ふと、眼が覚めた。
覚醒はいつも朧げだ。今日はそれに加え身体が異様に重くだるかった。
「な、に」
起き上がろうとすれば腕には力が入らず身体がシーツの中に沈み込んでいった。
「どうして」
呆然とエドワードは呟いた。
なんでこんなに身体が重いのか、だるいのか。もしや病状が悪化したのだろうか。
苦労しながらも、なんとかうつ伏せの格好から仰向けになれば、肌に当たるシーツの感触からエドワードは自分が寝着の一枚も身に着けていないことに気づいた。
確か寝る前は白い寝着を着ていたはず。どうしたのだろうかと首をゆっくりと回せば床に寝着が落ちていた。それだけではなく何故か下着までもがそこにはあった。
重い腕で身体に巻きついたシーツを持ち上げて覗けばエドワードはやはり裸だった。
シーツで自分の身体を隠しながらエドワードは考えた。けれど自分は寝着を脱いだ記憶などない。
「っていうより、いつ寝たんだろう」
素朴な疑問だった。
確か、昨日はロイとじゃれて、ロイが薬を飲ませるのだと云っていた気がする。
エドワードは首をかしげた。眠気など一切覚えなかったその辺りからの記憶がないことに気付いた。
身体のことといい、今のこの格好といい、記憶のことといいエドワードは自分が怖くなる。
「ロイ?」
起きたときはロイがいてくれる。いつもではないがそれが多かったので目が覚めたときに弟の姿が見えないと不安になる。
じわじわと湧き上がる何かを払拭しようともう一度口にする。
「ロイ」
返事はない。
気配もない。
いないのかと、諦めの声が暗い室内に響く。
暗いと何度もロイに抗議したが改善されることはない、この室内。屋敷。
ロイは暗闇が好きなのだろうか。
エドワードはこの暗闇が嫌いだった。もっとはっきり言うならばこの空間こそが嫌いだった。
屋敷はすべてカーテンが引かれ暗闇で外の情報が一切閉ざされている。音からのそれも同様。恐らくロイの錬金術だろうがこの部屋だけが以前にはなかった防音が施されていた。しかも、外の音だけに。だから雨が降っていてもわからないし、鳥の声など聞いたのはいつかもわからない昔だ。
聞けばロイはエドワードの眠りを妨げないようにしているだけだと言った。楽に過ごせるようにと。
「この空間が、俺のため?」
暗闇は不安を煽り、静けさは痛いほどの精神に圧迫感を与える。
手に取るようにわかる、少しずつ衰えていく鍛え上げていたはずの精神。それでも、原因とも言えるこの空間が、自分のためなのだろうか。
混乱しそうになる頭の中でとにかく服を着ようとエドワードはベッドを這った。
なんとか端に辿りつき足を床に付ければフローリングは予想外に冷たくエドワードは足をびくりと震わせた。
ベッドから身体を離した途端足が掛かる重量に負けて、細身の裸体は大きな音をたて床に叩き付けられた。
「っくっ…」
いつだって過保護なロイが歩かせなかった所為だ。長く使われなかった足はエドワードのような軽い体重でさえも支えられない。
「いたい」
じんじんと痛む身体。昔はこんなのではなかった。酷い怪我を負っても、大丈夫だったのに。今は痛い。
エドワードは頬を流れる一筋の雫に気がついた。
けれどそれを拭うこともせずに、拳を握る。
「おまえは、俺が憎いのかな」
夢を見た。
覚えているのは二つ。
一つは変な、生温かくて、濡れた感触をただ感じていた夢。
もう一つは、昔の夢。
子どものころの、夢。
『そばにいて』
必死に言っていた、弟がいた。
けれど、笑う。その弟は。
母と父の墓石の前で。
『これで傍にいられる』
血まみれの自分を抱いて。
『大丈夫だよ。もう。これで…』
笑うのだ。口の端を持ち上げて、眼を細めて。
その様は愛おしそうに、彩付くならば黒を纏いながら。
ロイが扉を開くと大事な姉は裸体を晒し床に落ちていた。
階下に響いた音からしてベッドから落ちたのだろう。
俯いているのはどこか痛むところでもあるからか。
ロイはすぐさまエドワードの元に駆け寄る。
「エド、どうした。大丈夫か」
外界とあらゆる意味で隔離されたこの屋敷に住まうエドワードは知りようがないが今は冬なのだ。
ロイの錬金術を駆使した屋敷の空間はエドワードが過ごしやすい温度が保たれている。冬も夏も。気温が変わることは無い。
だが床や壁の温度はそうはいかなかった。雪や冷風に当てられた建物は冷えていく。
施した錬金術範囲はあくまでも空間。建物には作用していない。だから床は冷たいはず。
「エド、身体が冷えるからベッドに戻ろう」
身体が冷えていくのを心配してロイはエドワードを抱き上げようとする。
けれど。
