「お前は甘えるのが下手だね。
大人になれば嫌でも甘えるなんてこと出来なくなるんだから、子どものうちに我侭は言うべきだぞ?」

「云ったらどうなるの」

「さあ。
でも、でもその願いを出来る限り叶えるよ。
お前には願いはないの?望むものは、ないの?」


頭を撫でる手は暖かく、優しかった。
微笑む彼女は、とても綺麗だった。
だから。







願え。
何一つとして許されない
目隠しの世界を。

[前編]



「大佐。エルリック大佐」
背後から掛かる呼び声にロイが振り向けば、しわがれた声から予測がついていた老将軍が一人、供も連れずにそこにいた。
「将軍。どうかなさいましたか」
穏やかな笑みを浮かべ、将軍に用件を問う。だが、自分が引き止められた理由がロイにはわかっていた。
この老将軍はロイを見かけるたびにそのことを口にするから。
「今から帰りかね」
「ええ、昨日は当直でして」
「ほほ。大佐などという階級についてまでその業務に就くのは君たちぐらいだ」
「…まだ未熟者ですから」
『君たち』、その言葉にロイは言い様のない不快感を感じる。
「『彼女』もそういっていたよ。部下とコミュニケーションを図るにはもってこいだとも云っておった」
将軍は目を和ませて、懐かしそうに話す。きっと彼の網膜には、そのときの『彼女』が映っているのだろう。だがその様子も長くは続かず、悲しそうな目をする。
「『彼女』の様子はどうかね」
静かに、その言葉を零し、将軍はロイが目的としていた軍司令部の出入り口へと歩き出した。ロイもまたそれを追うように歩き出す。
「悪いわけではありませんが、良いとも言えません。相変わらず油断は出来ません。一昨日も発作が起きましたから」
将軍は重く溜息をついて、そうかと零した。
「やはり、病院に入れたほうがいいんじゃないかね?今までは君がいるときばかり発作が起きていたが、これからもそうだとは限らない。君がいないときに発作が起きたらどうする。
それに、あやつも―――」
「将軍にはお心を砕いていただき、本当に感謝しております。ですが、大丈夫です。
彼には、諦めるよう言っておかれたほうがいいでしょう。最早『彼女』は普通に暮らせるわけではありませんから」
ロイとしては『彼』のことなど口にしたくもない。それでも口にするのは早々に見切りを付けたいからだ。『彼』とも、この老将軍とも。
「いや、しかし」
「将軍、今日はこの辺で。家で『彼女』が待っておりますので」
これ以上はくだらないと、ロイは打ち切る。まだ何かを言いたげに立ち止まった将軍に敬礼をし、日が射す外へと足を踏み出した。




