『仕方がない』
これまで何度その言葉を口にしたのだろう。
目の前に突きつけられる答えはいつだって納得できないもので。それでも、どうしようもないことを知っていた。
だから、諦めていた。
すべてが自業自得だと思ったから。
けれど、誰かを巻き込んでしまったら、どうすればいい。
齢、五十の半ばを超えると言うのに、起きる戦争には悉く出向き、五尺もある大刀を軽々と振りかざして圧倒的な強さで無数の敵を薙ぎ払う男の姿に付いた名が鬼神。
その鬼神は、今は中央で軍務についているはず。
では、今ロイの目の前にいる人間は一体誰だ。
この眼には鬼神と呼ばれた、ヴァック・ホーランドにしか見えないのだが。
「お久しぶりです。ホーランド中将」
顔を引き締め、敬礼を取るロイは現状に非常に危機感を抱いていた。
ロイは今昇格秒読みとなっている。まだ二十歳の半ばで大佐という肩書きを持つのは余りに異例だ。
エドワードもそうだが、彼女はそれだけの時間を軍属として費やしている。だが、ロイはそれほどに時間を費やしているとはいえない。だからこそか、年若い自分は何故か上層部のお偉方に目をつけられていた。
そのうちの一人が、ホーランドだ。
つい先程、今はソファーに自堕落に沈み込んでいるジールディス一族の当主を陥落させたと言うのに。
この男ならば、その苦労を水の泡にしてくれそうだ。
「久方ぶりに友の元を訪れれば、奥方が朝から軍に無理矢理連れて行かれたと言う。これはどういうことかね、マスタング中佐」
ちらりとソファーに沈む存在に一瞥をくれてから、向けられる冷ややかな眼差し。ひしひしと感じる空気の冷たさ。今まで相手にしていた老人とは違う本物の重さのある声。流石は鬼神と言ったところ。そんな風に、息も詰まる空気の中感嘆とした。
だが、今はそれよりも。この男は、シールディスを友と呼ばなかったか。それが真実ならばロイにとっては不利な状況だ。目の前に差し迫った事件の解決が泡に消えていく可能性が大きい。
ロイはこの男をどうやって追い出そうかと頭を捻る。
「どう、と申されましても。ただの定期調査です。ジールディス氏についてはこの研究所の所有者であったのでご足労願っただけですが?」
なにか問題でもありましたか。
言外に皮肉るように告げれば、男は目を細めた。
落ちてくる圧倒的な空気の重みにロイは心臓を締め付けられる。同時に、息を呑む音が聞こえた。
音のほうを見れば、ソファーに座る老人が前屈みになり、首を押さえている。経験したことのない感覚に混乱して呼吸が上手く出来ないのだ。
好印象を与えねばならない実業家に相応しい、首元をきっちりと締めてあるタイを緩めるためロイが手を伸ばそうとした瞬間、空気が弾け散った。
ホーランドが何を思ったのか、重い空気を解放したのだ。
友、と言った言葉は本当らしい。ホーランドの行為は明らかにジールディスを気遣ってのものだった。
鬼神と呼ばれる男の意外な行動に愕然とするロイを無視したまま、ホーランドは問いかける。
「何時間経ったのかね」
「調査のですか?時間は関係ありません。すべての研究室を調べ終わるまでは終われませんよ」
「聞こえていないのか?何時間経ったのか、と聞いておる」
「…一時間四十九分です」
「はっ、二時間も経つというのにまだ終わらんとは、上官が無能だと部下も無能になるのだな」
嘲笑と共に投げつけられた皮肉。
ポーカーフェイスを守りながらロイは拳をぎりぎりと握りしめる。
中将の肩書きも、左胸に輝く幾多の勲章も、確かに男のもの。
だが、戦場に慣れすぎているこの男には、万の屍を作り上げ、悲しみや憎しみを生み出すことは出来ても。ロイのように一つの命を守って、誰かの瞳から温かな雫を零させることは出来ない。
部下たちのように、たった一人の子どもを犠牲にさせるものかと、冷たく汚れた床に這い蹲る真似などできない。
ただ、武器を持ち殺戮だけを繰り返すしか出来ないこの男に、命を尊ぶロイや部下を無能などと蔑む権利があるのか。
咽喉奥で痙攣が起きる。無理矢理に罵詈雑言を飲み込んだ所為だ。
ロイは肌が白くなるくらい拳を握り締める。
