縦横無尽に生え亘る草をざくざくと踏みしめ、五十歳半ばの男が道なき道を歩く。靴に踏み潰された草の香りが男の跡を追うように付いてくる。木々が高く生い茂り日が差さない湿気た林の中では、その匂いはお世辞にも好いものだとは思えず彫りの深い目元を細める。
本当ならば、男がこの林を抜けることなど一年のうち二度だけだったはずなのだ。生憎、今日はその一年のうちの特別な日のどちらとも違う。けれど今日はいいだろう、と迷いなく男は進む。
鬱蒼としたこの場所はあまり好きではない。そのせいだろうか、今日がいい日だと思うのに心の片隅にぽっかりと穴が空いたような空虚感、寂寞感を感じる。
「なぜだろうな、二年も待ったその日だというのに……」
ポツリと言葉を零し、それでも男は足を進める。
足にも意思にもやはり迷いはない。なのに、足を進めるごとに胸奥の思いが強まっていく。
己の心の在り様に首を傾げながらも林を進めば、目に飛び込んでくる白い光。それが示すのは林の終わり。足を一瞬だけ踏み留め、やはり男は又一歩一歩と進んだ。
やがて、林を抜ければ唐突に地面が削ぎ取られたような急な崖に出た。何度かこの場を訪れていた男は落ちないように慎重に足を運ぶ。
目下には白を基調とした小さな教会がある。あまり詳しくは知らないが古代の人々が敬い崇めた神を奉った場所らしい。だが、今は崇める者がいなくなり、無用となった神の仮初の住処は孤児院へと変わった。
教会の屋根に高く掲げられた十字を見つめ、男は広い庭へと視線を彷徨わせた。そこには朝の柔らかな日差しの中、元気な声を上げながら走り回る子ども達がいる。賑やかな様を微笑ましげに見遣りながら、男の眼差しは一人の少女に留まる。小さく、幼い少女だ。年は三つ四つぐらいだろう。
暫くその少女を見つめ、微笑んでいた男は表情を少しだけ歪ませた。怒りにではなく、悲しみにでもなく、ただ寂しそうに。
そして、男の眦から一筋の涙が頬を伝った。
「わかった。―――この虚しさの意味が、わかったよ……っ」
男は呟き、次には子どもに語りかけるように、優しく言葉を紡いだ。続き声に出したい言葉があった。けれど、男はそれを舌に乗せることが怖くて、本当に恐ろしくて、息を、声を呑んで泣くことしかできなかった。
自然に、とは言い難いほどに綺麗な円を描き、地下へと落ちている大地。其処に存在するのは、円状に聳え立つ崖に護られながらも事実囲われ囚われる閉鎖的な白い教会。出入り口は崖に掘られたトンネルが唯一つ。
子ども達は今日も箱庭の意味を知らずに笑い、遊んでいる。そんな、穏やかな朝の情景だった。
静かな昼下がり、空は薄灰の色に覆われて。薄いながらもその雲に陽光は遮られ、街は薄暗い。それでも、未成年者誘拐事件が解決し安堵の息を漸く付けたのだろう、道を行く人は多い。
緩やかに走る車の窓から、そんな街の様子をエドワードは眺める。
エドワードの心情は波紋も起こらない泉のようだ。ただ、その中に黒く大きな石が沈んでいく。それを厭に思い知り、重い溜息が口を突こうとする。エドワードはそれを気力で呑み込んでみるが、気分は落ち込んでいくだけだった。
快晴を思わせる軍服は、普段なら心を凍りつかせどんな悪意の刃も憎悪の焔も利かなくするはずなのに、悲しみにも怒りにも苦しみにも動かさない戒めとなるはずなのに。今、エドワードが望む効果はない。
重く苦しい気分を払拭しようとエドワードは金の瞳を閉ざす。
「落ち込んでいるのですか、エルリック少将?」
運転席に座りハンドルを握る男は、揶揄する口調でルームミラー越しにエドワードを見る。エドワードの瞳は未だ目蓋の奥、隠されたままだけれど。彼の嗤う視線はしっかりと肌が感じ取った。
答えの判り切っているその質問に、応える気にはなれない。エドワードは静かに目蓋を持ち上げ金色の瞳に車外の世界を映す。
「今更でしょう、なにを落ち込んでいるのですか。望みを叶える為なら、世界ですらも騙し、敵に回すと決めたのでしょう、エルリック少将。どうせ、貴方は独りなのです、一々傷ついていては先には進めませんよ」
