第四話 


 







「盗まなくては生きていけないとお前は言ったけれど、貧困に喘いでいるのはこの国に住んでいる人間の殆ど。懐が潤い、何の不自由も感じていない人間などほんの一握りだ」

それを。それをほんの一握りに入っているお前が言うのか。
この国の現状など、仕事も、帰る家もない浮浪児である自分のほうがよく知っている。
少年は込み上げる不快感に力が抜け落ちた拳をゆっくりと握り締めた。
そんな様子を彼女は凝視める。

「『綺麗な服を着て、良いものを食べている女』には言われたくない?なら、お前の足元にあるそのリンゴ。いくらするか知ってるか?」

そんなこと、深く意図しなくても思い出せる。

彼女が言ったとおり、この国の殆どの人間が貧困に日々喘いでいる。
餓死した人間など、裏の道を歩けば馬鹿みたいに転がっている。
きっと、今この瞬間も。どこかで誰かが空腹により目の光をどんどん失わせて、終には肉を腐らせ街は更なる腐臭に満ちていくのだろう。
そんな末路を歩むのは、決して自分のような浮浪者ばかりではない。職を持っている者だって道端に転がり死を迎える。

現代において、職を持っているか持っていないかなど、大した差はない。特殊な職でも持っていない限り、働いて得られる給金は一人の生活を賄うことすら危ういほどに微かなものだからだ。
強いて違いを上げるならば、盗みで生命を繋ぐか、繋がないかだ。
職を持つ者はいくら生活が辛くても、解雇を恐れて窃盗はしない。
体裁を気にする必要がない自分たちだからこそ窃盗で生命を繋ぐ。そして、まじめに働く彼らよりも贅沢なものが手に入る。
少年の足元のリンゴは、確かに贅沢品だ。普通に働いていたら、一生口には出来ない。そんなものなのだ。

「リンゴ一個、七百センズ」

答えようとはしない少年の声の代わりに響いたのは、涼やかな彼女の声音。

「盗んだのは六個。合計で四千二百センズ」

「どうせぼったくりだろ。そんなにでかくもないのに」

リンゴは確かに真っ赤だが、まだ小さな少年の掌にすっぽり収まる小ささ。これで何故七百センズもすると言うのか。もう三年と長く続いている不景気ではあるが、去年を参考にしても、せいぜいよくて価格が五百センズを超えることはないはずだ。
少年はそう思い、目の前の金色の瞳を睨みつけた。
彼女は静かにその眼差しを受け止め、尋ねた。

「…ぼったくり、か?」

「違うとでも?」

「別の果物屋ではそれよりも小振りで青いリンゴが倍近い値段で売られている。けれど、大概の果物屋がその値段でリンゴを売りに出しているだろう。それが普通の価格だからだ。 ……あの店主は、自分の生活が出来るギリギリの利益しか求めていない。だから商品自体は市場のものよりも安い。お前が高いと言ったリンゴは、破格の値段だよ」

「え、……」

少年は驚いた。
自分の行動範囲は限られている。だから、物事の判断材料となる情報が、偏ったものとなっていることには自覚があった。それでも持っている情報から、あの果物屋はぼったくりなのだと、思った。だから、あそこを選んだ。
盗むなら、人の足元を見ているあの店主のところでと。
それは人誅などと言う意味合いがなかったとは言い切れない。でも、言うならば、不利益が重なっても生きていくだけの利益を上げている場所だと思ったからだ。
生きるために盗みを正当化した自分だが、生きるために誰かを死に追い込むことは出来なかった。

「お前が盗んだリンゴ六個の売り上げ分、得られる筈だった利益が失われた。それは小さな額かもしれないけれど、彼にとっては見過ごせない。どんな小さな利益だって彼の最低限の生活を守るものになるから」

彼女はただ真っ直ぐに少年を射抜く。その眼差しに軽蔑の色はなく、真摯さだけを思わせる。
言葉は限りなく自分を責めるものであるはずなのに、耳を傾けるつもりになったのは彼女から受けるそれの所為だ。
普通なら、疎ましさでこの場を去っていた。
恵まれた位置にいる人間からの説教など聞きたくもないから。

一定の利益が守れなければ、彼は生活が出来なくなってしまう。それは死に繋がる。だからこそ定めた利益を守らなければいけない。
けれど、その利益を生み出すはずだった商品がない場合、どうすればいい。

沈み始めている夕日に照らされた墓地の中、ただ一つ響く声は少年に問う。

決まっている。
数が減った商品で定まった利益を得ようとするならば、手段は一つだけだ。商品の価格を上げるしかない。
容易く導き出された答えではあったが、少年にはそれを音にすることが出来なかった。