玄関の扉を開ければ、今は朝だということも疑うほど、そこは暗かった。
ロイはそれを気にも留めず、後ろ手で扉を閉め、更に鍵を掛ける。そうすれば照らされていた内部も再び闇に埋もれていった。
ロイは元々夜目だ。暫くもすれば、この暗闇にも慣れてくる。次第に浮かび上がってくるものの中から、二階へと続く階段に視線を注ぐ。
そちらに一つ歩を進め、階段を上がっていく。そうしてふとロイは足を止めた。
目を向けた横の壁には巨大な黒色の厚布が掛かっている。それがこの暗闇の正体だった。
この屋敷は陽光を多く取り入れられるようにと、大きな窓が多数にあった。けれどそのすべてには布が覆われていて屋敷は一切光が入らずに、闇が支配している。勿論電気は通るが、ロイが望まない限りは、それが点ることもない。
変わらず暗闇が支配する中でロイは笑みを浮かべた。
ロイは再び歩を進める。
そして目的の部屋の前に立つ。
ロイは必ず帰ったら一番にその扉を開く。
今日もそれに違うことなく、ノックもせずに開く。プチッと何かが切れるような音がしたが、ロイはそれが当然のように思っているので気にせず室内に入る。音がしない事態ならば別だが。
暗闇を強いる屋敷で、この部屋だけは例外を許した場所だった。
窓には同じく厚地のカーテンで陽の侵入を許さず広い室内は暗いままにしてはいるが、淡いオレンジ色の光源があった。だが、例外のこの光源もベッドに横たわる者を照らすためだけのもので、室内を照らす役割は持っておらず、光源というにはあまりに心もとないものだった。
音もなく近付けば、すらりとした女の肢体がロイの眼に映る。
一人で寝るには大きすぎるキングサイズの端により、シーツに包まりうつ伏せる形で『彼女』は寝ていた。右腕をベッドから落とし、金色の長い髪を白い寝具に撒き散らす。ほのかなオレンジ色に照らされる寝顔は穏やかで美しい。
彼女の身体を腕の中に抱き起こし、ベッドに腰を下ろす。ギシリとベッドは揺れるが彼女は目覚めもせず、反応もない。
瞼に掛かる長い前髪を梳いたり頬を撫でたりと彼女に触れながら、それもそうだとほくそ笑む。まだその時間ではないのだと。
彼女の細い顎に指を掛け、ロイは顔を近づける。
指先で輪郭をなぞり、頬を、口唇を這う。それと同時に耳の裏側に口付け、こめかみを通り瞼を舌で舐め上げる。
「こんなことをしても、気付きはしないだろう」
ロイは殺しきれず、くっと笑いを零す。
口唇を離し、ロイは室内を観察した。
カーテンは開かれた形跡はない。扉も、ロイが昨日出て行ってから帰ってくるまで、開かれた形跡はない。
ロイはいつも出掛ける前に幾つかの仕掛けを施す。扉を開けたときの音もそれの一つだ。それらは簡単なもので、ただ『彼女』の動向を探るためのものだった。一番重要なものは扉にあったものだ。ここから出たのか、出ていないのか。それが何よりも重要なこと。
病状の『彼女』になにかあっては大変なのだから。
ほの暗い室内を見渡し、今日も変わりは無いようだとロイは安堵した。
再び、腕の中に視線を返せば、沸きあがる感情がある。それに従いロイは指を動かす。
親指で、人差し指で、順番に。一つ一つ、『彼女』の綺麗な口唇を辿る。親指で口唇を割り開き、温かいであろうその口腔に指を二本、第二間接まで差し込む。
「んぅ…」
流石に息苦しいのか、『彼女』の瞼がピクリと動いた。けれどまだ目覚めないことを知っているロイは気にしない。
額に口付け、口腔に潜ませた二本の指で舌を挟み込んで愛撫する。逃げようとする舌を一瞬追おうと更に奥に差し込もうとするが、流石にそこまですれば『彼女』が起きてしまう。仕方なく、肉壁を愛撫すれば『彼女』は時々くぐもった婀娜な声を室内に響かせた。
そうしてふと自分の足元に目を遣り、ロイは目を見開いた。次いで口腔から指を引き抜き、その手で『彼女』を隠すシーツをめくる。晒された細い足首を片方掴み、足裏を見れば、そこはやはり汚れていた。
「ちっ。分量を間違えたか」
「う、ん……」
荒れたその声にか、足から伝わるロイの体温にか、それとも悪戯にか。今まで眠りについていた『彼女』が覚醒の兆しを示した。
ロイは足を放し、彼女が目覚めるのを待つ。
ゆっくりと、開かれていく稀有な金色。そこに映る、黒い自分の姿。
ロイはこの瞬間が何よりも好きだった。
「お早う。姉さん―――エド」
『彼女』。エドワードの世界には、自分しかいないのだと思える、この瞬間が。




「おかえり」
まだ眠たそうな高い声。まだ眠いのだろう、エドワードはロイに身体を預けてくる。
「ただいま」
「いま、なんじ」
「何時だと思う?それより今日は途中で目が覚めた?足が汚れている」
「う、ん。でも、ねむくなったから」
またすぐに寝た、と言う彼女にロイはそう、と零すが眉間には皺が寄っている。
「ろい?からだつめたい。そと、さむいの?」
冷たいと言うわりにエドワードはその身体に擦り寄ってくる。まるで温めようとしてくれるようだ。
エドワードの身体を冷やすことになるだろうと理解していながら、それでも擦り寄ってくる身体をロイは抱きしめる。
「冷たい?」
「うん。いま、なんがつだっけ」
「冷たいなら、後でお風呂に入るよ」
一度ならず二度目の質問もロイははぐらかし、エドワードの額に口付け、手繰り寄せたシーツを寒くないようにと彼女の身体に巻きつける。
「お腹が空いたろう。なにか作るよ」
エドワードが何か言う前にロイは、細く小さな身体を片腕に座らせるように抱き上げ、室内を出た。彼女も落ちないようにとロイの首に自分の腕を絡ませる。
「ねえ。なんでしめてるの?かーてん。くらい」
「暗いのはこわいかい?」
「そういうわけじゃないけど…」
口ごもるエドワード。何年経っても、この暗闇に慣れないのだろう。
時を知る術を断たれた。暗闇に閉鎖された、この世界では。
いっそ怯えればいいのにと、ロイは思った。