否応なく惹きつけられる深みのあるテノール。美しいそれに含まれるのは叱責と嘲笑でしかないとエドワードはわかっていた。
男の、ライル・クロビアンの言葉の棘にずきずきと痛む心を抑え、ルームミラーに映る男の顔をエドワードは見た。
鏡に映るのは黒に近い藍の髪に鋭い眼光を秘めた同色の瞳。整った眉に、流れる鼻のライン。薄い口元までは映ってはいないが、男の顔は世間一般で言う『格好いい』という部類に入っているらしく、少し前まで席を置いていた中央の街では大層な人気があった。愛想好く優しい、と老若問わず女性は彼をそう評した。けれど、彼は優しいわけではない。どちらかと言うなら酷く冷酷な人間だ。愛想好いと評される仮面の被っているときも、その眼は氷のように冷たい色をしている。優しいと評される彼が差し伸べる手には、侮蔑の気配が厭に漂っている。
それがなぜわからないのだろうか。なぜ、気付いてくれないのだろうか。
ライルは既に後部座席にいる者には目も向けず、目的地に向かい車を黙々と走らせている。
鉄の箱の中で満ちる沈黙に息苦しさを感じながら、エドワードはゆっくりと目蓋を閉ざした。
もう直ぐ、目的地に着く。流れていく街の景色がそれを教えてくれた。此処からは、戦場だ。甘えも弱さも許されない。
普段は手の届かない意識の深層のさらに奥深くに、エドワードは己の弱さも甘えも沈めていく。沼に足を取られるように埋まって行くそれに一抹の寂しさや空虚感を感じながら、軍人である己の意識だけを連れて浮上しようとするそのとき、エドワードは声を聞いた気がした。今此処にはいない、本来の護衛の任に就く部下の声を。
『―――――』
「着きましたよ、貴方がお望みの戦場に」
けれど、それは所詮幻聴。だから、この戦場で背を託すたった一人の部下の声が真実鼓膜を震わせる。
エドワードはゆっくりと目蓋を持ち上げた。
東部一の資産家の住まう広大で緑豊かな庭園、豪奢な邸宅。それに見合う門は大きな音を立てることなく開き、軍用車を中へと誘う。既に邸宅前に数台停まっていた軍用車の数をもう一つ増やし、エドワードはそこに降り立つ。
眼前に臨む、財の威圧とも取れる建築物は金色の瞳には映しきれない。多くの市民が敬意と、そして憧憬を持って見るのだろうそれに、エドワードは双眸を細め、愚かしいと呟いた。
それが侮蔑の意でも、嘲笑の意でもないと知っているのは、傍近くに控えていたライルただ一人。哀愁の色を稀有な金の瞳に浮かべている本人でさえ、どんな意味で零れ出でた言葉かは解ってはいなかった。
「東方指令部って結構古いんですねぇ」
所々ヒビが入り薄汚れている壁や年季の入った執務扉をきょろきょろと物珍しそうに見遣る青年に、ロスは呆れて溜息をつく。
「子どもみたいな真似をしないでくれる、ブロッシュ伍長。貴方は東方指令部最高司令官であるエドワード・エルリック少将の部下なのよ。いくら此処が中央でなくても、貴方の行動次第で少将の評価が下がることだってあるんだから、もう少し自分の立ち位置を考え、自覚しなさい」
トゲトゲと言い募るロスに、ブロッシュは顔を引き攣らせる。毎度の事ながら、この上官の言は厳しい。言っていることに間違いがないのだから言い返すことも出来ず、ブロッシュは謝罪するしかない。
「す、すみません。でも、ほら、着いたのが昨日ですから、早く此処にも慣れなくては。一々誰かに聞いていてはそれこそ准将、じゃなかった、少将の評価を落とすことになるじゃないですか。ほら、一見は百聞に如かず、ってやつですよ」
それでも、口から出る言い訳をブロッシュが必死に説けば、泣き黒子が印象的な上官は片目だけを眇めて再度溜息をついた。
「それを言うなら百聞は一見に如かず。一見が百聞に劣ってどうするのよ。全く、お願いだから軍人としての威厳とか、そういうのを持ちなさい」
頭が痛いと言うようにロスは右のこめかみを揉み解す。そんな彼女に、誤魔化すようにハハハと乾いた笑いを返していれば、前方から此方へと歩いてくる見知った姿がブロッシュの眼に映った。