「わかるか?」

彼女はただ静かにそう言う。

「今、その頭の中にあるのは答えだよ。他にもやり方はあるが、金銭面に余裕があまりないあの店主はそれしか選べないだろうね。けれどその方法は、買って行ってくれる人たちの生活を切迫することに繋がってしまう。こんな酷い時代でもせめて一人でも多くの人たちと少しでも永く共に生きようと考えている彼の願うところではない。だから、お前が窃盗を働いたとき、あんなに必死に盗まれた物を取り戻そうと追いかけてきた」

彼女が話したことは、知らなかった、のではないかもしれない。どこかで気が付いていながら、生きるためにと眼を瞑っていたのかもしれない。
街の日が当たらない道端で腐臭を漂わせている誰かは、自分の所為でそんな末路を歩んでしまったのかもしれない。
けれど、窃盗を行わなければ、金銭を得られない自分は死ぬしかない。同じように食物を求めて喘ぐ誰かを気にしていたら、自分の明日がない。そんな自分を彼女は責めるのか。
心のうちに生まれてしまった少なからずの罪悪感、反発感の鬩ぎ合いは胸をぎしぎしと軋ませるほど激しくて、少年はなんと答えればいいのか、わからなかった。
彼女はただそんな少年を凝視める。

間もなくして少年の胸の内で葛藤に勝利したのは様々なものに向けられる反発感。
胸の奥、罪悪感のしこりがまだあって、ずきずきとなんだか痛むけれど。少年はそれと向き合いたくなくて、身体の奥深くへと沈めていった。
彼女には何一つとして声を出さずにいれば、仕舞には無反応さに呆れて自分の前から去っていくだろう。それはそれで、なんだか反発するように心がぎゅうぎゅうと締め付けられたが、それもまた身体の奥底へと沈める。
とにもかくにも、これ以上自分の心を掻き回さないでくれと少年は願い、唇を噛み締めた。
それが少年の答えだと理解したのか、彼女は少し悲しそうな表情を覗かせる。そうしてゆっくりと一度瞬きをして、言葉を紡いだ。
そこには先程の色はなく、鮮やかな金色が少年を映し出していた。

「リンゴを、たった一つ買おうとするだけでみんな死に物狂いで働かなくちゃいけなくなる。お前はそれを盗んで店主に苦渋を味合わせている。なあ、仕舞にはその人たちを馬鹿にするように、食べる気もないと捨て置く気か?」

自分を射抜く鮮やかな金色の視線の強さに、少年は漸く理解した。
彼女は怒っているのだと。理由はなんだか金持ちらしくないことだと思う。なんだって、彼女のような金持ちが一般庶民のために怒るのだろうか。

「お前は、生きるために盗むのだと言った。ならば、ちゃんと食え。でないと、お前の盗む姿を羨ましげに見ていながらも、その一線は越えずにいようと耐えている就労者たちの必死の矜持が無意味で軽薄なものなのだと思われてしまう。みんなに生きて欲しいと、そう願いながらも自分も生きていく為にお前のような小さな子どもを追い回す度に心を痛める店主が滑稽に見えてしまう」

ひんやりとした空気の中で、彼女は少年のほうへと踏み出す。
ゆっくりと近付いてくる金色の姿。それが少年にはなにかの崩壊のカウントダウンのように思えた。
丁度、少年の一歩の歩幅を空けて彼女は立ち止まり膝をついてまだあどけなさが少し残る少年の顔を見上げた。

「窃盗はどんな理由があっても犯罪。それは、理解してくれ。生きるためにこれからも盗みを働くならば、もう一つ理解を」

「…説教なんて、いらない」

出すつもりのなかった声は震えている。
彼女はその声に眼を微かに見開く。きっと、聞けないと思っていたのだろう、自分の声は。
見開いていた金色を緩ませて、彼女はそうじゃないと空気を優しく震わせる。

静かな彼女の声に本当は心が揺さぶられている。

「説教とは少し違う。もう一つは、この世界で生きているのはお前だけではないこと、それを理解しておいてくれ」

手が、口唇が震えた。寒いのだろうか。自分は。
違う。生きる決意をした。それが、ぼろぼろと、崩れていく。足元が崩れていくように。そうして、捕らわれる。不安定な世界に。だから、恐れている。震えは、それの表れなのだ。
壊れていこうとする何かを引き止めように、少年は震える手で拳を固めた。
ほんの一瞬、彼女の視線を震えるそこに感じた。

彼女の話を真実とするならば、自分はここでは二度と窃盗はしないだろう。生まれてしまった罪悪感の所為で出来ない。それを見越して、あの店主の話をしたならば、彼女はなんと狡猾な人間なのだろうか。
生きると決めた。覚悟もあるはずなのに、自分が持つ唯一の生きる術を行使できない。
そうさせたのは、間違いなく目の前にいる彼女だ。
少年は彼女から一歩後ろに引き下がる。けれど、まるで逃げるようだとそれ以上は後退さることはなかった。

