その地に足をつけたばかりの女は、駅を背後にして丁度それを見た。
人を轢かぬように、それでも荒々しいスピードで駆けていく黒塗りの車。
市民は被害に遭わないように端のほうへと避けてはいたが、駆け抜けていくその瞬間に生じた風に因る被害が出た。
女は、市民と同様の被害を受けた黒い髪を整えながら、車が走り去っていった方向を見る。
「なんて乱暴な運転なのかしら」
あの車は間違いなく軍用車だった。
恐らくなにかの事件が起きたのだろう。
「あの人が面倒なことに巻き込まれてなかったらいいんだけど」
女はそう云って、駅内へと踵を返した。
とある建物への門を潜り、入り口の手前で芸術的な急停車したそれは黒塗りの軍用車。
待機していた下士官が後部座席の扉を開ければ、ロイは小気味よく靴を鳴らしアスファルトの大地を踏みしめた。
敬礼の体勢を取る下士官の隣で、ぐっと背筋を伸ばせば、目の前には少し古びた大きな建物。左右に長く広がるそれは病院にも思える。だが、これは研究施設だ。
歩を進め、周りを少し観察してみると、建物をすっぽりと隠す塀がある。いくら秘密保守の研究所といっても高すぎる。その上には侵入防止のための有刺鉄線が張り巡らされている。恐らく電流でも通っているのだろう。
なんとも胡散臭い。不気味だ。そう思うのはロイが持つ先入観の所為か。
「よくこれだけ怪しさ満点の施設を放ったらかしにできたな」
ロイは呆れた。
ふと、司令部を出る直前に言われた言葉を思い出す。
『ショウ・タッカーの事件を解決したのは、エドワード・エルリック准将なのですよ』
当時の彼女の階級はわからないが、恐らくは大佐か、准将か。
ならば高官である彼女が指揮を取り、事件を解決させたはず。
事件の調書は、指揮官の名前を必ず書く欄がある。車内でも思い起こしてみたが、彼女の名前は記載されていなかった。
これは、どういうことなのだろうか。
ロイには分からない。
けれど、グースタックの言うとおりならば。彼女が誰よりも早く、今回の事件と二年前の事件の繋がりに気付いたことに納得が出来る。
疑問はまだある。彼女は二年前の事件にジールディス一族が関わっていたことを知っていた。ならば、何故二年前にやつらを捕らえなかったのだろうか。
軍に多大な貢献をしているがために、上層部に圧力を掛けられたのだろうか。
自然とロイは、金色の上官がジールディス一族を利己目的で庇いだてたとは考えなかった。
捕らえなかったのは、なにか理由があるのだろうと、そう考えていた。
思考の海に沈んでいるロイを、ファルマンが呼び戻す。
顔を上げれば、十もない段数の階段の奥、重厚な扉が開き、出て来た研究着をきた男が二人を招く。
軍人である自分たちを歓迎しておらず、男の顔は歪んでいる。
それは当然の反応だと、気にも留めず、ロイは進む。背後からはファルマンが付いてくる。上官の背中を守るように。
まったく、此処に来て分からないことが増えるとは思わなかったと、ロイは軽い溜息を付く。
それでも、司令部に帰ったら当の金色の上官がいるのだから、聞けばいいか。
このときのロイはそんな甘い考えを抱いていた。
緩やかに停車した馬車から降り立つ女。
そこを護る青の制服を纏う男たちは、誰何の念を抱き緊張感に気を張り詰める。
「こんにちは」
だが、女が顔を上げてそう声を掛ければ、男たちは張り詰めていた緊張感を霧散させ、破顔した。
「やあ。やっと到着か。あの人とあいつしか来なかったからビックリしたぜ?」
「ふふ。さいごの最後まで、あの人が一人で行くなんて駄々をこねるものだから、私たちの到着が遅れてしまったの」
「そうかそうか。ま、これからよろしくな。ほら、さっさと行けよ。愛しのあの人が待っているぜ?」
そんなからかいの言葉を寄越す男に、女は得意げに笑う。
「いいえ、出発の連絡さえ取らなかったの、驚かそうと思って」
顔二つ、見合ったかと思えば二つの音で笑いがおきた。
馬鹿にされたように感じた女は、その二人を無視するように間を通り抜け、階段を上った。後ろを振り向けば、馬車から降り立った三人の男が同じく階段を上っている。
「さあ、いきましょうか。あの人の下へ」
背後から男どもの笑いを含んだ声援を受けながら、四人は目の前の扉を開く。