「ロス中尉、あれ……」
「……ハボック中尉」
呟き、ロスは立ち止まった。慌てながらブロッシュもそれに倣い、俯きながら近付いてくるもう一人の上官に敬礼を取る。距離があと十歩と狭まった頃、漸く彼はこちらの存在に気付いたらしくハッと顔を上げる。そして、眼前に立つ二人の人間の顔を認識し、彼は正しく苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ご苦労様です、資料は見つかりましたか?」
ロスはそれだけをハボックに訊ねた。
まるで誰かを避けるように朝から姿を消していたことには触れない。それを皮肉に感じたのか、ハボックは更に眉間の皺を深くした。不機嫌とわかる表情ではあるが、彼はロスに反論はしなかった。質問の答えも返さなかった。いや、彼はそれらを返せなかった。
「あの人は?」
あの人、とハボックの物言いは抽象的ではあったが、それが誰を指すものかわからないロスではない。ブロッシュとて誰のことかはわかっているはずだ。それだけ、『あの人』の配下はまず『あの人』を第一に考える。
それは、今のハボックにも当て嵌まる。如何に『あの人』、エドワード・エルリックの所業を理不尽と憤ることがあっても、彼女の真実を見知った人間には彼女から離れることが出来ない。逃げることはあっても、離れることはどうあっても耐えられない。
闇い夜の色を持つライル・クロビアンがロスと出会った当初、彼はエドワードを魔物と称したことがあった。当時、ロスはエドワードが嫌いだった。だから、よく耳にするエドワード・エルリックは化け物だという噂を捩ったものだと思っていた。人を惑わす存在を麻薬と比喩するのはよく聞くが、ライルの言葉がそれと同義のものであったと識ったのは彼女の下に就いて随分と時を経てからだった。
ライルの言葉通り、共に時を過ごすだけ自分が愚かに無様に彼女に囚われていくのが良くわかった。それでも、彼女は決して此方を振り向きはせず、如何程の逆境でも差し出された手に眼も繰れない。ただ『終わり』のある前だけを見据え、独りであろうとする彼女に、焦り、苛立ち、悲しみや憤りを抱いてしまうハボックのことがロスは理解出来た。
だからこそ、言ってやりたいことはある。だが、それを第三者が言ってはいけない。これからもエドワードの側に居るつもりがあるのならば、ハボックが自身で気付かなくてはいけない。
「おいっ、あの人はどうしたんだよ、まさか一人で行ったんじゃないだろうな?」
思考の波に攫われていた意識を現実に戻すと、眼前には苦虫を潰した顔はなく、低い声に見合う険しい顔があった。
窓の外、空には灰色の薄雲が掛かり、果てには黒雲が見える。暗くなり始めた廊下の中でもハボックやブロッシュの金色の髪は明るく見えた。
昔、といっても、四年ほど前のことだが、ロスはその色を羨んだ。エドワードの代わりとなれる、その色があの時はどうしても欲しかった。
愚かな記憶が一瞬甦り、ロスは左肩がじくじくと疼くのを感じた。それを治めようと左の手で拳を作り握り締める。
一向に返答を寄越さないロスに焦れたハボックは再度問いを発しようとし、場が険悪に成るのを恐れたブロッシュは上官の代わりに答えようと口を開いた。それを、ロスは溜息を一つ吐いて遮った。
「本来の護衛役の誰かはどこかにお逃げになっていましたから、エルリック少将が向かわれた戦場にはクロビアン大尉が代わりに護衛としてお供されています」
今度こそ皮肉交じりの言葉をロスが投げつければ、各々内心は違うだろうがハボックもブロッシュも同じようにひくりと口唇を歪ませた。
じくじくとした疼きが次第に感じなくなり今度はカタカタと細かい痙攣が始まった左腕を真っ直ぐに、ハボックの目の前までロスは持ち上げる。ハボックは訝しむ眼差しを向けてきたが、瞬き後ロスの言いたいことがわかったのだろう顔を歪ませた。
