耳慣れた音が其処此処で聞こえる。
自分もその音を奏でる。それに伴い上がる甲高い声、悲鳴。断絶魔。それはまるで協奏曲のようで。
構えるライフル。もう随分と長い時間使用していたため、鉄筒は熱を帯びていた。
やめて。たすけて。そんな声が聞こえる。軍人の自分に今許されている行為は、重い引き金を引くことだけなのに。
レンズ越しの鳶色の瞳に映る褐色の肌、赤い瞳。それが、敵。敵は殺せ、容赦などするな。例え、子どもを抱えた母であったとしても、幼い少年兵であったとしても。
それが、軍の意思。じぶんの、せいぎだ。そのはずだ。
だから、引く。引き金を。
振動で固めた銃を持つ手が微かに震えて鈍い音が出た。
大地が紅く染まった。
次はと探せば、金色が見えた。
手が覚えている手順、身体に染み付いた作業。
進んでいくそれとは裏腹に止めてと叫んだ。ちがう、あの人は。
指が、引き金を引いた。
目の前が、紅く染まった。
「それで、なにか分かったか?」
「二年前に捕まった男はすでに処刑されています。事件も男の単独でしたし、今回の事件とはなんら関係ないと思われます」
無駄なことだったと、暗に告げてくるロイ。机の前に立つ彼を、エドワードは椅子に腰掛けながら見ている。そうして、さて、と顎を掴むように右の人差し指を口唇に当てた。
エドワードの執務机に置かれた分厚い事件資料。それは今、彼と話し合っていた巷を騒がせている未成年者誘拐事件のための物だった。
今迄で誘拐されたのは旧貴族階級からスラムの子どもまで。年齢は幅広く、生後間もない赤ん坊から十五歳まで。男女の区別もない、無差別でないのかと云いたくなるほど、被害者に一貫性のない事件。被害はすでに十九人に及ぶが、現在まで死人は出ていない。それは軍の功績ではなく、犯人が誘拐した子どもたちを解放しているからだ。
解放された被害者に事情聴取を行っても、子どもたちは誰一人としてなにも憶えてはいなかった。そのため軍部も情報が足りず、捜査は行き詰まり、出来ることは所詮見回りを強化することだけ。
だが、エドワードは違い、被害者の共通点を幾つか見つけた。一つ目は子どもたちの拘留期間だ。例外はなく、全員が十四日となっている。これは過去エドワードが担当した事件に似ていた。他の共通点も、すべて、過去の同事件に重なるものだった。だからエドワードはロイにその事件の資料を渡した。
分かり辛いものではあったが、時間を与えれば資料に隠されたヒントに、ロイは気付くはずだった。気付けるはずだった。彼はそれだけの人間であるのだと、初めて彼の目を見たときに確信していた。だから、着任の翌日に彼に資料を渡した。
エドワードは最早この事件は、過去の事件と繋がっている確信が有る。
だから分かる。犯人はある条件に見合う人材を探している。だが、犯人はその人材に適う条件を一つしか知らない。それは、子どもであること。本当にそれだけだ。だからあんなにも誘拐の対象に統一がない。年齢や性別、髪の色、何度も様々な条件を含んだ子どもを替えて、探しているせいで。
現段階で最後の被害者は、この事件で最年少となった生後三ヶ月の女の子。誘拐されたのはエドワードが東部に訪れる前日のことだ。今日で十日経過している。エドワードの考えが正しければ最後に誘拐されたこの子どもは、恐らく犯人が捜し求めた人材。
だからこそ資料と共に与えた七日間の期限。それ以上は待てないから、その間に分からなかったら、事件の管轄はエドワードに移すことはすでに伝えてある。今日がその期日。昨夜でも良かったが、翌日の今日の朝まで待った。
期日を延ばした理由はロイにあった。
今のロイでは、この事件を任せられないかもしれない、そんな想いを抱いたのは着任して次の日に。つまり、資料を渡したときにはすでに駄目かもしれないという想いがあった。けれど、初対面の彼の瞳に宿った今はない焔の強さに、もしかしたらと、愚かにもそんな想いがあったのも事実。だからほんの少し猶予を与え、エドワードは賭けをしてみたのだ。