食事後、ロイに頼んでお風呂に入れてもらったエドワードは至極ご満悦だった。
本当ならば、今日は濡れたタオルで身体を拭くだけで終わる身としては、喜ばしいことだったのだ。欲を言えば一人で入りたっかったが、何かあっては困るからと、過保護な弟がそれを許さず今回も一緒に入って身体と髪の毛を洗ってもらった。
一般論から永く遠ざけられたエドワードには、それがおかしいとは思えなかった。
だから変わらない暗さのベッドに戻り、背後から優しく髪を乾かす手もただ心地好いとしか感じない。
不満といえば目の前にある薬。苦いし眠くなるのでエドワードは嫌っているが、こればかりはロイも譲らない。
「ちゃんと、飲んでくれ」
「……」
「無言になっても駄目なものは駄目だ」
髪を乾かし終わったロイは、エドワード腕を掴み、衝撃から守るような仕草でゆっくりと身体をベッドに押し倒す。
視界が変わり、驚くエドワードの上に押し倒した当人が覆いかぶさってくる。身体と身体が密着して動けず、エドワードはロイを見上げる。弟は何がしたいのだろうと。
「ロイ?」
「また発作が起きるだろう?」
「大丈夫だよ」
「この前発作が起きたばかりだ」
ロイは心配そうに眼を細めて、エドワードの顔にキスを降らす。額に、こめかみに、目尻に、いろいろなところに口付けて、そのまま細い首筋に顔を埋めエドワードを抱きしめる。
届く声音は本当に心配していた。エドワードは申し訳なく思い、腕を少し上げ、ロイの黒い頭を撫でる。
「ごめん。おれはお前に心配掛けてばかりだ」
ロイはなにも云わずに腕に力を込める。流石に少しだけ身体に痛みが走るがそれを甘受しようとエドワードはロイの頭を抱え込んだ。
「昔は、ロイのほうが心配掛けていたのにな」
「心配させていたのか」
「したよ。ロイは滅多に我侭言わないから、俺は嫌われているのかと思った。」
ギシリとベッドを軋ませながらロイは身体を起こした。離れていく体温がほんの少し寂しくて、顔の横に置かれた腕にエドワードは手を絡ませる。
「ロイ?」
ロイの影がエドワードを覆う。なんだかいつものロイとは違う雰囲気を感じてエドワードは不安になる。表情を確かめたくても、逆光でそれは叶わない。
「ロイ?」
「昔、云っただろう。甘えろと、我侭を言えと」
「うん」
「なら今聞いてもらおう」
ロイは意地が悪そうに言い、腕に絡んだ手を外してからエドワードの身体を労わるように起こし、背後から抱えこんだ。
もうそのころにはロイから感じていた雰囲気も消えていた。
「ロ、ロイ?」
エドワードはなにを言う気だと、ビクビクと小さく怯えるようにロイを振り返る。ロイの目線はベッドサイドに置いてある薬と飲み水に注がれて、間もなく彼の手にはそれが握られる。
「聞いて貰おうか?姉さん」
弟のその笑顔に、最早姉のプライドが嫌だなどという反論を許さない。
「飲めばいいんだろ、飲めば」
そう云って、ロイの手から奪おうとすれば、その手は逃げるように遠ざかる。
「飲むんじゃないのか」
「勿論。飲んでもらうが、久しぶりに俺が飲ませてみるのもいいかと思って」
なにを云うのかと、エドワードは唖然とした。
「いいだろう?」
にっこりと笑うロイ。そんな弟にエドワードが思うことは。
「いつからお前はそんなにいやらしく笑うような子になったんだ」
だった。
だがここで嫌だと言っても、ロイは飲ます。口を無理やり開いてでも飲ませる。
仕方ないと諦め、了承したと言うようにエドワードはロイに背中を預けた。
背後からはくすくすと笑われ、柔らかく身体を拘束されて口の中に一粒薬を放り込まれるその瞬間、ベッドサイドに置かれた電話のベルが鳴った。
エドワードはびくりと身体を飛び跳ねる。軍の召集だろうか。振り返ればロイは目を険しく、音が鳴るそれを睨んでいる。周りに立ち込める空気はロイから発せられるもので、それは召集かもしれないという緊張感ではなく、殺気じみたものだった。
一度、邪魔をするなと舌打ち混じりに彼は零したことがあり、この部屋から電話を出そうとしたことがあった。それを止めたのはエドワードだった。元々軍人というのは、いつ召集が掛けられるかもわからないので、電話はすぐに取れるような場所に置く。ロイの場合は一番いるのがこの部屋だからここに置くのが最適だと言ったのだ。勿論ロイはそれに不満だったが、特に文句を口にすることはなった。
文句は言わないが、許してもいない彼はこうやってベルの音を聞く度に不機嫌を通り越して、殺気立つのだ。
そしてロイは必ず自分の口を塞ぐ。声を出されることを恐れるように。エドワードとしては、別に電話中に声を出す気もないので、何故こんな真似をするのかがわからない。
今回もロイは乱暴にエドワードの頭を掴み、自分の肩に押し付ける。
「ん…」
予測はしていたが、突然のことにびくりと身体を強張らせた身体の力をすぐに抜いてエドワードはロイの背中に腕を回す。こうでもしなければ、彼は力を入れてくるのだ。抵抗をなくすためなのかはわからないのだけれど。
「エルリックだ」
普段よりも硬質な声は威厳を醸し出し大佐という階級には良く似合う。だがそれでは下官などに無駄に恐れられるだけだ。
諌めるように、エドワードがくいくいとロイの服を引っ張れば、やはり力を加えられ、息がしづらくなる。
「ああ、君か」