「あの時、貴方が私に言った言葉を、私から今の貴方に返します。『共に歩むことへの覚悟がそれっぽっちのもんなら、お前は要らない。あの人の邪魔になるだけだ、去れ』忘れないで下さい。そして、私から、もう一つ。あの人の理不尽なんて、今更だわ」
ロスはそのまま何事もなかったように、ハボックの横を通り過ぎ目的地へと足を進めた。今までほぼ静観の態を取っていたブロッシュも、目の前の無言のままの上官に敬礼をしてもう一人の黒髪の上官の後を追った。
遠ざかる二つの足音が完全に聞こえなくなってから、ハボックは壁に背を持たれかけさせた。疲労感漂う溜息を吐きながら、胸のポケットから煙草の箱を取り出すが中は空らしく随分と軽い。試しに箱を振っては見るが予想は的中でカサカサと虚しい音がし、ハボックは落胆を隠せず溜息を又吐いた。
煙草に手が伸びるのは確かに中毒の所為もあるが、ハボックにとってはそれだけではない。煙草を吸う事によって、頭の回転が普段より数段は速くなるのだ。ロスやライルほど頭脳面では秀でていないハボックにとって、それは百害あっても嬉しい一利と思えるものだった。そしてなによりも、煙草は精神安定剤の用も成していた。
「ちくしょうっ」
眼を閉じれば思い出すのは、額の中心から左頬まで斜めに走る傷を持つ男のこと。珍しい赤銅色の短髪、美丈夫とまではいかないがパーツは程よいバランスで顔に治まっている。難を言うならば、彼が考え事をすると無表情になり、吊り上り気味の片目の碧眼が冷たく感じられることだった。彼は、三十路の手前の所為か、それとも特殊な人生経験を経たからか、老若男女や格差に拘らない紳士だった。
それでも、ハボックは覚えている。今の髪の色は違うが、確かにイーグル・ワークと名乗った男は、自分たちが東部へ向かう為に乗り合わせていた列車をジャックした東方地開放義団の一人と同じ容貌をしているということを。
あの時、一等車両を解放した後、上官であるエドワードの言に従い、ハボックとヒューズは一等車両を後にした。それから、各一般車両で気絶しているテロリストを引きずり一等車両に戻ってきたときには、既にその男は消え、人一人の存在証明のように少量の血溜まりが在るだけだった。当然ヒューズは説明を求めたが、それに対し詳細を知る上官の応えは、攻撃の加減を間違えて殺してしまい死体はそのまま高架下に落ちた、だけだった。それ以上上官はなにも言わず、部下であるハボックとヒューズは何も言えなかった。その後、男の死体を捜す事はしたものの、落ちた場所は運河の近くであった為其処に落ちた可能性が高いとされ捜索は直ぐに引き上げられた。東方司令部最高司令官の命令で。
エドワードがやらかした事の筋書きは考えるまでもない。考えるまでもないのだと、ハボックは臍を噛む。
『元テロリストのあの男』は既に鬼籍に入っている、それは間違いない。ただし、あの男は新しい戸籍を持ち、新しい人生を歩んでいるのだ。イーグル・ワークとして。
そう考えた途端、ハボックは眩暈を伴うほどの怒りを感じた。悲しみや苦しみもあった。けれど、それ以上に、エドワードに対し激烈な怒りがあった。
エドワードが誰かに新しい戸籍、全くの別人の人生を用意するのは珍しいことではあるが、過去幾つか実行していたことである。勿論そんな危ない橋を渡ることはやめて欲しいと部下一同願い、請うた。それでも、彼女に説かれ最終的には部下一同でそれのバックアップをしてきた。
いつもではないけれど、エドワードは危ない橋を渡るときはそれ相応の説明や相談をしてくれた。だのに、今回は相談されることも説明されることもなかった。
アメストリスは国を揺るがすテロ行為を重罪の域に置いている。それを理解した上で、エドワードは断罪されていないテロリストに新しい戸籍を与え新しい人生を歩ませること独りで決断したのだ。結果、軍や国への反逆行為である、第一級の重罪を自身に科されることを覚悟して。
腹立たしい、喩えようもないほどに腹立たしい。目蓋を持ち上げ、ハボックは心情のまま手を固く握り締める。グシャと音を立て手の内にあった煙草の箱が歪んだ。