緑の布地に、描かれた軍旗の下にあるその扉を。
「マリア・ロス中尉?」
呼び声に、黒髪を踊らせながら女が振り返ればそこにはハボックがいた。
彼はクシャリと笑い、久しぶりだと言って、近寄る。
「久しぶりね。どう?」
ロスも笑いかけ、自分が不在の合間代わりを務めていた男に、仕事の成果を尋ねる。すると、彼は不貞腐れた顔をする。そして聞いてくれよ、と不満を零そうとした。
けれどそれは止まる。
「おまえ、なん、で…」
目を見開いて、指をさすハボック。その顔は驚愕に満ちている。
振り向けば節張った指の先には、男がいる。ハボックが見知っていて、そして見知らぬ男が。
ロスは少し悩んだが、今は置いておく事にする。
詳しいことは自分の口からも、彼が見知っている他の二人からも語れない。語れるのは、ハボックが驚愕するような事態を作った当人たちだけだ。
視線をずらし、ロスは藍色を纏う男と向き合う。
「後をお願いします、ライル」
「…わかった」
ほんの少しの沈黙後、ライルは微かに苦笑いをしながら、了承をくれた。
ロスはただ一人、その場を離れ、懐かしいあの人へと足を向ける。場所は恐らく以前使っていた部屋だろう。
「いま、行きます」
「失礼します」
真っ直ぐに向かってくる声。久しぶりに聞くその音は、まだ中央にいるはずの人のもので、自分の手を止めるには十分だった。
エドワードは驚いて紙面に向けていた顔を上げる。
「…どうぞ」
数秒後の許可にて開かれる、目の前の扉。誘われる姿は本来の副官である女のもの。
「久しぶり。こっちに来る準備が整ったのなら、連絡くらいくれてもよかったじゃないか」
エドワードは呆けた顔をシニカルな笑みに変えて、彼女を見る。
「あら、それでは貴方を驚かせることなんて出来ないでしょう?残念ながら、あまり驚いてくださってないようですがね」
肩をすかして苦笑するロス。
「十分驚いているよ」
エドワードはつい先程のことを思い出す。
ニヤニヤと笑っていたハボック。近日中に明かされる男の秘密事とは、彼女たちが今日到着することだったのだ。
これはあれか、仕返しか。ロイへ、ハボックの苦労の賜物である資料を渡したり、事件の指揮権移動を黙って画策した自分への。
エドワードは参ったと、顔を崩す。それは苦笑いなのか、笑っているのか判らない曖昧な表情。
これぐらいは甘んじて受けるべきなのだろう。せめて。
「さて、二つ聞きたいんだけど、いいか?」
エドワードは腰を上げて、ロスの傍に寄る。
「一つは他の部下ですね?ご安心を。全員此方に連れて来ました。今は途中で会ったハボック中尉とお話し中です」
その言葉の内容では、どちらかと言うと安心より不安が出てくるのだが、とエドワードは思ったが口には出さない。口にした途端、雷が落ちてくる。
上官である自分の内心をわかっていても、ロスは無視を決めたように続ける。
「二つ目は、この資料で?」
ほんの少しだけエドワードは瞠目する。
相変わらず優秀な副官。どうしてこうも、望んだことがわかるのか。自分は物欲しそうな顔でもしていたのだろうか。ただ聞きたいことがあると言っただけなのに。
エドワードは差し出される大きな茶封筒を受け取る。
紐を解いていけば、行儀よろしく連なる文字。構成される文章。
待ち望んでいた、たった一つのすべて。
「ありがとう」
エドワードは微笑み、礼を口にした。
これで、何とか間に合いそうだ。
「一つ追加です。とある将軍のご息女が、例の子どもと同じだったそうです」
エドワードはその言葉を聞いて息を呑み、顔を強張らせる。
ほんの少し、迷いを見せながらも決意を固め、エドワードはロスと向き合う。
「到着早々で悪いが、一つ、頼まれてくれるか?」
「勿論です。エルリック、准将。…いいえ、エルリック、少将」
態々階級を改めたその言葉の意図を、聞いた瞬間に理解した。
静かに差し出されるもうひとつの茶封筒。封の役割を為している紐を解かずとも、その中身はわかっている。こちらは望んでいなかったものだ。
それを手に取れば、駄目だと言う音なき制止の甲斐なく、エドワードの顔が小さく歪む。それは、見逃しても仕方がないものであったにも拘らず、傍らに立つロスは気付く。