「ジールディス。此処にはもう用はない。久しぶりに一緒に飲もうじゃないか」
ホーランドはこの場の指揮官に断りも入れずにジールディスを伴い部屋から出て行こうとする。
皺にハリを失った手を取り、ホーランドが無理矢理のようにジールディスを立ち上がらせたとき、開いたままの扉へ二人の特徴的な男が駆けこんで来た。
「マスタン、グ、中佐。見つけました」
荒く息切れしながらも告げたのは黒髪に眼鏡をかけた少し身長が低い男、フュリーだ。
もう一人は豪快な体躯にオレンジ色の髪の毛の男、ブレダ。
ブレダはぜえぜえ言いながら、壁にもたれかかっている。体力的にこちらは保たなかったか。
部下の報告にロイは会心を覚えた。
だが、答えたのはホーランドだった。
「ご苦労。だが、もういい。定期調査は終わった。君たちは後片付けをしたまえ」
「お待ちください、まだ終わってはいません。イーストシティは貴方の管轄ではありません。勝手な指示はご遠慮願いたい」
睨みつけてロイが告げれば、ホーランドは嗤った。だが、その眼は冷たく強い。背筋は緊張感にピリピリと電撃が走り、額には汗が滲む。
「勘違いするな。これは上官命令だ」
軍は縦社会。如何に耐えがたくもその言葉を出されれば従わざるを得ない。
ロイは悩んだ。勿論このまま終わってやるつもりはない。ならばどうすればいいものか。
顔には出さず、ただ頭をフル回転させて、闇に埋もれそうな道を探す。
そのとき、一陣の光が差し込んだ。
「勝手なことを言うのは止めていただきたい」
その女の姿を髪の毛の一本一本を確認できるほど間近で見るのは、二年ぶりだった。
あの時と同じく、氷の冷たさ思わせる無表情。
よく整ったお綺麗な顔だからこそ、迫力があって、どこか気味悪く思う。
それと同時に、一度は消えたと思っていたそれが再び燻り始めた。
どうにか堪えようと眼を閉じれば、幼い少女が脳裏に描かれる。
伸ばされた小さな手は遠く、掴もうとするこの手は届かない。
女に抱ける感情なんて、憎しみしかなかった。若しくは殺意か。
それ以外に抱ける想いなんて、この世には存在しないだろう。
絶対に。
「まったく、ハクロ少将といい、貴殿といい、いつから将軍という役職は人の管轄で好き勝手出来るほど暇になったのでしょうね」
「エドワード・エルリック……」
一陣の光は東方の最高指揮官である、エドワード・エルリック、その人。
名を呟いたホーランドと同じく呆然としたロイは、彼女の登場を見つめながら困惑する。
混じりけのない金色の瞳は、ロイの目の前に立つ鬼神よりもはるかに冷たく感じ、醸し出される雰囲気は硬質で近寄りがたい。
敵愾心をむき出しにしていたロイでさえ、こんなエドワードを見たことはない。
なぜ、今此処で、ホーランドにそれを向けるのだろうか。
そして、ふと思う。
「なぜ、ここに…」
それの答えはただ微笑まれるだけ。
「さて、ホーランド中将。彼が言ったとおり、此処は貴殿の管轄区域ではありません。勝手に上官の権限を振り翳し軍務の邪魔をするのはお止めいただきたい」
「邪魔、だとっ?私は貴様よりも上官だ。口の利き方には気をつけたまえ、エルリック准将」
立場を弁えろと、唸るように叱責を口にした上官に、エドワードは笑う。
彼女は扉がある背後を振り返る。ロイも釣られて視線を流せば扉に佇む黒い短髪の女性将校がいた。
見覚えがないので、彼女の部下かもしれない。随分前に部下が後から三人来ると言っていたから。
差し出された彼女の華奢なその手に、大きめの茶封筒が載せられる。それをホーランドの目の前で紐解き、中から一枚の紙を取り出した。
ロイは瞬間、何故かそれが何なのかわかった。
「辞令。東方司令部所属、エドワード・エルリック准将、及びロイ・マスタング中佐を目覚しい活躍の賞として一階級昇進を命じる」
彼女は妖艶に微笑み、アルトの美声に紡がれた言葉に呆然としたままの男に大総統の印が捺された正式な書類を目の前に突きつけた。
「馬鹿なっ。なぜこんな」
「そう言われましても。正式な書類ですよ」
ホーランドは目の前の手から薄っぺらい紙を奪い、穴が空くほどタイプライターで綴られた文を凝視する。