頑なに独りであろうとするエドワード、それは危険と隣り合わせの彼女が見せる周囲への優しさだ。そんな事は分かっている、解ってはいても、ハボックは納得なんてしたくもないし、出来ない。
「アンタは、何時になったらオレらを見るんだよ。信じろよ、独りであろうとしないでくれっ」
彼女の、エドワードの願いは壮大で危険なものだ。一人ではどうにもならないと彼女とて理解しているだろうに。
だからこそ。巻き込んでくれと、手を伸ばしてくれとハボックは痛切に思った。幾度目かのその思考を強く、強く。
(アンタが手を伸ばしてくれないなら、傍にいる俺たちの存在は一体なんなんだっ)
その思いはいつだってハボックを冒す。
「ロス中尉、いいんですか。ハボック中尉なんか落ち込んでいたのに、あんな言い方して……」
ブロッシュが背後を振り返り、次に前を歩くロスを見ることを繰り返す。どこかオロオロとしたその様子にロスは溜息を吐く。弁明ではないが、言っておこうかと彼女は口を開いた。
「言っとくけど、私はまだ優しいのよ。さっき私がハボック中尉に言った言葉、覚えている?」
「え、……えと、なんか覚悟がないなら、去れ、とか何とかでしたよね?」
「まあ、合っているわね。『共に歩むことへの覚悟がそれっぽっちのもんなら、お前は要らない。あの人の邪魔になるだけだ、去れ』よ、ハボック中尉は昔、死に掛けの体だった私にそれを言ったのよ」
当時を思い出すだけでも左肩にある古傷と、胸がズキリと痛みロスは眉間に皺を寄せる。
砂塵が舞う戦場でエドワードを庇い負傷したとき、大量出血の所為で意識が朦朧とするロスに剣呑さを隠しもせずにハボックはその言葉を告げた。
「貴方も知っての通り、エルリック少将には敵が多いわ。それは内にも外にも。でも危険なのは、外よりも寧ろ内の敵よ」
「はい」
「特に危険なのは戦地。只でさえ生死を左右する危険がそこらじゅうに散らばっているのに、内にまで敵がいる所為で食事中には毒の、休憩中には奇襲の危惧に気の休まるときはないものよ。だからこそ、真の味方は一人として欠けてはいけなかった。でも私は、戦地で少将を庇い負傷した。お陰で私は戦線離脱、少将の護りの駒は一つ減ってしまい、少将の命の危険度はグンッと上がってしまったわ」
まだ就業中のこの時間、廊下を歩くのは目に見えるだけでも二人以外は誰もいない。ロスの苦渋の呟きは、静かな廊下では余計に痛みを覚える。
それを吹き消したい様子でブロッシュは、でもっと口を開いた。
「ロス中尉が庇わなければ、それだけの大怪我をエルリック少将も負っていたのでしょう、ならば、仕方がないじゃないですか」
「……いいえ、あれからよく考えてみたのだけれど。あの時、私はそのプレッシャーに負けたのかもしれないわ。どこかで逃げたいと思っていたのかもしれない。仕官学校を出たとはいえ、初めての戦場、私は怖かったのよ。人を殺すことが、人を殺していく仲間が、そして殺せと命じる少将が。他の兵士とは違って、私は少将の副官だったから気の休まるときはなく、気の切り換えようもない。殺伐とした空気をいつも肌に感じていた。逃げたいと、思っていたのよ、あの時。逃げ出すのなら、精神を壊すか、上官に逆らうか、負傷するしかない。だから、庇ったのかもしれない。ハボック中尉の言は正しい、中途半端な覚悟でいられては邪魔なだけだもの。だから、覚悟を据えた今の私から、少将の行動に心揺るがせるハボック中尉にあの言葉を投げつけたのよ。邪魔者になられては困るもの、私と同じく彼はいい駒だから」
それでも息苦しさを覚える告白は、ロスにとってもブロッシュにとっても辛いものだった。それでもいい駒、との揶揄の所為かブロッシュの気分は少しだけ軽くなった。
「あと、そうね。一つだけ戦地を経験した先輩として、戦地をまだ経験していない後輩にアドバイスでもしておきましょうか。戦地では、日記でも書いておきなさい。その日の出来事を書き記し、決別し、気持ちを切り換えなさい。決して、私の様に戦場特有の負の雰囲気に呑まれてはだめよ」
