会いたくない。本当にそう思っていたのに、心のどこかで自分は確かに喜んだ。金色の姿を闇のようなこの黒瞳に映した、その瞬間に。
「こんにちわ」
会いたくないと、両の指を絡めて縋るように祈りの真似事をしていれば、頭上から降ってきたのは綺麗な声。女の声音ではあったが差して高くもなく、低くもないその音は少年の鼓膜を優しく震わせる。
まだ浅い記憶の中でその声を聞いた。手に額を擦り付けるような状態のまま少年は思った。
幾分と経たずしてどこで聞いたのか思い出せば、恐れを抱いたわけでもないのに栄養の足りない細い身体がびくりと震えた。そうして勢いよく頭を上げれば、そこにいたのは脳裏から離れなかった金色の人。会いたくないと祈っていたその人。
彼女は何故か機嫌がよさそうに笑っていた。
少年が今いる場所は千五百段もある階段の頂上の手前。奥には寂れた墓地と延々と広がる森以外はなにもない。そんな場所だからこそ街の人間が訪れることはなかった。人の気配を好まない少年だからこそ、そこはお気に入りの場所になった。
なのに、何故彼女がここにいるのか。
目を見開いて、何か言おうとするがなにが言いたいのかわからず口を閉ざす。それでもなにかを言いたくて、少年は何度も口を開く。
まるで魚のような少年に彼女は変わらずニコニコと笑顔を向け続けている。
光のない昨日の出会いより、日暮れ前の朱に染まった日の光の下にいる今のほうが彼女は美しく見えた。だからこそ、目の前の笑顔を不審に思った。
片目を細めた少年に、気が付いたのか彼女は黒瞳と金瞳が合うようにと冷たいコンクリートの階段に膝をついた。
綺麗な容貌が間近に迫り、どくどくと普段よりとても早いリズムで脈を刻む左胸。たかが女一人に何をこんなに心乱されているのか。
つい先程、恋情ではないのだと否定した少年にとっては、荒い心音を病気ではないのかと疑いたかった。
「な。歯、食いしばっとけよ?」
突然振ってきたなんだか物騒な言葉に、え、と顔を上げた途端、頬に衝撃が走った。
次第に熱を持ち、ひりひり痛み出すその場所に少年は手をやれば、冷たいそれが心地好く感じた。
目の前の女性が自分を張ったのだと、漸く理解できた。
けれど、それの意図がどこにあるのか分からなくて、少年は唖然と彼女を見上げる。
彼女はにっこりと笑い、自分の左目の下を指して言った。
「昨日のお返し」
指差されたそこは、少年が昨日打ってしまったところだ。
暗い路地裏で、あの時彼女は痛みに声を洩らしながら、その場所を押さえていた。随分と強く打ってしまった自覚があり、内心痣になってはいないかと心配をしていた。
だから、滲みも痣もない肌に、少年はお返しに憤慨することも忘れて安堵の息を洩らした。
「あれ、もしかして心配してくれてた?」
先程とは違う、彼女はふんわりと嬉しそうに相好を崩して少年に顔を寄せる。
間近に迫った綺麗な容貌に少年は息を呑んで顔を朱に染めた。それを見られないようにと顔を背ければ、柔らかい声音でくすくすと笑われた。
それがなんだか遊ばれているようで悔しさが湧き上がってくる。
「別に心配なんてしていない」
「そう?それは残念だ」
せめてもの意地とばかりに心配などしていないと言っても、彼女は信じていないらしく、微笑が消えることはない。
それが更に少年の悔しさを刺激する。
「っ…、それよりも何か用があるのか」
嬉しそうに笑っている彼女をまだ赤みの引かない顔できつく睨みつければ、彼女は怖がるどころか一瞬後に軽く声を上げて笑い始めた。
馬鹿にされているとは何故か思わなかったが、それでも少年にしたら気分が良いものではない。この場を離れようと立ち上がり、彼女には背を向けて階段を上る。
「このリンゴは?」
背中に掛けられた言葉の意味はきっと自分の隣にあったリンゴの事だろう。立ち止まることもなく無視すれば、彼女はいらないのかと言葉を重ねた。
少年には応えるつもりがないのだとわかったのか、彼女はもう何も言わずにリンゴを拾い、天へと昇り行く姿の後に続いた。
「せっかく盗んだものだろう?いいのか、置いていって」
階段を上れば、そこは背後に森を控えた差して広くもない墓地だった。
数が百は有りそうな墓石に囲まれて、中心には七つの墓石が立っている。七つの墓石の下には特別な人間が眠っているのかもしれない。墓地の構図は、中心に眠る七つの魂を守っているように見えた。
それらは大昔の人間のものなのだと聞いたことがある。加え、此処に眠る人間の正体の所為もあって、参拝する人間などもういないはずだ。なのに、不思議なことに、墓地には雑草の一つもなかった。
特に当てもなく、古びれ寂れたそこをさくさくと歩けば、少年の黒い頭がごんと重い音を奏でた。
じんと広がるように痛む箇所を右手で押さえ、少年は微かに呻く。
薄い靴に何か固いものが当たった。視線をそこにやればほんの少し泥が付いた真っ赤なリンゴが一つ、小首を傾げる様にそこにあった。これが頭に当たったのだろう。
自分はリンゴを階段に置いてきた。それを今もっているのは、後ろにいる彼女だ。
ならば、頭の鈍痛の元凶は、解りきっている。
「なにをするっ…」
眼にきつく力を込めながら少年が振り返れば、彼女は金色の瞳に強い光を宿して、そこにいた。
闇が光の前では無力であるかの如く。少年の漆黒の瞳が金の光を映したその瞬間に、すべてを奪われたかのように彼は腕を力なく下ろし、ただ立ち尽くしたのだった。
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