何度も何度も読み返した末、男は狂ったように急に声を上げて嗤い始めた。
「は、ははははははっっ。大総統のご寵愛が深いだけはある。小さな手柄でも大きく取り上げられて羨ましい限りだ。だが、流石に調子に乗りすぎではないかね、閨でのお願いもそろそろ慎んだほうがいい。エルリック少将」
ひくひくと顔を引き攣らせた男の言葉に反応したのは、エドワードではなく、その背後に控えていた女将校とロイだった。
「いい加減に…」
「止めろ」
一つに重なった二人の非難を止めたのは、嘲りを受けた本人だった。
「エルリックじゅ、少将…」
慣れない呼称を口にしながら、ロイは口ごもる。
言わせたままでは彼女の威厳がない。
女性将校も同じ考えなのか、彼女の眼が鋭く光ってホーランドを捉えている。
「ロス中尉」
エドワードが抑制の意で一瞥を背後に向けた後、ロスと呼ばれた彼女は怒りの余りに踏み出していた一歩を無理矢理のように引き下げた。それは本当に無理矢理のようで、彼女の眼はまだ怒りに爛々としていた。
「すべては私の実力だ。ご存知でしょう?私の有能さは。貴殿が捉え損なった事件も、私が指揮を取り始めてからとんとん拍子で解決していった。それは一つや二つではない」
「は、それこそどんな色仕掛けをしたのか。情報屋や犯人と寝て交渉したと有名だよ。色事しかできぬと言うならば、下がっておれ、この売女がっ」
懸命に暴言を吐き出すホーランド。エドワードはそれに呆れて溜息を落とす。ロイとしては、とりあえずその男を得意な焔で包んで黙らせたい衝動を抑えるので一苦労だ。ほんの数日前まで、自分が同じようなことを考えていたのは棚の上、ロイはふつふつと湧き上がる怒りに固く拳を握り締める。
大体、こうまで罵られているというのに、彼女自身はなぜ怒らないのだろう。
「いい加減に黙っては如何か。なにを言おうとも、私の昇進は変わらない事実。理解されよ。貴殿が私を嘲るほど、罵るほど、ご自身の浅ましさと愚かさが浮き彫りになるだけだ」
低く冷たい声はぴしゃりと断絶するように響く。それが呼んだのは冷ややかな空気。
煩わしそうに歪んだ彼女の顔。
それでも、怒っているのではないとロイは思う。
彼女は自身を嘲る言葉を虫の羽音のようにしか感じていない。つまりは雑音か。
わなわなと震えながら、男は言葉を捜す。
「まだ、言う気ですか。まあ、ご自由にどうぞ。ですが、部屋の検分はさせていただきます」
部屋は見つかったのか、そう金色の上官に問われて、ロイは頷いた。
さっきの自分と同じく満足そうな顔をエドワードは見せる。
微かな微笑に、褒詞を受けた気がして、部下たちの手柄をロイは自分のもののように誇らしく思った。
「少々調べねばならぬ部屋が出てきたそうなので…ご一緒願いましょう、ジールディス氏」
妖艶に微笑んだ金色の上官をロイは凝視める。
その場の指揮権が奪い取られていることにも気が付かず。
重いコンクリートの床を持ち上げれば階段が見つかった。
風が通る音が不気味に聞こえた。
どこまで続いているのかとライターを翳しても、奥は闇一色。
相当に深く掘られているのか、研究室にたどり着くには随分と時間が掛かった。
そうして、重厚な扉を開ければ、目の前に飛び込んできたのは大人が縦に入れそうな巨大な水槽だった。薄い緑色の液体が入った中には、血管と言う血管に管を繋げられた子どもがいた。
口や鼻にも管が挿入されており、どうやら酸素はそこから与えられていたらしく、取り敢えずは無事だった。ただ、点滴しか受けていなかったからか子どもは酷くやせ細っており、命の音も弱々しいものだった。
本当に無事かは後で血液検査をしなくてはわからないが、それでも生きているならば何とでもなるだろう。
子どもが救護班に連れて行かれるのを横目に、ロイは安堵の溜息をついた。
これで、此処にいるのはロイとエドワード、ロス。そしてジールディスとホーランド。そのほかには詳しく研究室を調べる軍人が数名。ホークアイや他の部下はすべて地上階で後片付けの指揮をとっている。
「これで、終わりましたね」
隣に立つ上官にそんな言葉を掛ければ、彼女はほんの少し沈黙した。
「……ああ」