まだ残る陰鬱さを払うように、ロスはからりと笑う。けれどブロッシュは、来ては欲しくないがいずれ必ず来る徴収の日を生々しく思い、胸が重くなり気持ち悪さを感じた。
俯く後輩にはまだ早かったかとロスは溜息を吐いた。さてどうしたものかと、どうでもよさげに考えているその時、エドワードと肩を並べるもう一方の司令官の副官がこちらに向かって歩いてくるのがロスの眼に映った。
「リザ・ホークアイ中尉ですね?初めまして、私はエドワード・エルリック少将付きの副官を務めます、マリア・ロスです。階級はホークアイ中尉と同じ、中尉」
ピンッと背筋を伸ばし敬礼をするロスに、俯いていたブロッシュも慌てたように倣う。
「お初にお目にかかります、同じくエドワード・エルリック少将の麾下、デニー・ブロッシュ少尉でありますっ」
「初めまして、ロイ・マスタング大佐の副官を務めております、リザ・ホークアイです」
ホークアイも二人と同じく敬礼をして、姿勢を戻した。心なしかホークアイの顔が強張っている様に見えるのは決してロスの気のせいではないのだろう。
エドワードがホークアイの上官であるロイから手柄を横取りした一連の事件は数日前の話だ。過程は措いておくとして、一度ならず二度までも、事件の指揮権を譲渡したしたくせにここぞと言う時に指揮権を奪い、手柄を総取りしたエドワードの所業はマスタング側の人間から見れば正に掌を返されたというものだ。この裏切りに対し、反感や警戒心を抱かない方が可笑しい。
「エルリック少将のご命令により、ジールディスの研究所の一連の事件の資料等を回収に参りました」
坦々と用件のみを告げるロスに対し、ホークアイは愕然と目を見開いて息を止めた。
エドワードが起こした一連の行動をよくよく考えてみれば懐疑を抱かざるを得ないのだが、彼女達は気付いていないのだろう。目先の行動に呼び起こされた感情に思考が翻弄され、真実が見えていない。光の色を纏う上官はそれを望んだ。だから、これでいいのだろう。それでも、ロスは思う。
(これで、本当によろしいのですか)
今の彼らは自覚もないまま、エドワードに目隠しをされ護られている。けれど、彼らはいずれエドワードの願いのために動く駒となる存在だ。特に、ロイ・マスタングは要の駒になる。
(少将、貴方は過保護すぎる。少しくらいの危険は彼らに必要です。上層部に目をつけられて、潰れてしまうのなら、それまでの価値。決して、貴方の願いを叶えられたりはしない)
そんな思考がロスのなかでは占められている。
ホークアイに案内され、ロスとブロッシュが訪れた部屋にはロイの麾下が勢揃いしていた。彼らは一同、穏やかさとは程遠い空気で二人を迎えた。殺気染みたものや戸惑いを含んだものもあったし、嫌悪や侮蔑もひしひしと感じた。ブロッシュはまだそういうものに慣れてはおらず、顔を真っ青にして緊張した面持ちを露にしている。
ロスはそれを意にも介さず、用件だけをロイに告げた。瞬間ロイは怒りを瞳に宿らせたが、最高司令官の命には逆らえずロスに資料を渡した。
「それから、エルリック少将よりの伝言です。本日16:00に第三会議室においでください。急ですが、会議を行うとの事です。マスタング大佐の麾下にある者も要出席で、お願いいたします」
それだけを言いロスは部屋を出た。慌てて付いて来るブロッシュは余程怖かったのか、肺を空にする勢いで吐き出す長い溜息が震えていた。情けない、と思わないこともないが、それでもまだ経験が浅いのだからこれからかとロスは見逃す。
(でも、彼らは、見逃せない。少将の足を引っ張るだけだと判断したのなら、すぐさまに首を掻っ切る)
それでも、願わくは、エドワードの駒になってくれるといい。ロスはそう思いながら、重い資料を抱えなおした。
「……大佐」
ホークアイに呼ばれ、ロイははっとした。
「ああ、大丈夫だ」