だが結果はエドワードの予想通りであり、そして彼女の望まないものだった。ロイはヒントを見つけることが出来ず、エドワードは賭けに敗れた。
今のロイは、エドワードを意識しすぎている。それは日に日に大きくなっていて、初対面のときのロイとは違い始めていた。ロイは自分との違いを見せ付けられた気分なのだろう。だから実力を付けたいと願っている。出来るだけ一番の早道で。なのにエドワードは遠回しで道を教える。そうして彼は反発して、まったく違う道へ行こうとする。彼はエドワードが指し示すものすべてを否定的に見る。これが今の状況。
恐らく、エドワードが女で年齢がロイよりも低いことが起因しているのだろう。彼はプライドが高そうだから。
困ったものだと、エドワードは溜息をつく。
それを見たロイが柳眉をピクリと動かす。
いちいち反応して、そんなに敵愾心を向けてどうするのだろうか。この男は。
とにかく、最初の宣言どおりにしなくてはいけない。今の彼ではエドワードは信用が出来ないのだから。タイムリミットが明かな事件を任せるなんて、自殺行為に等しい。
「じゃあ、仕方ないな。始めに云ったとおり、本日より未成年者誘拐事件は俺の管轄とする。すべての資料は後で取りに行くから、お前は他の仕事に全力を尽くせ。ご苦労だった。戻っていい」
事務的な声にロイは顔を歪め、そのままなにも云わず、ただ敬礼を上官に向けて出て行く。
バタンと些か無礼な強さで扉が閉まる。だが部屋の主は気にも留めない。
男が出て行ったことを確認し、エドワードは腰掛けた椅子を回転させて、窓の外を視界の端に入れる。ふと、自分に似た色が眼に映る。椅子を動かして目を凝らせば、先程出て行ったもう一人の司令官の副官だった。
彼女の様子を見てエドワードは痛々しそうに顔を歪めた。
椅子の背もたれに身体を沈め、右手で瞳を覆い隠す。
「なんとかしなくちゃな。あっちもー―こっちも」
溜息混じりのその声は、静まった部屋に重く墜ちていった。
「中佐。さっさと書類を片付けていただけませんか」
副官は眦を吊り上げて自分を窘める。
「やっているさ」
ペンを握り、机上の紙に目を通す。一連の作業は確かに行っている。なのに頭にはなにも入ってこない。
今この室内にある書類はすべて中央から入ってきたものだ。なにも考えずにサインしようものなら、揚げ足を取られることもある。だから何度も目を通す。こんな無駄なことをしなくてはいけなくなったのは、あの上官のせいだ。
今更、自分からあの事件を取り上げるとはどういうつもりなのか。しかもヒントと称し、差し出した二年前の事件記録にはなんらヒントになるものなどなかった。もう一つ言えばその資料はなんとも胸糞悪いものだった。あの上官の指し示すものすべてが嫌がらせとしか思えない。
ロイはぎりぎりと歯を噛み締める。
「中佐」
責める声に顔を上げれば、そこにいるホークアイは顔を歪ませている。それは不機嫌なものだった。
「いらないことを考えるよりも、仕事をしていただけませんか」
彼女の声質はもとより低い。だが今はそれよりも更に低く、鳶色の目には底冷えのするような色がある。その原因はやはり。
「それほどにあの女が大事かね」
ロイはいつもなら恐ろしいと思う副官を睨み返す。副官はロイの云う女が誰なのか分からないのか、訝しむように眼を細める。
「いったいあの女のなにを見ればそんなに想いを抱けるのか聴きたいな。
書類は突き返し、どこがどう駄目なのか云いもしない。提示したヒントはどこがヒントになるのかも云わずに、分厚い資料全項目に目を通させる。
あの女はただ私を混乱させているだけじゃないかっ」
一度不満を言葉にしたら、ふつふつと湧き上がる激情にロイは固めた拳を机に振り下ろした。響く鈍い音と、ロイの殺気にも似た空気に執務室は緊張感に包まれた。
ホークアイはその空気の重たさや冷たさに息を呑んだ。