「どうかしましたか?エルリック少将」
「なんでもない。…マスタング大佐」
目の前の割れた水槽をまっすぐ見ながら彼女は呼ぶ。
どうせならばこちらを向いてくれればいいのにと思った内心に愕然としながらも、なんでしょうとロイは答えた。
そうして、信じられない言葉を聞く。
「…いま、なんと?」
「聞こえないか?ご苦労だった。マスタング大佐はお疲れだろうから、此処はもういい。後は俺が請け負おう。後片付けの指揮を取ってくれ、そう言ったんだが」
わざとゆっくり紡がれる言葉は事実上、手柄を横取りされた、と言うやつで。
苦汁を味わいたくないから、甘い蜜だけを吸う将兵は多い。ロイとてそういう上官には何度も出会った。だが、彼女だけはそういう人間ではないと思っていた。今も思っている。
だからこそ、二度同じ言葉を聞いても幻聴、空耳ではないかと思う。
そんなロイに、エドワードはもう一度繰り返そうか、と言うのだ。
「…どういう、ことでしょう?」
顔が強張るのは仕方のないことだろう。
震える声も。
信じられない。嘘だと。ロイの心が叫ぶ。いつの間にか、危険だと言って、禁じていたことをロイはしていた。
彼女の姿を見極められるまでは信用はしない、ことを。
「どうって、だから。疲れただろう?だから、お前は上で、片付けの指揮を取れといっているんだ。此処の検証は俺が指揮を取るから」
まるで恥を知らしめるように、彼女は音を小さくすることもなく声を放つ。検証する作業の音だけの室内は静かで、地下と言うことも手伝ってかそれはよく響く。
相変わらず眼差しはロイには向けられない。
エドワードの視界に入ろうと、ロイは彼女の目の前に立つ。
「事件の指揮官は私です。私が指揮を取ります」
今まで向けられたことのない冷ややかな眼差し。それを受け止め、ロイはもう一度口を開く。
けれどそれは違う人間の声に遮られた。
「少将っ」
切迫した音に何事かと二人が眼を向ければ、ロスがエドワードに向かって手を伸ばしていた。その後ろには、ホーランド。手には、黒い銃が。
ロイは咄嗟に上官に手を伸ばす。
だが、エドワードはロイの手も、ロスの手も払う。ロスは攻撃にも似た形で払われたので、勢い余って強く床を滑った。
ロイは駆け寄り、彼女を起こして怪我がないかを確かめる。
流石に軍服が汚れや多少の擦り傷はあるようだが、大きな負傷はなく無事だった。
顔を挙げ、それを伝えようとしたが、エドワードはこちらなど見てはいなかった。
エドワードの視界は銃を持った男しかいない。当たり前といえば当たり前だ。いつ銃弾が放たれるかわからないのだから。
けれど、だからといって、力の限り弾き飛ばした部下に一瞥もないのはなんだか腹立たしくて、ロイは眼を細めてエドワードを見る。
周りにいる軍人は何人かが腰のホルダーに仕舞ってある拳銃に手を伸ばしている。どちらも上官ゆえに対処が分からないのだろう。
残りの数人は迷うことなく銃を構えて、上官である男のほうに照準を合わせている。
「ロス中尉」
不意に呼ばれた彼女は擦ったらしい場所を手で摩りながら顔を上げる。
声を掛けたのは勿論エドワード。漸く無事の確認をするのかとロイは呆れの溜息をついた。
だが、溜息は不自然に途切れ、ロイは眼を険しくさせた。
「邪魔だ。前に立つな」
「っ、申し訳、ありません…」
ポツリポツリと消えていくように、隣から音がした。
ロスは俯き、歯を食いしばっている。
「まって、ください。彼女は、貴女を守ろうとしたんですよ。なのに、邪魔と言うのはあんまりではないですか」
今まで、エドワード・エルリックという人間を見てきたが、こういう人間ではなかったと思う。
ふつふつと湧き上がってくるのは間違いなく怒りだ。
「お前も邪魔だから黙っててくれない?」
内心に渦巻くロイの怒りを無視してエドワードはそんなことを言う。
「貴女はっ」
「ホーランド中将、その銃を下ろされたほうがいい」
詰ろうとするロイを遮るその声に、エドワードは既に自分など目もくれないのだと知る。
それが悔しくて、胸が痛んだ。ぎりぎりと固めた拳は力が入りすぎて痺れてきた。
