヒューズ、俺らは、それ以下だろう?」
授業が終わり、夕日に照らされた家路を歩いているロイはその足を止め、ヒューズを見た。彼はロイに遅れて足を止めた。
言葉の意味が解らないとは言わせない。そんな思いがロイの眼には込められる。
けれどヒューズはロイの数歩先にいるまま、漆黒の瞳を振り返らない。それでもロイが告げた言葉の意味が解り、一瞬息が詰まる。
「今は、違う」
そして、苦しげにそう吐き出した。
今は、違う。昔とは違う。ヒューズには言えるその言葉が、ロイには言えない。
「そうか」
だから、そう言った。そう言うしかなかった。
ヒューズが立っている場所は、ロイが立っている場所とは違うのだ。昔のようには、彼は共に立ってはくれない。
目に見えるこの距離のように。
少しだけ、それに寂しさを感じながらロイはもう一度落陽に照らされたその道を歩き始めた。
たった一人で。
あの時、共に逃げ出したほかの子どもたちは、どうしているのだろうか。
ヒューズのように、幸せなのだろうか。
昔とは違う。そう言えるほど。
全く慣れない道を一人で歩いていると、目の前に金色の姿が見えた。
ロイの足はぴたりと止まり、その姿が近付いてくるのを待った。
今は陽が落ちて、空は藍の色に染まる頃。それでも彼女が持つ金色はその姿を模る。
それがなんだか眩しくて、ロイは眼を瞑った。
心のどこかにあるイタミを、沈めていくように。
「お帰り、ロイ」
「ただいま」
微笑む彼女は飛びっきり綺麗だと思う。汚い、自分とは大違いだ。全く持って、憎々しい。
―――憎々しい。
「学校はどうだった?」
自分が学校に行っている間に用意してくれていたのだろう、ベッドメイキングされたそこに腰掛けロイはエドワードを見た。
彼女は帰り道の途中で大量に購入したロイの服を整理している。そこから視線を外し、外を見れば空の闇より更に深い闇が森を模っている。
思い出すのはやはり懐かしい彼の姿。
ただ、脳裏に思い出されるのは、昔の彼の姿だった。綺麗な服を着た今の姿ではない。
そう、昔、だ。今は、別の人間だ。
あの過去を捨てられるならば、自分とは違う。
「昔の友人に会った」
ロイは真っ暗な外を見つめながら、そう答えた。
「そう。勉強は?」
よかったね、普通ならばきっと言うだろうことを彼女は言わなかった。
それが、以外で、けれど彼女らしく思えてロイはエドワードを見た。彼女は服を丁寧に折りたたみ、新しく用意したロイの部屋の箪笥へと仕舞っていく。
ロイの視線を感じたのか彼女は顔を上げた。
「もしかして、解らないとこなかった?」
彼女は眉間に皺を寄せて、そんな頓珍漢なことを聞いてくる。
ロイは馬鹿かと溜息をつくが、エドワードが言ったその言葉はつまり。
「勉強についていけないこと解ってて放り込んだのかっ」
「ん?当たり前じゃん。なに言ってんだ」
確信犯だったことに驚いて勢いよく立ち上がり叫んだロイに、エドワードはきょとんとそんな言葉を返した。
騙された。
何故かロイはそう思った。別に学校に放り込まれたこと自体に悪意が込められているとは思わなかったが、それでも騙されたと思った。
落雷に当たったかのように立ち尽くす子どもにエドワードは呆れの溜息を零した。
「あのなぁ、一般的な十三歳がどれくらいの知識を得ているのかなんて俺は知らないけど、今の今まで勉強する機会がなかった奴が基礎知識もなく学校の授業になんて付いていけるわけないだろう」
だったらその基礎知識も植えつけないまま、学校に通わせるような真似をするな。心底そう思う自分は決して悪くはないはずだ。
ロイは顔を引き攣らせ、密かに固めた拳を震わせる。
「ロイ、学べる時は学んでおいたほうがいい。いろんなことを知っていくのは楽しいし、それに役に立つ」
「だからって…」
エドワードの言葉は確かに一理ある。だが、勉強なんて考古学者の彼女が教えてくれてもいいはずだ。博識な彼女がいるのだから態々学校なんて場所に通う必要があるのか。
そんな不満ありと一見してわかるロイの表情を、金色の目に映しながらもエドワードは何がわからなかったと聞いてくる。
「多分数学はわからなかったはずだけど、他は?」
そう尋ねたエドワードは既にすべての服を畳み終わった後で。
「…現代社会」
乗せられているような気分でロイが答えれば、エドワードは頷いて。
「じゃ、ご飯食べたら勉強しようか。ほかにもいろいろ教える。料理の仕方、自分を守るための体術、生きていくための知識。すべて、俺が知りうるすべて。お前にあげる」
そう云って笑った。
それは綺麗で、力強くて。
だから、憎々しくて、厭わしくて。
いとしくて。
汚れた自分を愛してくれる、彼女が。
愛しくて。
ダイニングルームへ向かうため、階段の最後の段を降りようとしたとき、彼女は言った。
あのときの言葉の意味を。
「ね、ロイ。人が変わっていくこと仕方ないよ。どんな人間だって、幸せを求めてしまう。そのために変わってしまう。それを罪だと、言うことは出来ないよ」
ヒューズのことを言っているのは明確だった。
昔の友人、そう言ったせいだろうか。彼女はロイの中の何かに気が付いているようだった。
変わっていた友に対しての想いを。
そして、何かを知っているようだった。
彼女は、心のうちを読まれたように感じて愕然としたロイに、手を伸ばした。
「大丈夫だよ」
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