痛みを堪えるように眼を細める彼女はなにも言わず、ただ上官の言葉を待つ。
エドワードは息を止めた。そうでもしなければ、すぐに出さなければいけない声が裏返りそうだった。
軽く緩めた口唇。微かに入り込む空気。吸っては、吐いて。吐いては吸う。二、三度繰り返し、エドワードは告げた。
「軍服を、来ておいで」
研究所の一室。その部屋にあるすべてがお粗末なものだが、恐らくは来賓室。
人を迎え、歓迎する雰囲気ではなく、寧ろさっさと去れと言わんばかりに部屋は圧迫感がある。
それは狭さゆえか、小さな窓が唯一つの所為か。
余り居心地のよいものではないと思いながら、ロイは傷んでいるソファーに腰掛けて、目の前に出されたコーヒー入りのカップを手に取る。このカップも口のところが欠けていて少々不満があるのだが、コーヒー自体はいい味をしているので、プラスマイナスでゼロだろう。
そんな悠々と過ごすロイの真向かいに座る一人の白髪の老年が、威厳に満ちた声を室内に響かせる。
「いい加減にしてくれんかね、マスタング中佐。我が、ジールディス一族を貴殿は侮辱するおつもりか」
ロイは心外だと言わんばかりに、黒い眼を見張る。
「これはただの定期調査ですよ?侮辱などしてはいません。軍系列でない研究所は半年に一回調査をするのがお約束」
ご存知のはずですが、ロイはそう云って当たり障りのない笑みをその男に向けた。
定期調査。それはつまり、軍に叛旗を翻す要素がないか、そして、なんらかの罪を犯していないかを調べる。
昔、個人の研究所で人の生態に関する研究がなされていた。
その研究が明るみになったとき、軍は危惧を覚えた。それは軍への侮りや、反乱が含まれる内容だったからだ。
それから軍は、反乱の予防策として軍系列の研究所以外は定期的に研究報告を提出させ、報告と一致した研究をしているかを調べるようになった。
証拠を抹消されないように、抜き打ちで調査して。
もしもの時は逃げられないように研究員、所有者は有無を言わさず、監視の下に。
傍から見ても横暴なそれ。けれど成果は凄まじい。定期調査の制度を導入し始めて、研究所は次々と潰れていった。
既に何十年と経つ制度だが、潰れていく研究所は今も後を絶たない。
所有者が命令を下し、研究員がそれに従う。
手を出す分野はいつだって、軍の許容を超えたもの。
人間というのは、どうにも『やってはいけない』と言われるものに、興味を覚え、手を伸ばしてしまうらしい。
あとで、何が待っているのか知っているくせに。
手を組み、解く。膝をトントンと指先で叩く。
軍の監視下に置くために呼び出されたジールディスの当主である老人のその動作は苛々としているのがよくわかる。
顔はほんの少し強張り、青い。
きっと、秘密を解き明かされてはいないかと、心配でたまらないのだろう。ならば始めからこんなことしなければいいものを。
ロイは目の前の老人を内心では呆れながら、カップに口をつける。
「今回は、随分と長くないかね」
「なにがでしょう」
「とぼけるな。調査に費やしている時間だ。既に二時間掛かっている」
「正確に言うならば、まだ一時間四十分ですね」
のらりくらりとロイは答える。
まるで、老人を馬鹿にしているようだ。
当の老人は拳を作りそれをテーブルへと叩き付ける。音は大きくロイの鼓膜を揺らし、耳鳴りがした。片眼を眇め、手に持っていたカップをソーサーに戻す。
「定期調査に司令官が自ら来ることなどなかったっ。なにが目的だ」
昔はどうか知らないが、今の老人の目は老いぼれて、光彩を失ったように見える。
ぎりぎりと睨みつける色の濁った瞳をロイは真っ直ぐに見返し尋ねた。
「未成年者が誘拐されている事件をご存知ですか?」
ほんの少し息を呑み、老人はそれがなんだと答えた。
知っているか、という問いには肯定も否定も明らかにはしない。
「では、ショウ・タッカーは?」
「っ、知っている。ここで雇い入れていた人間だ。だが、あやつが国家資格を取ってからは関係がない」
「そうですか。二年前に起きた事件のことは?」
「何の事件だ」
「ショウ・タッカーが子どもを誘拐し、実験材料にしていた事件です」
こちらの質問のたびに老人は息を呑む。質問の意図に心当たりがあるように。