だが、その空気に押し黙ることはしなかった。ロイが言っているのは、あの金色の上官のことだと分かったから。
「では、中佐は、一から十の説明をしなくては、動けない部下を必要としますか。仮にも、最高司令官と肩を並べる立場に在る者に。
エルリック准将は。あの方は決して無理難題は仰られたりはしません。出来る可能性があると、判断されたことを任せられるのです。あの方はご自分以外には、とてもお優しい方です」
ホークアイとエドワードの間に、なにがあったのかなど知らない。だが、こうまで庇われると苛々する。
ロイは拳を握り締める。
「それほどまでに彼女を慕うのならば、異動するかね?エルリック准将の下に就けるよう、私から頼んでやろう」
嘲るようにロイが云い捨てれば、長年連れ添った副官は顔を青褪める。その光景がどこか心地好かった。
「まだ、分からないのですかっ?貴方はエルリック准将を意識しすぎなのです。あの方が差し出されたヒントは以前の貴方ならお分かりになったはずです。
いい加減、エドワード・エルリックに対して敵意を向けるのはお止め下さい。
貴方のそれは彼女への嫉妬に他なりませんっ」
ホークアイの悲鳴気味の叫び。だがそれは届かない。
「君になにが分かるっ」
副官の言葉に固めた拳の内側は、皮膚が深く突き破れ、血が指と爪を濡らす。
ロイの脳内に甦る、あの地獄。
「私が、どれ程苦労して、此処まで上り詰めたと思っている。あのなにもない戦場で、ただ人と、建物を焼き尽くすしか許されなかった苦しみが君に分かると云うのか。離れた場所で、自分が与えた死など見もしなかった、君にっ。
銃は人が死にゆく感触が残らない、そう云っていた君に、私の苦痛が分かるのかっ」
睨み付けた副官は自分を凝視している。自分がどれ程酷いことを云っているのか、頭では理解している。だが、暴虐な言葉しか吐かないこの口を止めようとしても、止まらない。この口を閉ざせない。
「あの苦しみを知る私。その私よりも歳若いあの小娘のほうが、階級が上だなどと、どうして許せる。それともなにか、私よりも苦痛を知り、私以上の地獄を見たとでも云うのか。たかだか、二十四の小娘がっ」
想いのすべてを一気に吐き出し、ロイは興奮からまだ覚めやらぬ状態だった。そんな状態でも、自分が云った言葉に偽りがあることを知っていた。
つい先日聞いたばかりのエドワードの過去。傍近くで彼女を見ていたわけではないから、分からないが、それでも安穏と将軍の地位に就けたわけではないだろう。
ホークアイとて、共にあの戦場に立っていたのだ、なにも知らないわけがない。
それでも、今のロイには、自分よりも酷い地獄を見た人間など、いないと思っていた。
そう、思いたかった。
荒く、肩で息をする自分の上官を、ホークアイは悲しげに見詰めた。
例え、どれだけほど側近くにいても。
例え、どれほど強く忠誠を誓っても。
彼は自分を信用してくれていなかった。
ホークアイは突きつけられた事実に唇を噛み締めた。
彼の心の傷が深いことは知っている。それ故に抱いた野望のことも。
彼の真意を知り、付いていこうと思った。今でもその想いは変わらない。
ホークアイにとってエドワード・エルリックは、とても大切な人だ。
もしも、エドワードが自分の目の前で撃たれそうになったら、迷わず自分は楯になるだろう。(きっと、あの人は、そんなことを許しはしないけれど)
けれど、彼女と、目の前で自分を睨みつけている上官が、崖から同時に落ちそうになっていたら、自分は迷うことなく、この上官、 ロイ・マスタングに手を伸ばす。エドワード・エルリックではない。
すべてが、確かにあの金色の人のためだけれど。
絶対の忠誠は、この黒い上官だけに誓う。
彼にしか、出来ないと思ったから、この世界を変えることは。
そして、これだけはとホークアイは口を開いた。
「見ましたよ。貴方以上の、地獄を。
あの方は知っていますよ。貴方以上の苦痛を」
だって、あの砂と岩ばかりの戦場で、彼女の声なき嘆きを、聞いたから、見たから。
