ほんの些細なことが、幸せ。大きな喜びを感じるわけではないけれど、ささやかな幸せの喜びは小さければ小さいほど、深く心に沁みる。
例えば、ただいまと顔を背けながらも此処が家なのだと言ってくれる事。
例えば、独りに慣れた食卓で何を作れば喜ぶのだろうかと考えている自分に、食事毎に美味しかったと手を合わせてご馳走様と言ってくれる事。
毎日毎日。当たり前のように続くことこそが何よりも変えがたい幸せ。
それでも、当たり前のことだからこそ、儚くて不安定。簡単に、壊れてしまう。
崩壊なんて、いつだって唐突で、気紛れ。だから、今が続くようにと人は心のどこかで祈り、心に影を落とす不安にもしかしたらと見えてしまう未来に目隠しをして幸せな今を生きていく。
人は弱くて、自分勝手。そしてなんて哀れなんだろう。けれどそれを罪と呼べないことこそが、いっそ罰なのかもしれない。
「今日は何にしようか」
流石に冬に差し掛かる時節。風は冷たく、薄手のコートを羽織っていても肌寒い。それでも射して来る陽の光の温かさが冷えた風の影響を和らげてくれる。空は薄い雲ひとつない青天。温かい陽射しを遮るものはなく、散歩するには丁度よい。
昼を少し過ぎた時分、エドワードはその日の夕食と明日の朝食の食材を求め市場へと足を向けていた。
市場は昼を過ぎてもやはり人が多く、活気も素晴らしい。
露店の店主は声を張り上げ本日のお勧めを宣伝する。人々はそれに釣られて店へと近付き店主の口の旨さに一つ二つと何かを購入していく。とは言っても、利益を上げることを目的としている街中の店に比べ、外れにある市場は良心的なところだから値切ることも出来れば、サービスだってしてくれる。決して客にとっては不利益になるものではないはずだ。
市場は津々会という集団が仕切っており、此処であくどい商売を使用ものなら忽ち彼らの耳に入り二度と市場への立ち入りが叶わなくなってしまう。商売人としてだけではなく、客としても。
津々会はやると決めたら貫き通す。その断固とした意思と誇りへの評価は市場を贔屓にする客や、居着く商売人を見ればわかる。
エドワードは人の間を縫い、ゆっくりと周りの店を見ていく。
その中でも珍しいくらいに黒い服が目立った。それは警邏の制服で、なにかあったのだろうかと思うほどの数がエドワードの目に留まった。厭に人の心に不安をきたす色に事件だろうかという考えが浮かぶ。
それでも自分はなにか出来るわけでもないとエドワードは最初の本日の夕食はなににするかという問題に戻った。視界は既に黒の制服から色鮮やかな商品が並ぶ露店へと変えた。
どこか心はその色に引き摺られたまま。
「今日はスープにしようかな。寒いし生姜とか入れて、身体を暖めたいし」
毎日毎日、こうやって市場に出向いて誰かのためにその日の食事を考える。一色ごとに栄養や量を、その日の天候や健康状態を考えて。
そんな気遣いは少し前の自分では考えられなかった。
あの幼い彼を家族に迎えてから無意識のうちにやっていたのだから。それがどうしようもなく、楽しくて嬉しくて。
「ロイはまだ十三歳だし、いっぱい肉食べさせて大きくしてやったほうがいいのかな」
ふと肉の露店前を通ったときにそんな思いが浮かんでエドワードは足を止めた。
自分がロイくらいのときはどれくらいの身長をしていたのだろうか。遠い昔過ぎて記憶にははっきりと残ってはいない。でも一センチでも拘って数字を大きくしていた。
「俺はチビってよく言われていたんだよな」
目の前にあるのは赤々しい肉の大きな塊。牛だろうか。
それを金色の瞳に映しながらも思い出すのは、薄れていく記憶。もはや輪郭さえも把握できないほど朧になってしまった。それでもとても大事だった人たち。
「あの人ら大きかったし。俺がチビだったわけではないんだけどなぁ」
呟きながら微笑むが、どうにも懐かしさに涙が出そうだった。