そうして、老人はもう一度それがなんだと言った。
ロイとは眼を合わせないようにと、老人は太腿の上で作った拳に視線を落としている。
「そのショウ・タッカーが攫った子どものうち一人と、今回攫われた子どものうち一人が同じような条件をすべて持っていました。たとえば、髪の色、瞳の色。育った環境、血液型。それらがすべて。偶然かと思ったらそうではなかったんですよ。攫われた子どもたちすべてが、二年前の子どもの一人ひとりと一致する条件を持っていたのですよ」
これをどう思います。
ロイがそう振れば老人はそんなもの知るかと返す。
耳に届いたその音が震えていたのは、聞き間違いか。
膝の上にある皺塗れの拳ががたがたと震えているのは見間違いか。
「軍はこう解釈しました。二年前、ショウ・タッカーの手元から失くなっていた研究記録。それが、今事件の犯人たちに渡っているのではないかと。元々あの事件は二つ重なっているようなものでした」
ご存知でしたか。
ロイがそう問いかければ、震える声で知らないと言う。
ならば、教えて差し上げようとロイは口を開く。
ショウ・タッカーは恐らく誰かに依頼されて、とある研究をしていた。
依頼内容は軍が取り締まっていたものだろう。
因って、依頼した誰かは、ショウ・タッカーに諾と言わせるための、見返りを用意した。
それは、依頼した研究の実験体となる子どもは依頼者が連れてくること。
このことで、ショウ・タッカーの危険度は落ちるとは言え、自分の研究でないならば、やはりその依頼を受けるのはおかしい。
何より当時の事件が起きた時期は、ショウ・タッカーにとって大事なものだった。
国家資格の保持が掛かった査定があったのだから。
故に、ここで重要となるのは。
査定の邪魔にならない、などと言うことではなく、依頼は寧ろショウ・タッカーにとって役立つことであった、ということ。
「ショウ・タッカーが専門分野としていたのはなんだったのでしょう?勿論ご存知ですよね?」
「……生体だ」
その事実を依頼人は知っていたはずだ。綴命の銘を戴いていた男は、生体の権威と有名だったのだから。だからこそ、依頼の内容は生体に関するものになるだろう。餅は餅屋。態々お門違いな所に研究依頼などしない。
そうなれば、見返りはもう一つ増えたはずだ。
連れてきた実験体が『失敗作』となるようならば、ショウ・タッカーの研究の材料として提供する、という事柄を。
依頼者側は、失敗作の処理という危ない橋を渡ることの危険性を軽減が可能となった。
ショウ・タッカーは甘い蜜に在りついた。日々ただ部屋に篭もって研究をしていればいいだけ。材料は次から次へと運び込まれていく。ほんの少し、手間が増えるだけで。
それは、探究心に忠実な科学者には、甘い誘惑だ。
ロイはそこまで言って口を閉ざす。
これはロイの推論だ。証拠はない。
証人となるはずのショウ・タッカーは、事件発覚直後に後見人を務めていた高官に処刑された。
裏付けると言うだけの曖昧なものならば、タッカー邸の地面から掘り出された、人のものらしい奇妙に歪曲した白骨ぐらいか。とても、有効な一手とは言えないが。
それでも、なにも言わない老人には、推論を聞かせるだけで十分だろうことが震える手で分かる。
顔は俯き、分からない。果たして、この老人はどんな心地でいるのだろうか。
いつ、チェック、そしてチェックメイトと言われるか分からない。そんな今。
「因みに、依頼者ですが。実はショウ・タッカーが事件を起こす数日前から、逮捕されるその日まで頻繁に接触を持っている人間がいまして。その人間が研究所を持っていることから…」
「いい加減にしろっ。なにがいいたいっ」
激昂して立ち上がる老人に、ロイは驚いた顔を向ける。
「我がジールディス一族を証拠も無しに侮辱するとは、どういうことになるのか分かっているのだろうなっ」
肩を戦慄かせ、拳を怒らせ、興奮に息を荒くする。顔は血が上って赤くなっている。老人は零れ落ちそうなぐらいに瞳を見開きロイを睨みつける。
この老人は何かに付け一族を出す。
『狡猾なジールディス』。
何世代か前からそう呼ばれていたのだと聞いていた。
だがその言葉は現代には通用しないらしい。残っているのは狡猾さではなく、無意味に高い矜持だ。