「確かに、他人のことなんて、どれ程近くにいてもわかりません。わからないけれど、彼女は貴方以上に苦しんでいる。
私たちなんかが、見る地獄を通り越している」
砂塵が舞い上がる昔の光景が甦ってきて、ホークアイは顔を歪ませる。情緒不安定が煽られて泣きそうだと、不本意にも思った。
上官はそれ以上聞きたくないのか、席を立つ。
引きとめようと腕を伸ばせば、思いのほか強い力に弾かれた。腕から身体へと伝わる衝撃に、此処最近の寝不足が祟り、ホークアイは眩暈を引き起こした。
崩れ落ちる自分の身体を誰かが抱きかかえる。その人は必死で呼んでいる。自分を。
それは過去と重なり、呼び起こすものがあった。
いつも、凛としたはずだった音。
だのにあの時だけは違った。か細く縋るように、けれど強く訴えるように、紡がれた音、言葉。
―――しなせて、おねがい。
エドワードは重く溜息をついた。
自分はどうしてこうも同じ過ちばかりを繰り返せるのだろうか。
目の前には清潔感漂う白。元来白はエドワードの好む色ではなかった。はっきり言うなら嫌いだ。どうしても、その色は死を思い浮かべてしまう。
その白に身体を横たわらせる、ホークアイの頬に触れる。生きていると判っていながらも、伝わる温もりに安堵する心がエドワードにはあった。
此処は医務室で、大分前なのか、少し前なのか判らないが、エドワードが用を足していると、荒々しく闖入者が訪れた。
一人は自分と肩を並べる立場の男だった。もう一人はその男の腕に抱かれ、気を失っていた女だった。
予測した事態が起き、自分の危惧はすでに遅かったと、二人の姿を見てエドワードは内心苦虫を噛み潰した。
動揺している男が軍医はと聞いてくるのに、今は居ないと云えば、彼は此処にはいない軍医を罵り始めた。それを強制的に黙らせた後、女をベッドに寝かせた。女の体温は高く、後もう少しで人外の体温となるところだった。
役に立ちそうにない男を、居るべき場所にいろと、医務室から追い出した。あれからどれぐらいの時間がたったのか。女はまだ目覚めない。
女の額に載せていたタオルを取り、サイドボード上の洗面器に落とす。氷混じりの水のなかに手も突っ込めば、ひんやりとした感覚がエドワードの手を襲ってくる。ずっとそうしていれば、じんじんと痛み始めた。ぼんやりする頭で、なんとか手とタオルを外気に触れさせる。
力を込めて、布を捩じり水滴を落とす。ぽたぽたと落ちるそれは幾度も波紋を呼んで、エドワードは笑った。それはどこか疲れきったもので。
「催眠術みたいだ」
墜ちていきそうになる思考を金色の頭を振って払う。ベッドで苦しげに息づく女の汗で濡れた顔を丁寧に拭き、違う面に返して再び額に置いた。その冷たさが心地好いのか、女の苦悶の表情が少し和らいだ。
わかっていたはずだ。彼女が倒れるなんてことは。駅で、声もなく、挨拶を交わすこともなく、果たした再会のときの彼女の顔を見れば、判っていたはずだ。
微かに青ざめて、自分の名を模った彼女を見て、まだ傷が癒えてはおらず、また夢が繰り返されることを、確かに懸念したのに。
結局、この様。なんとかしなくてはと目を覆ったのはつい先程。間に合わず、彼女を無理させ、倒れさせた。(あの時と一緒だ)
昔から、人助けをよくしていた自覚があった。それが顕著になったのは、入隊してから。少しでも多くの人にエドワードは自分の存在を植え付けたかった。
ホークアイもその思いで助けた。結果彼女を追い詰め苦しめている。
エドワードは自分への腹立たしさで吐き気がした。
自分よりも濃い金の髪を撫で付ける。女は反応がないまま。
エドワードは瞳を閉じる。そして、一つ、言葉を零した。
「―――――――」
震える手の向こう、傾いだ金色。
自分の崩れ落ちそうな足を、必死で叱咤して、這うようにその姿の元へと駆け寄った。
紅い海の中にいる存在に、絶叫しそうだった。それを留められたのは、一重にその存在に息があったから。温もりがあったから。