最早二人の世界となっているそちらに眼を向ければ、エドワードに銃口を向けたホーランドが眼を険しくさせている。
「お前が私の言う事を聞くならば、下げてやろう」
「言うことですか、どうせ、ジールディス氏を見逃せと言いたいのでしょう?残念ながら、逮捕させていただきますよ。証拠は十分だ。言い逃れは出来ませんよ」
「ならば、証拠は潰したまえ。軍は彼に恩がある。それぐらいはしてやらねば。恩返しにはなるまい。そうだろう?エルリック少将」
「私はそんな捻くれた御礼の仕方は知りません」
「ならば、教えてやるから知りたまえ。いやだと言うならば、上官命令だ」
エドワードは鼻で嗤う。
「冗談じゃない。私が彼を捕まえて、この研究所は廃棄処分です。御礼は罪を償う道を示すことで十分ですよ」
「それこそ冗談じゃない」
「強情な方ですね。ならば、貴殿に一つ言っておきましょう。私が知らないとでもお思いか?貴殿の手元で生まれたばかりのとても珍しく、脆弱な花の存在を」
ロイは彼女が言っていることがよくわからず、首を傾げる。ホーランドもその意味がわからないらしく、眼を訝しげに細めたが、次第に何を指されたのか分かり、顔を青ざめた。
「なぜ、それを…」
返ってきた反応に満足そうに東方司令部の最高指揮官は笑った。
「此処は私の管轄です。当事件を裁くは私の権。口出しは無用です。まだ、なにかしようとするならば、容赦はしませんので、胆に銘じておいてください」
鬼神と銘打たれたその男の手や指からは力が抜けて、銃が床に弾かれる。腕はだらりと下がり、男は膝をついて項垂れた。
緊迫感は破れ、周りの軍人は一様に銃から手を放した。
「ご友人思いなのは結構ですが、ジールディス氏が本当に望んでいるのは何か、ちゃんと理解すべきでしたね。彼は、こんなこと止めたいと思っていたはずですよ」
そうでしょう、と彼女は今まで事の成り行きを黙って見ていた老人に眼差しを向ける。
ジールディスは辛そうに顔を歪めて、膝を折った男の下まで歩み寄る。
猶予でも与えるつもりなのか、エドワードはなにも言わずにそれを見つめている。
「私は、潔く捕まろう。二年前、そして今事件の罪を償う」
「なにを、言っている」
弱々しい鬼神は友の顔を仰ぐ。
「私が、何とかしてやる」
必死に縋るような友人にジールディスは瞳を伏せて頭を横に振る。
「私は、疲れた。…自身の器量とは見合わん椅子につき、頑張ってはみたが、駄目だったよ。二年前は孫娘を生かすために、必死だった。だが、タッカーが捕まり、リア嬢が死んで、あれも死んだ」
「それは、あの女が邪魔したからだっ」
ぎりぎりと憎しみをこめての眼差しはエドワードのほうへ。
「今回も、頑張ってはみたんだが、始めに攫った子どもを見て、何をやっているのかと思った。こんなことをして、何になるのかと。一度、はたっと気付いてしまえば、それからは毎日が憂鬱だった。人の前では持ってもいない威厳を作る。偽りを重ねる私は、随分と空虚なものだと、そうは思わんか」
ポツリポツリ墜ちていく言葉にホーランドは愕然とする。
きっとこの男はジールディス一族当主の想いには気付いてはいなかったのだろう。
「そんな、ことはない」
「いいや、そうなのだよ。酷く、空虚な私は、偽者だ。だから、やり直したいと思っていた。……すまんな、何とかしてやりたかったんだが…」
何とかしてやりたかった。それはどういう意味だろうか。
そんなことを考えているロイを、ジールディスは見て、そしてなんとも儚げに微笑んだ。
「この事件は、簡単だったろう。『十四日の拘留期間』はタッカーを指す。調べれば調べるほど、二年間の事件と関係があるくせに、犯人である男は既に死んでいる。情報は軍内でもだが機密扱いされるほどなのだから、誰でも事件を真似するなんて事は出来ない、自然と疑いの目は、当時関与していた私へ。本当に簡単な式だ。そうだろう?マスタング大佐」
「ええ、まあ」
ロイは口ごもりながらも答えた。
彼を追い詰めたとき疲れたように伏せられた瞼と微かに上がった口端で、抱く想いには気付いていた。