顔を合わせてからずっと老人は威厳ある人間を演じている。それは昔から続く一族の威厳を守るためか。
決して、彼自身には感じられる威厳などない。
それを老人も知っているのだろう。だからこそ、演じている。分かっていない人間はただ矜持だけを振りかざす。声にまで重みを持たせて、威厳に拘ることはしない。
彼が、なにを願ってそんなものに拘るのかは知らないが、どちらにしろそこを崩せば、後は簡単に陥落する。
ロイは横目で扉を見る。
部下たちを幾つかの班に分け、今十数個ある研究室を調査させている。報告はまだ来ない。
証拠がないまま、どこまで追い込めるか分からないなどとは言わない。部下は懸命に証拠を見つけるために地べたを這いずっている。それを命じた自分が自分に弱気や妥協を許す訳にはいかない。
一気に陥落させてやると、ロイは爛々と瞳に凄みを増した。
「私がいつ侮辱を?」
「今しただろう。言いがかりを」
「私は貴方の一族の名など出してはいませんが、何故お怒りになるのでしょう」
「私の前でそんなことを言うことで、既に疑っているようなものだろうがっ」
「ではお聞きします。貴方は資格を取ったショウ・タッカーとは繋がりはなかったと言いましたが、おかしいのですよ。国家資格の保持試験前は不正を防ぐため銀時計を所持する錬金術師は軍人を除き、必ず監視が置かれます。当時の監視記録では、ジールディスの人間が接触していたそうです」
赤らんでいた顔は青ざめてきている。
息を呑み、歯を噛み締める老人に、答えを促す。
いつの間にかぴんと張り詰めた空気。それはロイが作り出したものだ。空間の支配権がこちらにあるならば、落とすことは案外に容易い。しかも、相手は、こういう駆け引きに長けてはいない。
あと少しだと、ロイはもう一度口を紡ぐ老人に答えを促した。
「一族の人間は多い。そのうちの誰かがしたことだ」
「おや、ショウ・タッカーは仮にも国家錬金術師。国の重要な財産だった。にも拘らず、特定も出来ないほどの人間が、それに関する情報を知り得たというわけですか。つまり、情報所有者である貴方の管理に過失があったと判断しますが?」
「なっ。何故そうなる」
「おや、雇い主が雇った人間の情報を管理するのは当然です。例え、親子関係であっても容易くそれを洩らしてはいけない。それは国家憲法の雇用者の情報管理義務に書かれていますよ?知らないわけがない」
にっこりとロイが笑えば、老人は失言に呆然とした。
力の抜けた腰は崩れ、ボスンとソファーに座り込んだ。
ショウ・タッカーの話題を振ったとき、老人は接触の理由を聞かれると思って先回りした。
『っ、知っている。ここで雇い入れていた人間だ。だが、あやつが国家資格を取ってからは関係がない』
それが仇となった。曖昧に逃げようとするから、おかしな罪が増えた。だが、それを弁解することも出来ないだろう。ロイと駆け引きして、勝てるような技術はこの老人にはない。下手に口を出せば、もっと大きな罪を露見することに繋がる。
ロイは一つ話題を変えようと、明るい話題を探した。
そして、一つ思い出した。やかましい奴だが、こういうときには役に立つものだ。あのうざいとしか言いようがない惚気話が。
「少し話題を変えましょうか。お疲れのようですし」
老人はほっとしたように息をつきながら顔を上げる。
その顔はつい先程までの精気が吸い取られたようで、白かった。老人は精神が疲弊し始めている。ロイはそれを確認してから、口を開く。
「私の友人の妻が妊娠していましてね。もうすぐ出産だそうで。友人は随分と嬉しそうにしていましたよ」
「それは、おめでとう。女の子かね?」
「ええ。よくお分かりになられましたね」
ロイが、女の子だと肯定すれば、老人はそうか、と懐かしそうに。そして寂しそうに笑った。
残酷だと思いながらも、ロイは口を開いた。
安堵の息を今零したその瞬間に。鋭い切っ先を向けられたら、人はどうなるのだろう。
「そういえば、貴方には孫娘がいたそうですね。残念ながら、一年と半年ちょっと前にお亡くなりになったようですが。とても、特殊なお孫さんだったそうですね」
「―――っ」