死んでいないという、事実がそこにあったから。
軍医をと、縺れる足で立ち上がろうとすれば、金色は自分の手を掴んだ。意識があるのだと、瞳には水膜が出来た。
縋るようなか細さで、訴えるような強さで、あの人は言った。何一つとして聞き逃さないように、自分は跪くように、戦慄く口唇に耳を寄せた。
嬉々とした思いは一瞬のうちに消え去った。
―――いい。このままで。死なせて。お願い。こんな世界はもういやなんだ。
―――しなせて。おねがい。
いつだって強くて、優しい彼女の姿に、戦場で侵されていく精神を癒された。
彼女はとても強い人で、弱さなど見たことがないと、周りの軍人たちは云っていた。自分も、そうだと思っていた。
けれど違った。彼女は決して気丈な人ではなかった。ただ死を願わない部下のため、気丈な振りをしていただけ。
優しい人だから、自分の弱さを押し殺し、演じていただけ。周りが望む、上官を。
どうしてと、叫んだ。
彼女は死を。自分は彼女の生を。相反する願いを、今此処で、この瞬間、抱いていた。
自分が撃たなければ、彼女はこんなことを言わなかった。彼女は強い振りをして、生きてくれたのに。彼女の願いを、いつまでも押し殺して。
「ぁああああああっ」
「しっかりしろ、ホークアイ中尉っ」
揺さぶられ、唐突に悪夢の世界からホークアイは掬い上げられた。
ここ最近、過去の映像にずっと支配されていた夢の世界。まだリアルに覚えている、銃の振動。流れ出た血の色、温もり。あまりの凄惨さに、目が覚めた今も、閉ざされた瞼を持ち上げるのが怖い。
ここが、テントの中だったらどうしよう。砂漠地帯のなか、岩を壁に、張り巡らされた軍の宿営地だったならば。戻りたくない、あの戦場の、あの瞬間だったならば。どうすればいい。今にも発狂しそうな心の静め方がわからない。
ホークアイは夢の余韻に肩で荒く息を繰り返しながら、心をどうにか落ち着けようと柔らかいシーツを硬く握りしめる。
前髪を梳かれた。その、優しい仕草に、覚えがありゆっくりと開いた視界に、細い指が映った。その指から腕へと辿っていけば、そこにいたのは先の夢にいた人。
この手で、殺そうとした人。
「…鋼の大佐」
夢の名残に、昔の呼び名を口にした。
エドワードは微笑んで。
「今は准将。君は中尉だろう」
その言葉に、いつまで夢の世界に居るのだと、柔らかに叱咤されたような気がした。
彼女の綺麗な蜜色の瞳を見ていれば、熱を出しているのだろう、朦朧とする頭でも段々と現状整理が出来てきた。ここは恐らく医務室で。自分はロイと言い合いをして、夢見悪さに睡眠を怠った所為で倒れた。そうして、看病しているのが、エドワード。
そこで初めて、ホークアイは狼狽して、眼を泳がせた。
エドワードと再会してというもの、ホークアイは彼女を真っ直ぐ見れなかった。
それは過去故に。この手で彼女を傷つけた事実が、ホークアイにはあまりに後ろめたかった。
「ごめんなさい」
けれど、今は絶好のチャンスだった。
ずっと、ずっと謝りたかった。けれど彼女は謝罪を許さなかった。
君のせいではない、先回りして優しく云って、ホークアイの言葉を拒絶した。
今思えば、それは彼女が見せた弱さだったのだろう。
死にたかったエドワードに、死ぬ機会を与えたことを自分は謝ろうとしていた。
この願いを否定しないで、エドワードは声もなく、いつもの穏やかな笑顔の下で叫んでいた。
離れて、時間を置いたからこそわかる。
今なら、受け止めてもらえるだろうか。意を決した、そんな想いでホークアイは彼女を再会してから始めて、真っ直ぐに見た。
「うん。わかってる。
悪かったな、あの時は随分参ってて。中尉には辛い思いをさせた」
ごめんと彼女は笑って云う。
その微笑が本物なのか、ホークアイにはわからない。
今はもう、あの願いは捨ててくれたのだろうか。死にたいなんて。
聞きたかった。けれど、怖くて聞けない。もしも聞いて、殺してくれる?そう云われたらと思うと、一度開いた口を閉じるしかホークアイには出来なかった。