きゅっとロイの服を掴み、早く電話が終わればいいとエドワードは願う。
「なんのようだ」
相手が気に食わない人間なのだろうか、ロイの声は更に低く冷たいものになる。
受話器から零れてくる微かな音にエドワードは聞き覚えがあり、息苦しい中誰だったかと記憶を掘り出す。
そうして一人、脳裏に甦る人間がいた。
「申し訳ないが―――」
そう云って切ろうとする弟の身体を力いっぱいに押し返し、エドワードは手を差し出した。
ロイはそんな自分を冷たい目で見る。ならばエドワードの要求はわかっているはずだ。その受話器を寄越せという、要求は。でなければ彼はこんな目をエドワードに向けはしないのだから。
黙り込んだロイは暫くすると、持っていた受話器を差し出した手の上に載せてきた。
ロイの一番怖いときは笑顔だが、次に怖いのは表情がないときだ。今のロイは表情がない。余程お怒りなのだろうが、今のエドワードには無言の威圧にも似たそれも抑制に繋がることはなかった。
「もしもし」
恐る恐る、そんな感じで出た声。エドワードは自分のそんな声に笑いそうになる。
『エド?』
久しぶりに鼓膜を震わせる彼の声。結婚をしてはどうかと言われ、そうですねといっていた相手。
「久しぶり、ルージス」
そこに恋愛感情があったのかはわからないけれど、エドワードは彼が好きだった。
『身体のほうは大丈夫か?無理をしていないか』
「大丈夫」
彼は相変わらず心配性のようだ。心配性の人間など、弟のロイだけでいいのにと、クスリと笑みを零した。
そういえばロイは、と探せば彼はベッドヘッドに凭れたところで、エドワードを胸の内へと引き寄せた。
「わっ」
声に出して驚けば、受話器からはどうしたと、切羽詰った声が聞こえてくる。それになんでもないと返し、当たり障りのない話を始めた。
エドワードの背中をロイが覆い被さるように胸板がにぴったりと押し付けられ、離れられないように腰を腕で固定されている。それは強い力で、エドワードが痛みを感じるほどのものだった。
ロイは機嫌が急降下していてぴりぴりしているので、それも仕方なく感じ、それでもどうにか彼の気を落ち着かせたくて自分を抱きしめる手にエドワードは自分の手を添えた。そうすればほんの少しだけ、雰囲気は和らぎ、エドワードの肩口には吐息が掛かった。
肩口に蹲る黒い頭にエドワードは頬を寄せた。拗ねているようで弟が可愛かった。
その間にも、エドワードはルージスと会話を続けた。
弟以外の声を聞くのは本当に久しぶりで、楽しいと感じるのは仕方のないことだろう。だから、ロイの存在を忘れたかのように話に夢中になり、背後にいる男が機嫌を悪化させても、それはエドワードの非ではない。
ロイは、自分以外の人間がエドワードと些細な接触を持つことすら許せない程の狭量。エドワードが自分を忘れるほど、他の誰かに意識を傾けているこの状況を許せるはずもない。許すわけにもいかない。
エドワードの首筋に顔を埋めた中でロイは剣呑な色を暗い眼に浮かべた。
不意にエドワードは身体に小さく響く振動に気付いた。振動源を見れば、自分の大腿肢を不規則なリズムでトントンと叩く、ロイの指があった。
暫く好きにさせていたが、エドワードは次第に意識が凡庸としてくるようになる。身体からは力が抜けるようで前へと倒れそうになるのを、ロイに引かれ後ろの身体に凭れかかる。何かを考えることも出来ず、受話器から聞こえる声に返すのは小さな相槌だけだった。
そしてぽつぽつと頭に浮かび上がってくるその言葉をエドワードは口にした。
「ルージス。もういい加減にして。俺のことは忘れて、誰か他の人と一緒になって」
トントント、トトトン。ロイは変わらずエドワードのそこでリズムを刻む。
ロイの目には殺意すら宿っていることを今のエドワードが知ることはない。瞳から光を消した今のエドワードには。
『何をいっ…』
受話器からは、大きな声が聞こえる。それを遮りエドワードは再び口を開いた。
「もう、俺にかまわないで」
そう云ってエドワードは受話器を受け皿に落とした。
ガチャン、と音がして今まで沈黙を守っていたロイが、くっくっくと笑い出した。
ロイの胸に凭れかかったままのエドワードの目は何も映さない。綺麗な硝子球のようだ。
さらさらと、髪を梳かれて茫洋としたエドワードはロイを振りかえる。ロイは笑って、エドワードの目尻を舐め上げ。
「それでいいんだ」
囁いた。
「それで、いい?」
エドワードは目に光がないまま耳に入ってくる言葉を繰り返す。
「そう。エドにかかってくる電話は必要ないから、切ってしまわないとね」
「でん、わ?」
「そう。
エド、さっきの電話の相手は誰だったかな。覚えているかい?」
「でんわ、さっき。…あいて?」
エドワードはロイを瞳に映す。ロイはそんなエドワードを愛おしそうに顔を寄せ囁く。
「思い出せない?じゃあ、誰からも電話はなかったんだよ。エドワード」
「な、い」
「そう。なにも、なかった」
ロイは笑う。そしてエドワードの口唇に口付ける。
「なにも、なかった」
まるで、刷り込まれるように、エドワードはロイの言葉は繰り返す。
それに満足そうに頷き、引き寄せた薬を口移しでエドワードに飲ませ、腕の中に囲う。
「ゆっくりお休み。エドワード」
そう云ってもう一度、口付けた。今度は深く。沈んでいく意識を更に沈ませるようにと。最愛の姉に口付けた。