「エドワード・エルリック。あの子どもにタッカーが作った薬を十日前に打った。薬の適正、不適正が出るのは後四日いる。恐らく今回は適正が出て徐々に血液の型が変わってしまうだろうが、まだ時間に猶予がある。散々あれを調べた君ならば浄化は出来るだろう?」
「ああ、出来る」
迷いない力強いエドワードの答えに、老人は安堵した。
「本当は、リア嬢が唯一の成功体であったことを知っていたんだよ。けれど、再び同じことを繰り返せば戻れないと思った。そのくせ私自身で、戻る勇気もなかった。だから、捕まえて欲しかった」
沈痛な思いを吐き出す老人は、エドワードに向き直る。
「出来れば、あの時涙を流した君に、捕まえて欲しかった。……迷惑を、かけたな」
穏やかに笑い、老人は周りにいた軍人に連れて行ってくれと頼む。
エドワードは目で指示を窺う下士官に頷く。
手錠で繋がれた下士官と老人は、階段を上っていった。
「誰かを捨てて、大切な何かを救いたいと思うことは、おかしなことではない。いつだって、誰かは誰かを犠牲にする。貴殿は手段を間違えただけだ」
姿が消える直前に呟いたエドワードの言葉。向けたのは空虚だ、偽者だと自分を称した老人に向かってだ。それは彼の耳には届いたのだろうか。
犯人逮捕。ということで、空気が緩んだ瞬間、その男は唸るようにその言葉を吐いた。ただそれはあまりに小さいもので、誰の耳にも届かずにあったが。
けれど、その振動は確かに空気を揺るがし、音となった。
「このままで、すむと思うな。エドワード・エルリックっ…」
「手柄を横取りされた?」
隣のホークアイが訝しげな顔をしてロイを顧みる。
現場の指揮官の黒い眼に映っているのは、黒と青の制服を着た者たちがいそいそと荒らした研究室を片付けていく様子。
そんな上官の前に立ち変わりに指示を出していたが、鼓膜を打ったその言葉が信じられない。
「いえ、ですが。あの方に限って、そんな……」
「だが、事実だ。彼女が今回の事件の全権を握ると言って帰っていったよ」
恫喝するようにロイは言い返す。
「なにか、理由が…」
そんなことをするはずがないと信じている副官は、しどろもどろにそんなことを言う。
憤りはするもののロイもなにか理由があるはずだと困惑を隠せない。
「考えすぎですよ」
二人の思考を打ち破ったのは、背後に立つブレダだった。
振り向いたロイとホークアイは、眼を眇めながら彼を見る。
「あの女はそんな人間じゃないです」
「何故、あなたにそんなことがわかるの?」
非難を含んだ声でホークアイはブレダを睨みつける。
鋭い眼差しを瞳で受け止めながら、ブレダもまたエドワードを庇おうとする彼女を睨み返す。
「二年前の事件の犠牲者の一人、リア・グラフィックは俺の姪でした。リアは例の薬を打たれ、処置法がわからないまま血液型が変わってしまいました。仕舞いに合成獣と同等だとされて、処分されました。-――あの女、エドワード・エルリックに」
ロイとホークアイは、耳に届いたその事実が信じられず、目を見開いた。
彼女の『姿』を掴みたいと思った。けれど、掴んでいくのは憤りや嫌悪感だけのような気がする。
信じたくないと言うような上司二人をブレダは見つめる。
二年前と変わりがないあの女。目の前を通り過ぎた瞬間、黒い感情が沸きあがった。
いつか絶対に、あの平然とした表情を崩してやるのだと拳を握り締めながら。
たとえばそれは。あの女の胸の上で紅い花を咲かすようなものではなく、どうせならば蜜のような金色の髪が死を思わせるような真っ白に変わる。そんな衝撃で。
「本当によかったのですか?」
車内の中では静かだった副官がそんなことを言ったのは、執務室が目の前になっていたとき。
エドワードは目を見開いて、少し考えてみた。彼女の言葉の意味にではなく、それに対する答えを。けれど、出てくるのは、たった一つだけだった。
「仕方がない」
定例と化したそれには聞き飽きたとロスは溜息をつく。
「だって、仕方がない」
「貴女は、マスタング大佐を気に入ってらしたと伺っていましたが」
意表を付かれた様な顔をして、エドワードは笑った。
「ハボックにか?なにを言ってるんだか」
「でも、事実でしょう?よろしいのですか?漸く打ち解けたのでしょう?不信感を買いましたよ」