だから、代わりに。
「ごめんなさい」
だって自分はいつまで経っても、貴女よりも、自分が大事だから。貴女に生きていて欲しいという願いのほうが、ずっと重いから。たとえ、貴女が死をいまだに願っていても、知らない振りをするくらい、自分本位で、醜い人間だから。
どうか、いきてほしい。
いつか、貴女がいやだと云った世界を、変えて見せるから。あの人の下で。
まだ、あきらめないで。
ロイは執務室に一人居た。
外はもう暗いが、部屋には明かりの一つも灯さない。
机の上もすっかり片付いて、もしも此処にあの副官が居たならば、どういう気まぐれなのかと聞いてきたはず。その副官も体調不良のため、最高指揮官の命により自宅療養させられている。
ロイは片肘を突いて、その上に顔を載せる。
思い起こすのは、医務室での彼女との会話。エドワードとの。そういえば自分は態度には表さなかったが、いつも彼女と話すときは喧嘩腰だったなと思い出す。
あの時彼女は始終穏やかな顔で自分に語りかけていた。
「自分の五感は、誰かと共有できるか?」
医務室に駆け込み、そこにいた上官の命令で意識のないホークアイをベッドに寝かせたあと、彼女はそんなことを云った。
「いえ」
上官の唐突な質問の意図もわからないまま、怪訝な顔でロイは応えた。
双子などに関しては、そういうテレパシーなどという非科学的な共通感覚神経があるだのと騒ぐ者がいるが、ロイは信じていない。自分の感覚など、自分以外には感じられない。
雪の降る季節に、裸の人間が外に居たとして、映像的に寒いと感じても、実際には自分が寒いわけではない。
大怪我をしている人間が居て、その傷口を見て、痛いと思っても、実際には怪我をいないし、痛いわけではない。
すべてただ、そういう風に見えてしまうだけだ。
「じゃあ、記憶は、誰かと共有が?」
「いいえ」
自分が見たものをいくら話して理解してもらっても、たとえば写真を見てもらっても、誰かの記憶や思い出なんて、共有できるわけがない。
「ならば、感情は理解し、共有できるか」
今度は疑問系ではなかった。
椅子に座っている彼女は真っ直ぐにロイを見上げる。
相変わらず意図がわからないが、質問の拒否を彼女の瞳が許さない。
「いいえ」
「自分の感情を、誰かに言ったとしても、それはあくまで主観的なもの。自分の感情は、誰かの感情とは異なる別物だ。年齢や、生き方、環境、性格、性別。それらすべてから個が成り立ちその人間の視点が生まれるからな」
なにをそんな判りきったことを云っているのか。エドワードは自分に説教でもしたのかと、ロイは内心鬱陶しかった。と、同時に、どんな説法をするつもりかと、嘲笑っていた。
「記憶だって、五感だってそうだ。
なら、お前が、ホークアイよりも、苦しみを識っているなんてことはないんじゃないか?
お前が、イシュバールを辛いと感じても、そのときのお前の辛さは誰にもわからない。お前がそれを地獄と呼んでも、他の誰かがお前を同情しても、他の誰かにとってはお前のそれは地獄じゃない。他の誰かは、お前の視点から、お前の地獄を見ていない。例え見たとしても、自分ではない人間の地獄を、自分の一番にすることは出来ないよ」
ロイは黙ったまま。なにを考えているのかも、なにを考えていいのかもわからなかった。
一つわかることが、彼女の云っていることは先程自分とホークアイが云い合っていた内容だ。ということは、あの話は彼女に聞かれていたということになる。部屋は防音なので、扉が開いていたのだろう。
叶うならば、彼女の声を止めてしまいたかった。彼女は自分を崩すようなことを云う。あの地獄こそが自分を支えてきたのに、彼女はそれを取り上げようとしているのだ。眼を覚ませと。
「お前が地獄とした世界には、ただ一人だったか?」
自分の地獄は、東方の内乱地、イシュバール。
「お前以外の人間は、感情のない人形だったか?