「いい、自分で立つ」
そう言って伸ばした手を拒絶された。
自分で立つ、歩く。彼女の口から聞くのは驚くことではない。今の彼女の生活が始まった当初からいつも口にしていたことだ。
だが今は何かが違う。
二つの金色は悲しい、辛い、怖い、いろんな色をまぜている。
「どうした」
エドワードの変化に理由がわからずロイは顔を歪めた。
応えはなく、エドワードはベッドのシーツを掴み、そこをよじ登ろうとする。
けれど身体は崩れ、再び床に膝を着いた。
もう一度と伸ばされるエドワードの手を横から奪い、ロイはそのまま身体を抱えベッドに寝かせた。
「無理だよ。長く歩いていなかったんだ、足が言うことなんて聞くか」
自分が念入りに、そう仕向けたのだ。今この状態で、歩けるような状態ならば、困る。
「無理ってなんだよ。歩けるよ」
弱々しく、反論する声。
どうしたのだろうか。やはり様子が変だ。
ロイはエドワードをシーツに包ませながら、怪我はないかと白い身体に視線を這わせた。
三年もの年月、陽も当てなかった身体は雪のように白い。そうして心臓の真下辺りにある傷跡。銃創。
それに手を伸ばし触れる直前に、エドワードから声が掛かる。
「服、取って」
目線を上げればエドワードはそっぽを向いている。恥ずかしがっているわけでもない。強いて言うならば拗ねているようにも見えるが。
ロイは要望どおり、床に散らばる寝着を手に取りエドワードに着せようとした。
それを拒否したのはまたしてもエドワード。
「自分で着る」
流石にロイは心配になる。
「どうした?何か嫌な夢でも見たか?気分でも悪いのか?」
エドワードはロイを見てまた視線を逸らし、なんでもないと返すがどう考えても何でもなさそうではない。
「ちゃんと言ってくれないか。わからない」
「なんでもない」
エドワードは頑なにロイを拒絶する。
怒っているわけでもない、拗ねている、というのも違うようだ。
「エド」
「なんで、ロイは裸でいる俺に驚かないの」
ロイは突然の言葉で驚いた。
「どうして」
責めるように、エドワードは視線をロイに合わす。
「…寝ている間にね、汗をかいて気持ちが悪そうだったから、タオルで拭いていたんだ」
「ロイが脱がせたの?」
「そう。ごめん。気持ちが悪かった?」
「………」
「とにかく、ご飯を食べようか」
そう云ってロイはエドワードに掛かるシーツを落とし、寝着を身に着けさせた。
エドワードは何も応えず、ただ唯々諾々そんなロイを受け入れていた。
「エド、やはり具合でも悪いのか?ぜんぜん食べてない」
目の前にはロイお手製の料理が並んでいる。
病状のエドワードを考えてのメニュー。
ロイは元々器用ということもあって、その味はいつだって絶賛に値するものだった。
けれどそんな食事を前にしてもエドワードには食欲が湧いてこなかった。
普段は相対して座るロイが、様子が可笑しいと心配して今は隣にいる。
ロイは食べていないと言うが、それは彼だってそうだ。
なにも口にしようとしないエドワードにスープだけでも食べさせようと、ロイは自分を二の次にしてエドワードの世話を甲斐甲斐しくしている。
目の前に差し出される、クリーム色のスープを載せた銀のスプーン。
エドワードは拒絶を示し、頭を振る。
「自分で食べる。
ロイも自分の食べろよ」
億劫に感じながらエドワードもスプーンを握る。
食欲は未だにないが、このままなにも口にしないでいるとロイに迷惑が掛かりそうだ。
スープを口にすれば香り立つ匂いと同じ甘みが舌に広がり、温もりが身体に染み渡っていった。
エドワードはこのスープが好きだったが、今は吐き気がこみ上げてくる。それでも顔に出さず、すべてを飲み干すために咽喉と手を動かす。
ロイはこれをどんな気持ちで作ってくれたのだろうか。今だって、内心どんな思いを抱いて自分の世話を焼いているのだろう。
どれ程前かわからないが、南方の内乱の折にエドワードは部下の誤射に遭った。
打ち抜かれた場所が心臓の真下で、出血がなかなか止まらず一度は心拍の停止すらありながら、あのときの軍医たちの懸命な努力のお陰でエドワードはなんとか峠を越えられた。
その後漸く回復の兆しが見え始めたものの完治に程遠いエドワードを自宅で介抱するのだとロイは無理矢理退院させ、以来通院することもなく、薬は軍の迎えが来る前にエドワードのその日の状態を考えてロイが念々と調合していた。
なんとか完治した後も急激に落ちた体力と免疫力の回復が遅く、様々な合併症を起こしたエドワードはロイの判断と説得で軍を退役することとなった。