泣くな。エドワードはぎゅっと拳を握り締めて自身にそう命じる。
『泣くな。泣かないでくれ』
昔、一番大事なあの人に最後に言われた言葉。
『笑っていろ。それが一番いい』
残酷で、けれど、きっと自分にとっては一番大事な約束だ。
だから。
「笑え…」
それがどんなに無様に人には映っても、笑って生きてゆく。そう、約束した。
「大丈夫か」
ドスの効いた声を掛けてきたのは目の前の店主。顔は怖いと十人中十人答えるだろう。ガタイもいい。普通に考えれば、店の前で真っ暗な顔をして営業妨害をするな、そう言われているのだと受け取ってしまうかもしれない。
店主の人柄を知らなければエドワードもそう取った。けれど、今は彼の人柄を知っているのでただ心配されているのだとわかる。
なんでもないのだとエドワードは笑う。
「大丈夫です。ちょっと昔のこと思い出してたんです。そういえば、奥さんは?」
「ちょっと出ているんだ。ああ、帰ってきたぞ」
顎で指された方向を振り向いてみればちょうど真っ黒な髪をドレッドヘアにした女性が近付いてくる。左手に紙袋、右手にはまだ五歳になったばかりの子どもの手を引いて。女性は愛しげに子どもを見つめて、子どもは母親譲りの綺麗な真っ黒の髪の毛をおさげにして楽しそうに笑っている。
「…しあわせそう」
心の中で、呟いたつもりが音に出てしまい、店主は少しビックリしていた。
エドワードは誤魔化す様に笑って肉の注文を同じように口にした。
ほらっと包装された肉を突き出され、エドワードが受け取ろうとしたとき、店主の妻が背後から肩を叩いてきた。
「久しぶりだな」
「はい。お久しぶりです」
左右に黒髪のおさげをした少女には膝を折り、こんにちはと笑いかける。
少女はこんにちはと満面の笑みで答えてくれる。
人懐っこい子どもで直ぐにエドワードに懐いた。会うたびに遊ぼうと抱きついてくる。今日も同じくエドワードの細いしっとりとした首筋に両の腕を絡ませてくるのでそれに逆らわず優しく抱き返せば、少女はきゃきゃと愛らしい声で嬉しそうに笑う。
二人のその様子にまるで姉妹のようだと店主の妻は苦笑する。
腕に少女の腰を乗せるように抱き上げ、エドワードが彼女に向き合えばふと思い出したように彼女は硬い声音で告げてきた。
「そういえば、知っているか?丘の上に学校があっただろ、あそこが何者かに占拠されているらしい」
その言葉を聞いたとき、エドワードは真っ暗闇に突き落とされた気がした。そして、だからあれほどに警邏の姿があったのかとしたくもない納得をしてしまう。
けれどエドワードの中で保たれる冷静さはそれでも一番大事なことには辿りつかなかった。
「どうしたの?」
辿りついたのは、どこかに意識を飛ばしているエドワードの首もとの襟を揺さぶって自分のところへ戻そうとする子どもの存在を認知してからだった。腕に掛かる重みで正気に戻ったような気がした。
向けた視線の先には微かに小さな建物が見える丘。そこには、あの子どもがいる。大事な、子どもが。
すぐさまに少女を地面に降ろし、首筋に回された腕を引き剥がすように外すが少女はそれが気に食わないのか遊ぼうと言って必死に腕に縋りつく。
エドワードはそれに顔を歪める。そういえば前回この子に会ったときに遊ぼうと誘われたのだが生憎やる事があって断っていたのだ。次に会ったときは遊ぼうねと言われていたことを思い出し、更にエドワードの表情は曇る。
「…あのね、…」
小さな、綺麗な心の女の子。出来るだけ傷つけたくはない。なんといえば良いものかと迷っていれば、横からすらりとした腕が伸び少女の身体を攫う。
「さっさと行きなさい」
「え…?」
攫ったのは店主の妻である人だった。その腕の中にいる少女は呆気に取られており目をぱちくりと何度も瞬きをする。
彼女の穏やかな瞳は、エドワードを映す。
「用事があるのだろう?」
彼女は力強く微笑んで。
「行きなさい」
