第二話 


 






朱く朱く染まりゆく空。
どこか心を締め付けるような哀愁を匂わせる色合いのそれよりも色鮮やかな赤い果実が宙を舞う。
それは弧を描くこともなく、パシリと乾いた音を立てて子どもの掌に吸い込まれていく。落ちる動きにあわせて手を下ろして衝撃を殺し、再び手の中から放り出した果実は天を目指して昇り往く。
けれどどうしても高く高くは昇れずに地へと墜ちていく。

それはなんだか人間のようだと、少年は思う。
愚かしく、浅ましく、欲に際限を見出せず、強く深くただ求める事を止めない。いつの日か滅びという名の罰で、その罪を贖うことを知らずにいた存在。

少年は落ちてくるリンゴを空に放り出すのを止めて、自分の隣に置いた。
そこには同じリンゴが二つ並んでいる。今置いたものも合わせ三つとも昨日少年が果物屋から盗んできたものだ。
だが、少年がそれを口にするはなかった。
幼く未発達な身体は空腹を訴え、痛みをもって食物を要求してきている。だから、決して食欲がないわけではない。
殊勝にも果物屋の店主に対して良心の呵責を感じているわけでもない。そんなものを感じるという事は、窃盗でしか生きる術がない自分を否定するのと同義だ。
死ね、と。

ならば、食べないのは何故。
そう尋ねられたら自分はなんと答えればいいのだろうか。

隣に居座る真っ赤なリンゴに眼差しをやれば、必ず思い出す姿がある。
少年は思い起こされそうになる記憶にげんなりと眉を顰め、溜息をまた吐く。
理由を言うならば、それなのだろう。
脳裏でちらつく金色を纏った姿に、心が痛んで、乱されて、仕方がなかった。
食欲は重いシコリに変わり、胸焼けのような感覚を少年に絶えず与えていた。



日が沈んでいくのに伴い、風が冷気を帯びてきた。
その風を受けて少年は首をすくめた。さらさらと少し肩に掛かり始めた黒の髪が舞う。

「寒い」

少年が身に纏っているのは古びた薄着。冬に差し掛かろうとしている今の季節に、こんな格好では風邪を引いてしまう。
少しでもと暖を求め、悴みジンジンと痛む手を少年は擦り合わせながら息を吐いた。息はすぐに白くなり霧散した。
もう一度暖かい息を両の掌に吐き出し凍えを溶かそうとするが、その温もりも一瞬のこと。掌に広がったほんのりとした熱は消え去り、先程よりも冷えていくのが分かる。
思い通りにならないことに少年は舌打ちして青白い手を揉み解す。
次第に血行が好くなったらしく掌は赤みが戻ってきた。

それを無表情で見ていれば、ふと重なるものがあった。
綺麗で華奢な、白い手。
息を呑み、びくりと肩を震わせ、少年は風を切るように激しく頭を振って幻視を振り払う。
視線を掌に戻せば、そこにはもう先程の白い手はない。少年はほっと安堵の溜息をついた。

「なんで、頭から離れないんだ…」

白い手の主、記憶に過ぎる人間。どちらも昨日初めて出会ったあの女性だ。
ほんの一瞬の、たった一度の出会いだ。
だのに、今この時まで一体何度あの女性を思い出したか。
これではまるで。

「まるで…」

―――恋煩いのようじゃないか。

少年は浮かび上がった自分の考えになんだか吐き気がした。

彼女が嫌い、な訳ではない。
今まで様々な大人に出会った。
浮浪児の自分を汚いと言わんばかりの蔑んだ目で見る者。善という行為に酔いたくて同情を寄越してくる者。他にも沢山いたが、とにもかくにも、出逢う人間はまず少年を見下していた。それが様々な人間の共通点だった。
けれど、彼女は自分を決してそんな目では見なかった。とても悲しそうな眼差しを寄越したけれど、同情や哀れみの類ではなかった。
それだけでも、今まで見てきた大人たちとは違い、少年にとって彼女は異質な存在となった。

「だから、こんなに記憶に残っているんだ」

どうか、そうであって欲しい。
ただ、今まで会った大人とは違い過ぎるから、心に深く刻みついただけなのだと。
そうでなくては、自分が哀れではないか。

「あの女と俺では、住む世界が違う」

初めて抱いた想いが、あまりに身の程知らずで、愚かしさを纏っているなんて。
吐き気がするほど、無様で哀れだと思う。

だから、きっとこの想いは、恋情に属するものではない。

「どうせ、もう会うことはない。時間が経てば、きっと、忘れられる」

指を組み合わせ、膝に額を擦り合わせるようにした少年は祈るように呟いた。
それは確かに。確信が得られない未来を願う祈りであった。








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