「もしも、ほんの少しでも、盗みを働くことに対して罪悪感が出来たのならば…」

ほんの少しだけ彼女は言いよどむように口を噤んだ。
そうして、あの時と同じように手を差し出して、彼女は口火を切った。

「俺のところにおいで」

「あんたの?」

「ああ。俺の家族になってくれない?」

「なんで、そんなものに俺が」

「等価交換だよ。お前はもう盗みながら生きていくのが難しいだろう?手が震えている。それは罪悪感ゆえではないのか。自分だけだった世界の視野が拡がったからではないのか?」

彼女は差し出していた手を張った所為で赤くなっている少年の頬にやる。
撫でる感触はひんやりと冷たくて、頬の熱を冷ましていく。それを心地好く思う一方、少年の身体は動かなくなり、彼女に凍り付けにされたのではないかと錯覚を起こした。
原因は目の前の金色の瞳だ。
逸らすことができない。まるで瞳から形のないものが侵入して、自分の内部が侵食されていくよう。
そう思いながらもそこに嫌悪はなく、彼女から視線を外したいとも思わなかった。
稀有なほどに鮮やかな金の色は、紛い物ではなく本物。そこに存在し続ける自分の姿に、少年は陶酔にも似た甘美な感覚に襲われた。

人間はこういうときに言うのかもしれない。
魅了されると。

「だから、違う生きる道を教えてやる。罪悪感など抱かなくても、堂々と生きていける術を、お前にやる。けれど、それではお前が得をするばかりだろう?だから、俺にも何かを返して欲しい」

「何を、返せと」

「言ったじゃんか。俺の家族になって、てさ」

「それであんたに何のメリットがあるんだよ」

家族になったとしても、得などない。面倒ごとが増えていくだけだろう。
同情をされているのだろうか。そんな考えが少年の心に影を落とす。
同情ならば、冗談じゃない。

「寂しいから。独りは」

影を切り裂いたのは彼女の小さな呟き。それはなんだか悲しそうで、本当に寂しそうで。少年の心は何故かズキリと痛んだ。その痛みが今まで感じたことがないようなもので、少年は胸を押さえた。
彼女を見ているのがなんだか辛くて、少年は顔を背けた。

「仕事って?」

寂しい、その言葉から離れたくて、少年は話題をすり替えた。
それを解っているのだろうけれど、彼女もそれに乗ってくれた。

「これでも俺は考古学者なんだ。それの助手」

思い出したのは、まだ教会にいた頃。神様の存在など信用できなくて、日に一度あるミサを抜け出し書庫に篭もっていた。大した数はないけれど、そこには古い本があった。
始めはただ見ているだけ。けれど年を重ねるごとに、読めるものが出てきた。そうして文字を追い頭に入ってくる知識、誰かの遥かなる記憶。
いつだって、学ぶことが好きだった。
本が好きだったからか、施設で育った人間には珍しく少年は文字の読み書きが出来た。
荒廃から再生への道の途中にいる現代だからこそ、教会では教育なんてものを行う余裕はなかった。
教会を出てからは勉学など欠片として転がってはいない。
だから、少年にとって彼女の言葉の誘惑はとても強いものだった。
けれど、差し出されたその掌を取れるかと言えば、動けないこの現状が答えとなる。
手を取りたい。
傍にいたい。
けれど、馬鹿みたいなプライドと思い出したくもない過去がそれを邪魔する。

前に踏み出せず、唇を噛み締めている少年の心情に彼女は気付いたのだろう。
切っ掛けを作ってくれた。

「俺は、エドワード・エルリック。お前は?」

「俺って何だよ。女の癖に」

与えられた切っ掛けが嬉しくて、恥ずかしくてそんなことを言えば、彼女はいいじゃないかと笑う。
そうして、再び名を問われて少年は墓地の中心に眼をやった。そこに立つ一つの墓に。
そうして、彼女の手を取り、その名を唱えた。

「ロイ、ロイ・マスタング」


一瞬、金色に他の色が混ざった。それは見たこともない、悲しそうな、嬉しそうな、寂しそうな、怒りのような。あらゆる感情が複雑に混ざり合った色だった。
けれどそれはすぐに消え、ロイはそれを追求することが出来ないまま。エドワードが行こうと告げる。


頬に触れたときには冷たかったはずの彼女のそれは、自分のそれと繋いだときから温かい。
引っ張られそうになる温もりを手に感じながら、ロイは心に言い聞かす。

自分はエドワード・エルリックを利用するだけ。生きるために利用するだけだと。
決して、過ぎた感情など抱くなと。



コツコツと空虚に足音を響かせながら下りる階段は、なんだか血の絨毯を思わせる。ロイはその情景に堕落していく感覚に覚え背筋を振るわせた。
エドワードはそんなロイを守るように、まだ小さな手をしっかりと握りしめていた。









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