ホークアイが次に言うことが分かっていた為、ロイは先回りした。彼女はきっと自身の釣りあがった目を注意したいのだろう。呆れたような声音で名を呼んだのだから、きっとそうだ。
上官が寄越した部下二人に事件の資料を渡すため己の机から離れていたロイは、仕事を再開するために元の居場所に戻った。その短い道中、釣りあがった目を治そうと目頭を揉み解す。
「これが、真実なのでしょうか。あの方は、なにを考えていらっしゃるのでしょうか」
ホークアイは、ロイの隣でポツリと呟いた。ロイは、暫くなにも言えなかった。
「わからん。だが、そうだな。冷静に考えてみれば可笑しいか。少将は着任当初より事件の真相を知っていた。彼女の目的を手柄とするならば、最初から指揮権を私に与えず、自身で事件を指揮すればよかった。だとすると、彼女の目的は手柄ではない、と言えると思うんだが。―――さて、それ以上は私にもわからんな」
ロイは溜息を吐いて、ペンを握り仕事を再開した。
上官とその副官の話を聞いて、一人の部下は奇妙な違和感を覚え、其処を出ていった。
流れていく街の景色を瞳に写しながらも、それらはエドワードに何の感慨も与えなかった。
それでも、とある路地に差し掛かろうとするとき、その路地の先の場所を思いエドワードは唇を噛み締めた。
会いたいと、思わない。どちらかというならば、揺れ動く心のままで会いたい人物ではない。それでも、胸の奥で痛いほど脈打つ心臓が、彼を求めた。
そんな自分を見透かし、ライルが車を止めた。
「どうぞ、ちょうど正午を過ぎたところです。お昼、行って来てください」
振り向きもせず、ルームミラー越しに見られたわけでもない。坦々とした声はエドワードを切り捨てたようにも取れるのに、それでも、ライルの声に救われたような気がした。
それが何故なのか、解ればエドワードはその言葉に拒絶を返さなければいけなくなった。
「……いや、いい」
「私は食事をしてきてください、と言っているのですが?」
「まだ、司令部に仕事を残している。この後に寄りたい場所もあるし、時間を食っている暇はない。―――車を出してくれ、クロビアン大尉」
底冷えのする双眸でミラー越しに睨まれた。それでも、階級で呼べば彼は諦めるように一つ瞬き車を滑らせ始めた。そのまま車は街外れへと走っていく。途中道端に落ちている新聞に目が留まり、エドワードは痛みを押し隠すようにゆっくりと瞬く。
緩やかなスピードで街並みが遠ざかっていく。後ろ髪を引かれる様な心地の中、それでもエドワードが車を止めることはない。エドワードは自分に甘えを許す気はないからだ。
次第に建築物はなくなり、当然人の影もなくなる。そうして、鼓膜を突くのは車の稼働音とタイヤが砂利を踏む音だけになっていった。そんな舗装もされていない道を半時程黙々と走る車の目前には小振りの丘が見えてきた。それがエドワードの目的地だった。
丘の麓に停車させ、エドワードは一人緩やかな勾配を昇りだす。その背に部下の呆れを孕んだ溜息が掛かるがそれでも足は止めない。
けれど湿気を帯びた大地に男の足跡を一つ見つけ、エドワードは足を止めた。足跡はまだ新しいものだ。
エドワードはゆっくりと左手にある鬱蒼とした林を見遣り、もう一度足跡を見た。
「彼か……」
足跡の主に心当たり、金の眼を瞬かせる。そのとき、湿気を含んだ強い風が吹き、エドワードの足元にカサリと音を立て何かがぶつかる。それを拾い上げ、エドワードは一瞥の後に握り締めた。そのまま勾配を昇るために足を進めていく。
“彼”と同じ目的が、この向こうにある。古、神と同等に敬愛する人の為に建てられた、白い教会が。そこは何も知らない子ども達の、小さな楽園。そして、箱庭だ。
エドワードの手の中で、先程拾い上げられたそれがクシャ、と悲鳴を上げる。土で汚れ、皺の寄ったその灰色の紙面には、『暴かれるジールディス一族の実態』と銘を打たれていた。
"彼"が、"彼ら"が待ち望んだはずのものだった。
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