冷たい空気が差し込んでくる、広々とした地下室。書棚やいろいろな液体が入った棚。そして壁際に設置された大きな机。その部屋は研究室だった。そこをいくつもの電灯が照らす。
無色の液体が入った壜を振ればシャラシャラと音がする。
「今日は新しい薬だからどれくらい効くかわからんな」
今までエドワードに飲ませていた薬は免疫がついた可能性があった。
だから先程エドワードに飲ませた薬は今手に持っているもので、新しく調合したものだった。効き目を絶対なものにするため、薬は強いものになっている。だからどれ程の効果が期待できるのか、はっきりとしたことが判らないのだ。
身に着けていた国家錬金術師の証明となる銀時計を開けて時間を確かめてみれば朝帰ってきてからそんなに経っておらず、今は正午過ぎだった。
ロイは恐らくと、薬の効き目を推測する。
「あの分量ならば、夕方の五時には切れるはずだが。まあ今日はゆっくりできるからな。観察は出来る」
今日の効き目を見て、調合や分量も調整しなくてはいけない。だいじな、大事な姉のために。
カチカチと音を立てて時を刻む時計に目を落としてロイは溜息をつく。
ここは地下なので窓がないのは当たり前だ。だが、屋敷の全体も暗闇に閉ざされて、外の様子を知ることは出来ない。ロイは目的がありこんな状況を作っているのだが、こんな虚空の世界に一人でいると息苦しく感じる。
ロイはもう一度溜息をついてパチンと音立てて銀時計を閉じる。そしてもう一度カシャっと音を立て開ける。それを何度も繰り返す。
ロイとしては、精神に掛かる負荷を払拭したかったのかもしれない。
耳に入ってくるその音にロイは先程の寝室でのことを思い出す。
「それにしても。うまくいくものだ」
あれほどにうまくいくとは思いもしなかった。そう云ってロイは笑う。
何年かで彼女に植え付けた催眠術。それを指がとるリズムで相手の脳に指令を出す。そしてトランス状態のままで記憶の刷り込みを行う。
何年も暗闇を唯一の世界としてきた彼女は精神が弱っており簡単に掛かってくれる。
考えてみれば、実に今までうまくいっている。時を見極めて、人材を選んで、行動しているお陰だ。ここまで来るのに一寸の狂いも無かったなどと言いはしない。しないが、それでもロイが望んだ現実は、ここにある。
軍人だったエドワードが退役したことも。
その後はずっと家に居て誰とも拘わらずにいることも。
そして、エドワードにと上がっていた婚約話が水に流れたことも。
すべてが、ロイの思い通りの結果になっている。