「仕方がない」
エドワードは肩を竦める。
ロスは立ち止まり、再び溜息をつく。目の前にはエドワードの執務室の扉。
「貴女はそればかりです。その言葉は呪文ですか?ご自分を守るための」
「さあ。それよりも悪かったな。腕、大丈夫か?」
「ふふ。大丈夫ですよ。今回はあなたの前に飛び出した私が悪いんです。と言っても何度だって飛び出しますがね」
「止めてくれ、俺の心臓が止まる…」
扉を彼女が開く。だが、何を思ったのか、その扉はすぐに閉められた。
「中尉?」
ほんの少し悩む仕草の彼女に、エドワードは訝しみ尋ねる。だが、それには答えず、用事を思い出しました、そう云ってエドワードに背を向けた。
踵を返した姿を見送り、何かあったのかと首をかしげながらも、エドワードは扉を開いた。後ろを気にしながら入るという器用な真似をしたために、中にいた人間の存在に気付くのが少し遅れてしまった。だから、不意打ちのように、その顔を見て、エドワードは一瞬心臓が止まるかと思った。泣くかと、思った。
「どうして…」
最高司令官の部屋は広い。その部屋の中、自分を待っていたように男はこちらを向いていた。
戦慄く声に返される平然とした声。
「貴女に会いに」
「ならば、今叶った」
出て行け。エドワードはそう言ったつもりだった。
「貴女の傍にいたい」
だのに反論が返ってくる。
「何のために」
「貴女のために、死ぬため」
目の前に立つ男は、きっと、その言葉がどれ程残酷か知らない。いや、知っているからこそ、そんな言葉を言うのだろうか。
「貴女はあの時、彼を殺した。だから、俺が生まれた。それは、彼の願いとは違った。だから、責任を取ってくれないか」
脅迫のような言葉を吐くくせに、男は辛そうに顔を歪めている。
「俺は、そんなものを着せるために、その名を与えたわけじゃないっ…」
吐き出されたエドワードの声には、切実な響きが宿っていた。返ってくる言葉を恐れて、すぐさま部屋を出て行く。
残された、男は、片方しかない瞳をそっと伏せる。
思い出す、一つの顔。それは、最近東方で列車テロを行った犯人の一人だ。彼の名は、『クリス・リッチレイン』と言った。
静かに瞼を上げ、視界の端に過ぎったガラス棚に向かい合う。そこに映る顔は、その男と同じもの。けれど、男は『クリス・リッチレイン』という名ではなかった。
男はじくじくと熱を持つ左の瞼に手をやる。
轟々と風が唸る中、『死にたいか』と問われ、応えた。そして、願い待った。けれどあの時クリス・リッチレインの世界の終わりはなかなか訪れなくて、どうしたのかと思った瞬間に、左の瞼に凄絶な痛みが走った。
『お前の命はその左の目に贖ってもらえ。イーグル・ワーク、その名をやる。もう一度生きろ』
風圧を感じながら、エドワードのその言葉を聞いたと思ったらいきなり土と草の香りに包まれた。
煙を上げて遠ざかる列車の姿。それ呆然と見ながら『クリス・リッチレイン』であった男、『イーグル・ワーク』は嗚咽を噛み締めた。
瞳の痛みにか、死が叶わなかった悔しさにか。それとも最後の最後まで感じた優しさにか。嗚咽の意味は今でもわからない。
イーグル・ワークはそれでも。嗚咽交じりにあの時零したものと同じ言葉をもう一度、呟いた。
「傍にいる。そして、貴女の命を守る」
渋面を顔に貼り付けながら廊下を歩く。
あと少しで恐らくロイが返ってくるはず。そのときまでには複雑に混乱している頭を何とかしなくてはいけない。最早彼とは相容れる訳にもいかない。厭味でも言って別離を図らなくては。
その事実は悲しいけれど、やはり仕方がない。だって、自業自得だから。
エドワードは落ちてくる歩行速度をもう一度上げる。
そのとき背後から、副官だった男に声を掛けられる。
ロスが本来の副官だが、彼女の到着までは彼が変わりに副官を務めていてくれた。デスクワークが苦手ながらも懸命にこなす姿に感謝を覚えていた。
ぴたりと歩みを止めた足を九十度回転させる。目に映った男の表情にエドワードはなにが言いたいのかわかった。
きっと彼は、死んだと思っていた男に会ったのだ。
「どういうことですかっ」