自宅に戻ってからは意識が混濁することが多かったが、ロイの傍にいるときだけはそれがなく、心地好い眠りにつけた。
発作が起こった日には仕事を副官に持ってこさせてまでロイは傍にいて、痛みと苦しみで眠りに逃げ込めない意識を抱きしめてくれた。
変わらない、ロイの優しさ。でも、それはいつまで許されることなのだろうか。
そして優しさは、偽りのないものなのだろうか。
いつかはロイだって結婚をするだろう。
回復するのかもわからないエドワードの身体。お荷物でしかない自分をロイは疎ましくなるだろう。もしかしたらそれは、すでに抱かれているのかもしれない。
あの暗闇は、退院した当初から。もしかしたら、あの暗闇こそが、ロイの心情なのだろうか。疎ましいと思われている、表れなのだろうか。
だとすれば自分はどうすると、エドワードは自問する。答える言葉など、持ってはいないけれど。
でも、せめて。ロイから差し伸べる手を今後できるだけ頼らないほうが、自分にもロイにもいい方向に繋がるはずなのだとエドワードは信じた。
だからこそ、拒絶と言う行動をおこしたのだ。
休みなく、腕を動かしスープを飲み込んでいくなかで、食事の気配が自分一人のものだと気付き、エドワードは隣の席を見た。
「ロ、っ」
隣に座る弟の手にはすでにスプーンはない。
他のものを口にした形跡のないロイはじっとエドワードを見ていた。恐らくは、自分で食べるからと、言った時から。
こちらを見るその眼は余りに冷たくて、エドワードは小さく肩を揺らした。
「ロイ?」
ロイは何の反応もせずに、こちらへと手を伸ばしてきた。
椅子の上、ほんの少し身体を後ろにずらすが、エドワードのその行為は、顎先に届いた指先の冷たさに意味もなく終わる。
不安げにロイを見上げれば、顎を掴んだ指先に力が込められて漆黒の瞳の前に引っ張られた。
「ロ、イ。いたいッ」
腕にすがりつき、力の入った指を剥がそうとするが出来ない。
「何があったかちゃんと言え」
低い声。弟のそんな声を聞いたことがないとは言わないが、どうして今言われるのかわからない。
エドワードの背筋には冷たい汗が流れていく。
「言え」
威圧的な視線、声音。わかるのは、ロイは命令をしているということ。
「…ロ、イ?」
「何を考えているかは知らないが、貴女のことは俺が知っていなくてはいけない。
勝手な隠し事は困る」
「いたい、離して」
ぎりぎりと、音がしそうなほど指に力が込められていく。エドワードは骨が砕けそうな痛みに目尻を濡らす。
「ならば言えばいい。下手な隠し事などするから痛みを感じることになる。
何を考えている、何がそんなに貴女を頑なにさせる」
エドワードの間近にある瞳はその闇さに見合うほどに冷たい。
「ロイには関係ない」
言動が横暴な弟を睨みつけるように返せば、ロイは嗤った。
「関係ない?おかしなことを言う。貴女のことで俺に関係ないことなどない。俺に隠し事をする権利は貴女にはない。
だから、言え。なにを隠している」
更に顔を引き寄せられ、ロイの吐息が感じた瞬間、ダイニングルームに誰かの来訪を告げる音が響いた。
ロイは音に引き寄せられるように一瞥を玄関の方へ向けるが、次の瞬間には何もなかったかのように視線をエドワードに戻す。
顔を動かせないエドワードは目線だけを動かす。
「余所見をするな」
重い言葉にエドワードの意識は再びロイへと戻される。
二度目のベルが鳴った。
「…ロイ」
出ろと、エドワードは眼で訴えた。
けれど訴えを聞くことはなく、ロイは何度目かの告白を促しを口にする。
来訪の音は次第に呼び出しの音と変わり、幾度も屋敷内に響く。
さすがに煩く感じたのかロイは舌打ちを零して席を立った。
「後で必ず聞く」
落とされた低音のその言葉にエドワードは拳を固めながら、来訪者の元へと向かう姿を見ていた。
『そのままでいればよかった』
ロイが帰ってきたらまたあの威圧感を落とされるのか。あれは静かな怒り。何をロイは怒っているのか。自分を疎ましく思うならば、今の取っているこの行動は弟にとってはこれ幸いと思ってもいいはずだ。面倒ごとがなくなったのだと。
だのに何故。あんな。怖い空気をまとうのか。
思い出した痛いほどの威圧感に、エドワードは居た堪れなくなった。
ふらつく足取りでダイニングルームを離れ、何故か昔使っていた研究室を目指したことをエドワードはそう時を経てず、後悔する。それを知らないままエドワードは、開いた。地下へと続く扉を。
そこはまるでパンドラの箱。開けば最後、すべてが闇に満ちていく。
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