エドワードに触れられるのは自分だけで、彼女の声を聞くのも自分ただ一人でいい。何よりも愛おしいと感じる姉を独占する。そんな現実をロイはいつから望み始めたのだろうか。
それはずっと昔だ。
幼い頃、いつものように行っていた大きな木陰でふと姉が自分に言った言葉。

『お前は甘えるのが下手だね。
大人になれば嫌でも甘えるなんてこと出来なくなるんだから、子どものうちに我侭は言うべきだぞ?』
『云ったらどうなるの』
『さあ。
でも、でもその願いを出来る限り叶えるよ。
お前には願いはないの?望むものは、ないの?』

頭を撫でる手は暖かく、優しかった。
微笑む彼女は、とても綺麗だった。
だから。

『じゃあ、姉さん』
思うが侭。願うがまま、ロイは口にした。
『傍にいて。俺だけの傍にいて』
予想外の望みだったのか、彼女は目を丸くした。そしてなんと答えればいいものかと、唸り始めた。
『まあ、いいよ。傍にいるよ』
『ずっとだよ、絶対だ。俺だけの――』
姉は弟の無邪気な願いだと想い、簡単に応えた。
けれどロイは本気だった。エドワードのすべては、自分ただ一人が知っていればいい。声も、顔も、体温も、何もかも、自分以外の人間は知らなくていいと。エドワードが知っているのもまた自分ひとりでいい。自分以外の人間など見なくてもいい。
このときに初めて、強く、つよく。独占を望んだ。

昔を思い出していたロイを地下に吹き込む冷たい風が現実に呼び戻す。
「なのに」
ロイは剣呑に光らせた眼を細める。
「一緒にいると、言ったくせに。
あの男との婚約話など受けようとした」

いろいろあり、幼い頃二年間離れて暮らしていたロイとエドワード。漸く一緒に暮らせたのはロイが十二歳、エドワードが十四歳だった。
その後エドワードは十六歳で軍に入隊。十二歳の頃に国家錬金術師の資格を取っていたエドワードは、労をせず初階級を佐官から始めることとなった。
ロイはその後を追うように十五歳になった年にエドワードの反対を押し切り士官学校に入学。四年経ち、卒業し軍に入隊した。配属先は二十歳という若さで既に大佐の称を得た、エドワードの元。
それから一年もしないうちに、エドワードにとある話をされた。
『ルージスと、婚約しようかと思う。祝ってくれるか?』

「冗談じゃない。エドワードの傍にいるのは俺だけだっ」
ぎりぎりと、銀時計を握りしめ、ロイは手を振り下ろす。固めた拳は机に叩き込まれ、重い音を立てた。拳はじんじんと痛んだ。
「今更、あの言葉をなかったことになどさせるものか」
そのために自分は様々な策を練ったのだ。過去も、現在も、エドワードと一緒にいるために。
「今更放しはしない」
華奢な音を立て、銀時計を机に置く。
机の幾つかある引き出し、一番面積の広いものを引き出せば、そこにはたった一つ拳よりも小さな銀色の懐中時計がぽつんと入っていた。
それは中心に獅子、周りには守るように張られた六芒星。ロイが今まで握りしめていた銀時計と同じもの。違いといえば、時計の表面に刻まれた名前。ロイのものには、ロイ・エルリックと。机の中のそれはエドワード・エルリックと。
そしてエドワードと刻まれてある時計は何故か獅子を貫くように、穴が貫通していた。
ロイはその銀時計をじっと見ていたが、暫くするとその引き出しを再び元に戻した。
「今更、放しはしない。赦しはしない。
誰にも、渡しはしない」

ロイは研究室の扉を開けた。
せっかくの休み、時間がある限りエドワードの傍にいるために。

「何一つとして、知らぬまま墜ちていけばいい。俺だけの世界に」
冷たく暗い寂寞とした空間にその言葉は呪いのように響いた。







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