ハボックは、静かな廊下に怒りを響かせた。
いつだって、誰にだって。いろんな隠し事をしている。それは蔑ろにしているわけではなくて。ただ、もう遇う機会がないから、誰かに言う必要がないと思っていただけ。
今回も、とある人物に頼んで彼を保護してもらい、新しい人生を歩めるようにしていただけ。まさかその人生を壊すように、自分の元に来るなんて考えもしなかったのだ。
重ねて問う声にエドワードは何も返せなかった。
「おや。お久しぶりですね」
日が射さない暗い東方司令部の別棟。此処には大きな資料庫と図書館がある。
グースタックは図書館に行こうと廊下を歩いているところで階段に腰掛けたその人を見つけた。
顔は腕に埋まっている。金色の髪を昔とは違い一つに纏め上げて丸い背に流している。その姿になんだか見覚えがあった。
耳に届いた声にびくりと肩を震わせ振り向く彼女。柳眉は軽く垂れ下がり弱々しく見えた。自覚があったのかそれはすぐに直される。
「…お元気そうで、何よりです」
「貴女も」
ほんの少し間が空いたが、彼女は何事もなく挨拶を返してくる。
グースタックはそれに答えながら隣に腰を落ち着けた。
「なにか、ありましたか」
「なにも?」
「そうですか?貴女は変わりませんね、小さな頃から」
彼女は笑って、昔話ですか?と聞いてきた。
「貴女は辛いときは目の色がほんの少し鮮やかになるんです」
自分の眼を指差しながらグースタックがそう秘密を解き明かせば、笑っていた綺麗な顔が固まった。
昔から、誰かに気遣われることを嫌っていた彼女。どんなに辛くても、悲しくても、笑うことを義務付けていたように思えた。
だからだろうか。本当に辛いときには、目の色が鮮やかになった。普通は反対の現象が起きる。例えば苦しみや悲しみには目が曇ったりするもの。だから、それを見た人間は簡単に騙された。目の色が鮮やかになるときは、彼女が一番喜んでいたり楽しんでいるときなのだと。
だがグースタックは、そうではないとすぐに気付いた。
せめて、こんな老いぼれにできることは、イタミを痛みとして捉えない子どもを泣かせてやることだ。
そんな思いでグータックは今子どもの隣に腰掛けている。
「はは。ついさっき、全部下のいじめを受けてきました。一人目は命を顧みずには銃口の前に飛び出すし、二人目は秘密ごとがばれて怒られるし、三人目には…。新しく入って来た部下は、貴女の為に死にたいなんて言い出す奴で。三人目には、なんでそれを止めてくれなかったんだって詰れば、俺の盾になる人間を拒む理由がない、なんて言いだすし」
彼女は観念したように肩を竦めて白状する。
「貴女は、愛されていますね」
その言葉に彼女は組んだ腕の顔を埋めてしまった。
「…、いらない、そんなもの」
くぐもった音でポツリと零されたその言葉に釣られて、グースタックは悲しそうに華奢な身体を見つめる。
ゆっくりと彼女から視線を外し、空を見上げる。
「―――」
ふと小さく聞こえた音があった。間違いなく隣にいる彼女が口にしたもの。
それは、雲ひとつない気持ちいいほどの青天の昼下がりには、酷く不似合いな言葉だった。
『仕方がない』
これまで何度その言葉を口にしたのだろう。
目の前に突きつけられる答えはいつだって納得できないもので。それでも、どうしようもないことを知っていた。
だから、諦めていた。
すべてが自業自得だと思ったから。
けれど、誰かを巻き込んでしまったら、どうすればいい。
そんなときにまで、言うのか。他人事として。『仕方がない』なんて。
彼を巻き込んだ。彼は『クリス』か『イーグル』か。どちらにしても、二つの人生を崩して、壊していく。それをするのは自分だ。エドワード・エルリックだ。
ああ、ロス中尉。
仕方がない、なんて呪文じゃない。
本当の呪文は。
「消えてしまいたい」
音にはならないほどの、けれど、どうしようもないその叫びこそが、本当の呪文だ。
今は、隣にいる旧知の老人に呪文が届かなかったことを祈りながら、エドワードは口唇を噛み締めた。
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