「すいません。シグさん、肉はまた今度でお願いします。ニーナ、今度こそ遊ぼう。イズミさん、今度大切な人連れてきます。会ってください」
彼女たちの返答も待たずエドワードは踵を返し駆け出た。
ロイは溜息をつく。
片足を立てて座り込んでいる状態で凭れかかった壁は、永く人の体温に暖められ既に冷たさをなくしていた。それはロイの客観的視野を保つのに買っていたのに、これでは意味がない。
背後にある窓を振り返れば、青々とした世界が開かれる。室内に有った時計は壊れてしまい、今は何時かがわからない。それでも空を見る限りは十五時あたりだろうか。
耳を澄ませばがやがやと小さなざわめきが聞こえてくる。恐らくはロイと同じく床に座り込んでいる子どもたちの親兄弟や騒ぎを聞きつけた警邏だろう。
先程よりも遥かに大きい溜息を付きたい衝動をロイは堪え、再び視界を移せば其処には一人の男。その手には黒光りのする銃。
今日もいつものように代わり映えのしないはずだった午前中最後の授業。
後十分もすれば昼休みのチャイムが鳴る。子どもたちはそれを心待ちにほんの少し騒がしくなる。教壇に立つ年若い女教師はそれに溜息を付きながら時間潰しのように教科書の内容を口でなぞる。
それが、日常。
これが日常。
誰もが退屈だと思う日常の空間を打ち破ったのは授業の終わりを告げるチャイムではなく、耳に重い余韻を残す一発の銃声。
なんの予兆もなく、唐突に崩れ去った日常。発生した事件。
いつかの自分と同じように薄汚い服を纏う男は銃を真っ直ぐに構え、ただ一言その場にいた者たちに言った。
「少しだけ付き合ってもらう」
その言葉がどれくらいの時間を指すのかはわからない。わからないが既に二時間は経過している。いつまでこうしているつもりなのだろうか。あの男は。
男はただ一度天井に向けて銃を発砲した後は、教師を外に出し、子どもたちを窓際に寄せる以外はなにも要求してこなかった。今は出入り口に積み上げられた机や椅子のバリケードは男の手で成されたものだった。
子どもにも、外にいる大人にも、警邏にも何一つとして要求はしない。
ただ、椅子に座り顔を伏せて無言を貫く。そんな男の姿に、ロイは何かを待っているようだと思った。
「何がしたいんだよ、あの男」
呟きにもならない小さな音。ロイは丁度隣からでたその音を耳に捉えた。
隣を見れば震える小さな身体を抱きしめる少年の姿。少年はただ身に押し寄せる恐怖を紛らわせる何かが欲しかったのだろう。
「待っているんだ。何かは知らないけれど、待っているんだ」
だからロイは自分が思っていることを答えてやった。
少年は答えが返ってくるものとは思っていなかったのだろう、驚いた顔をしてロイを見ている。
占拠した男自体が決して乱暴な人間ではない所為か泣き声はしないものの、この教室にいる少年少女は初めての体験に皆恐怖し身体を震わせている。自分だって今のこの状況が怖い。その証拠に疎ましいほどにがたがたと身体が震えている。
そんな中で偽りなく落ち着いた様子のロイに少年は困惑した。
つい先日転校してきたばかりの同級生。
クラスの誰よりも大人びた彼は、一匹狼で他人を拒絶しているようだった。
「怖く、ないのか」
少年は訊いてみたかった。たった一人、自分とは違う世界を見ているように感じるロイに。
「べつに」
静かに返ってくる言葉も声音も、どこか冷めている。
その様子が少年には何故か悲しかった。
ロイはそんな自分が怖がっていると勘違いしたのか、心配しなくていいと言葉を続けた。
「多分、あの男は、俺たちに危害なんて与えるつもりはない」
とても落ち着いて、大人びた転校生。
冷静と言うより、冷めているように思えて仕方のない真っ黒な一匹狼。
たった一人で違う世界を見る彼は、それでも先ごろ教わった屹然と言う言葉がよく似合うと思った。
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