老人は、驚きに眼を大きく見開き、口唇を震わせながら何度か開閉を繰り返す。そして諦めたように、口を閉じ、濁った瞳を瞼で覆った。
それが、降参の合図だった。
ロイが立ち上がったそのとき、扉が開く音が聞こえた。
身体ごとそちらに向き直る。
部下だろうか、例の秘密は見つかったのか。
けれど、ロイのその予測は外れる。
重々しく開かれた扉の向こうには、一人の男が立っていた。
その男をロイが認めたとき、舌打ちしそうになる衝動を押し殺し、背筋を正し敬礼をとる。
自分よりも、はるかに高い階級の男に。
「そういえば、ジールディス一族は何故あんな依頼をしたんでしょう」
これ以上に金儲けがしたかったんでしょうか。
ふと、床で四つん這いになりながらフュリーはそんなことを言った。
現在この部屋にいるのは、フュリー、ブレダ、下士官二名。合計四人で研究室を調査している。
調査、と言うよりも寧ろこれは荒らしていると言ってもいいのかもしれないが。
なにしろ今回は研究の調査が目的ではないのだから。
机はひっくり返し、壁に沿った棚はどかし、兎に角ありとあらゆる場所を隈なく明けた。そうして、空気が洩れているような場所がないかを調べる。
それを繰り返してどれくらい経つのだろう。フュリーやブレダたちは既に四つ目の部屋だ。もう一つの班であるホークアイやファルマンそれから下士官二人は今どうしているだろう。目的のものが見つかったら此処にも知らせは来るはずだから、まだ彼女たちもこうしてコンクリートの冷たい床を這いつくばっているのだろう。
そうしているうちに、フュリーの中に出てきたのが先程の疑問。
「ご存知ですか?ブレダ少尉は」
「……依頼したのは、ジールディスの現当主だ。此処に来る時見たあの爺さんだ。あの爺さんの孫娘が二年ちょい前に生まれてな。けど、その嬢ちゃんは身体が弱かったらしい。で、爺さんはいろんな検査を受けさして、最高の治療をさせようとしたんだ。だがな、検査では一つ問題が出た」
「問題、ですか」
「ああ。血液型がないんだ」
フュリーは言葉の意味が分からず、手を止めて顔を上げた。ブレダを見れば、彼は休むことなく床を調べている。フュリーは慌てて、自分の仕事に戻りながら、言葉の説明を頼んだ。
だが、ブレダは同じ事を言う。
「だから、そのまんまだ。血液型がないんだよ」
お前が知っている血液型全部言ってみろ、そう言われて自分の知る、といっても三つしかないそれを答える。
「えっと、O型、B型、A型…」
「そのどれもに、ジールディスの孫娘は当て嵌まらなかったんだよ」
「えっ、そんなことって…」
自分はそんなこと、聞いたことはない。新しい血液型の話など。
少し混乱しているフュリーを横目に、ブレダは手が止まっていると注意して、続けた。
「嬢ちゃんは病弱。つまり、いつ、なにが起きるか分かんねえっつうことだ。たとえば、それが、手術を受けなければいけない病気だったら?」
「大変じゃないですか、合う血液型がないなら、輸血できる血もないってことですよね。それなのに手術なんて…」
注意を受けて動かし始めた手をフュリーはもう一度止めてブレダを見た。
「だから、手。手は動かせ」
「あ、すいません」
「錬金術師は、材料があれば、創れるだろう。なんでも」
忌々しげに呟かれたその言葉にフュリーは眉を寄せた。
今の響きでは、彼は錬金術を嫌っているように聞こえる。
一年とちょっとの時間しか彼を知らないけれど、決して嫌っているようには見えなかった。自分たちの黒髪の上官は、一番身近な国家資格を持つほどの錬金術師だ。だが、ブレダがその上官を嫌っているような素振りなんて、やはりなかった。寧ろ尊敬しているように見えた。
ブレダはフュリーの様子には気付かず、そのまま話を進める。
「分かったろう。ジールディスは、ショウ・タッカーに誘拐した子どもを使って新しい型の血液を創らせていたんだよ。孫がなにかあっても大丈夫なように。他の子どもを犠牲にして」
その直後、ブレダは床から逃げてくる微かな空気を、翳した掌に感じた。
そして、叫んだ。
「あったぞっ」
事件の終幕を迎えるための言葉を。
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