第一話 


 






「待てっ」

低く図太い男の声がすぐ後ろから掛かる。そして徐々に近付いてくる足音。
走り始めた頃は地の利を生かし引き離していたが、如何せん子どもと大人では足のコンパスが違いすぎた。

両腕いっぱいに真っ赤なリンゴを抱えた少年は迫り来る存在に舌打ちする。

ばっと目の前のアスファルトの道に色の濃い線が一本伸びる。
それがなにか分かった少年は瞬間的に左右に目を走らせ、前に出た左足で地面を強く蹴った。少年の身体は勢いのまま右横へと跳ぶ。
ついさっき少年の頭があった場所に大きな腕が振り下ろされる。
それは余程の強さがあったのか、腕に切られた風が恐ろしい悲鳴を上げた。
捕まえる、なんて甘い考えではない。背後の男は自分を沈めるつもりなのだ。
少年は冗談じゃないと着地した足に更に力を溜めて地面を蹴り、スピードを落とすことなく先程確認した路地裏へと入っていった。
背後では急には止まれず、角を通り過ぎた足音が聞こえた。

「このクソガキッ」

憎々しげな悪態を背中で聞きながら、少年は好機だと更に入り組んだ道に入り引き離しに掛かる。

高さのある建築物が所狭しと建てられている所為で光が差さない裏路地。
図太い声が聞こえなくなり、もう大丈夫かもしれないと少年が息を切らせながら何度目かの角を曲がったそのとき、なにかに衝突し尻餅をついた。
両腕の力は衝撃に緩み、抱えていた真っ赤な果実がごろごろと地面に散ばる。

「っ……」

柔らかいがやけに弾力性のある壁に潰され、痛む鼻を押さえながら見上げれば、そこには逆光に模られた女が一人。
光り輝く金の髪に眩しそうに眼を細める少年の元に女はひざまづく。

「大丈夫か?」

差し出された綺麗な手。肌は瑞々しく、爪は綺麗に整えられている。
よく見れば余程の生まれなのか高級そうなものを着ている。眩しいと感じた髪もよく手入れがされているのだと一見すれば分かった。何よりも暗くてはっきりとはしないが、絶妙なバランスで見目麗しく構成されている容貌には品があり、瞳まで金を掛けたのか金色に光っていた。
すべてが、少年とは『住む世界が違う人間』だと示していた。

心配そうな声に、同情されているのだと思えば腹立たしく、少年は目の前の手を強く払った。
女は予想外だったのだろう、目を見開いてこちらを見ている。
金持ちは自分の思い通りにならなければ癇癪を起こす奴が多い。この女もそうなのだろうか。
少年は目の前で固まっている女を睥睨する。

「―――」

ふと、耳障りなものが聞こえた気がして、少年は背後を振り返り耳を澄ませる。
今度ははっきりと聞こえた。

こんな女に関わっている場合ではないと、周りに散ばったリンゴを掻き集め立ち去る。
だが、それは強引な力によって叶わない。
右の腕を取られ、ごろごろとリンゴが再び落ちていく音を耳にしながら少年は隣にゆっくりと眼差しを向ける。
眼に入ってきた女の表情に、一瞬胸が痛んだ。

「それは、盗んだものか?」

問い掛けているというよりも、確認しているようなものだった。
少年はそれを無視し、もう一度振り払おうとするが出来なかった。女の力と悲しそうな表情ゆえに。

「生きていくためだ、何が悪い。あんたみたいに綺麗な服を着て、美味いもの食べる人間には分からないだろうがなっ」

そう言って今度は先程よりも強い力で腕を振った。
女の手は離れたが、少年の固めた拳が勢いのまま柔らかな頬を打ってしまう。

「っ…」

傷つけるつもりは全くなかった。
だが女は頬骨を覆うように手を当てている。もう片方の金色の目は細く眇められており、それはまるで痛みに耐えるようで。

「っ…ぁっ…」

口唇が戦慄き、音にならない。
少年は狼狽しながら一歩二歩と後退り、そしてその場を逃げ出した。

「俺が悪いんじゃない。あの女が悪いんだ。急に手を掴んだりするから。……あんな、顔をするから」

脳裏に浮かんだ女の表情。
可哀想、という同情の念が篭もったものではなかった。どこか悲しそうに、辛そうに、眼を細めて自分を見ていた。
なぜそんな目を向けるのだろうか。
混乱し始める頭に少年は無意識に唇を噛む。

「解らない。なんで、そんな眼で、俺を見るんだ」

左手には真っ赤なリンゴが三つ、右腕には忌々しい人間の温もり。
けれどそれは、生まれて初めて、優しく感じられた温もり。
それを与えたのは、あの女だ。
ついさっき、出会ったばかりの『住む世界の違う人間』だ。

少年は真っ赤な果実を抱える腕に力を込めて、暗がりの路地から表通りへと飛び出していった。





「おいっ、こっちに黒髪のガキが来なかったかっ」

剣幕を露にした声に振り向けば、声に同じく顔を怒りに染め上げた男が居た。
この様子で先程の少年を追っているという事は、恐らくこの男が例の果物屋の店主なのだろう。
このままあの少年を追わせれば、後のことは想像に難くない。だからこそ追わせる訳にはいかないと、女はこっそりと溜息を付いた。
地面の角に花のようにあるのは、置いてけぼりにされた幾つかのリンゴ。それに目を遣れば、釣られるように男の眼差しもそちらに移った。
男は声を上げてリンゴを拾い上げた。用心深く真っ赤な皮に視線を這わせ、間もなく舌打ちする。

「こんなに傷が付いていたら売り物にならんっ」

忌々しそうにクソガキと口汚く吐く男を一瞥して女は立ち上がる。
膝についた土を簡単に手で払いながら女は問い掛けた。

「幾つ盗られたんだ」

自分に向けてのものか迷い男のピリピリとした空気が一瞬散る。それも束の間、ピリピリとした空気が更に強くなった。

「知るかっ。畜生、次に会ったらあのガキぶっ殺してやるっ」

「数は十もなかったな」

「ああっ?なんだ、あんたが払ってでもくれんのか」

威嚇するように向けられる視線に女は疲れたように溜息を付く。
足の爪先から頭の頂点まで品定めするかのようにじろじろと見る男に、不快感を抱きながら女は懐から最高額紙幣を二枚取り出した。
それを有無を言わさず男の胸元に押し付ける。

「それだけあれば足りるだろう」

返事は聞かず少年が去って行った方へと女は足を向けて歩みだす。背後ではお前もグルなのかと見当違いな悪態が飛ぶ。
それを意にも介さず光が満ちる通りに出れば、女は視線を彷徨わせた。だが探したものは見つからず、小さな溜息が洩れる。
混じりけなく光の色を宿した金色の瞳をゆっくりと閉じる。
そうして出でた姿に柔らかく微笑み、瞼を上げる。そこには探す姿はないけれど、女はやはり微笑む。

「見つけた」

対極のような、あの存在を。








back/top/next