同じ戦場に立っていても、銃を持っていれば、感情はないか。痛みを負うことはないか。
―――ロイ・マスタング、お前の隣にいた誰かは、その世界がいやで、心を壊さなかったか」
考えが追いつかず、ロイはただ事実のまま虚ろに、首を振る。
「いまし、た」
そう応えれば、エドワードは微笑む。馬鹿にしたわけではなく、慈しむように。
「お前の地獄は、他の誰でもない、お前だけの地獄。誰かが同情は出来ても、お前の辛さはわからない。それと同時に、お前も、他の誰かの地獄はわからない」
エドワードはロイから逸らした瞳を、今は眠るホークアイに向けた。
「ホークアイの、俺への感情は、責めないでやってほしい。
イシュバールで俺は彼女を助けたことがあってね、そのとき彼女は砲弾神経症(シェルショック)に罹っていた」
砲弾神経症、戦場ではよくある精神病だ。爆炎と砲弾の嵐に晒され続けると精神が壊れ身体が麻痺する、そんな症状がホークアイににあったなど初めてロイは知った。
「リザ・ホークアイはね、そのときに一度、俺の命を奪いかけたことがあるんだ。だから、なんだ。決して、故意ではないのだけれど、それでも俺は一度生死の境を彷徨った。彼女はそれを悔いている」
金色の瞳に再び見入られる。ロイは、穏やかなその色にこちらが魅入る心地になる。
「もし、まだ自分が誰よりも、不幸だと思うならば、信じていたいなら。そして、彼女の俺への想いが気に入らないならば、聞いてごらん?
彼女の閉ざされた心の奥深く、地獄を掻き回してみればいい。その結果、彼女は狂うと俺は思うけれど。
お前が一番なんだろう?誰よりも、地獄を知っているんだろう?それでもお前が壊れていないんだ。お前よりも苦痛も地獄も知らない彼女は、なにを云っても、壊れないんだろう?」
彼女は責めるような声音は一切しない。ただ穏やかに、けれど瞳だけは、いつも以上に鋭く。そこに居る。
「覚悟があるなら、聞いてごらん」
エドワードは云い終わると、もう用はないと、執務室に戻り、仕事を片付けろといった。ロイは、今はなにも云えず、ただホークアイを一人残すのが懸念だった。
医務室を出て行く前に、彼女は云い忘れていたと、ロイを引き止めた。
「俺は、今のお前を中佐とは認めない。だから階級では呼ばないだろう。名前も呼ばないのは、昔のお前を認めていたから。
今のお前は、俺を意識しすぎてなにも見えていない。
若い小娘、確かにお前よりは若いけれど、軍属歴は俺のほうが長い。その間に様々なものを見て、感じて、この地位にいる。そうして、いろんなものを、犠牲にして。
お前と俺は違う。どうせ嫉妬するなら、違う奴に向けろよ」
嫉妬するような価値にない奴に向けるな。そんなことを云う彼女の眼は悲しそうだった。
それから、不穏当な発言は扉を閉めてからにしろ。そんな言葉を最後に告げて。
彼女と自分を遮る扉は、閉ざされた。
ロイは机の引き出しを開ける。中に入っていたのは黒いファイル。そこには未成年者誘拐事件と明記されている。暫く見ていたがロイは決心するように、黒いファイルをその手掴んだ。そして電話を取り、部下が居るはずの司令室の内線へとダイヤルを回した。
その眼は、エドワードが感嘆した以上の強さを秘めていた。
「ああ、ハボックか?云っていた事件の資料集まったか?」
『一応ありましたよ。たく、俺埃まみれですよ?准将』
受話器から伝わる声は不貞腐れたような声。
それに笑いながらエドワードはご苦労さんと、労う。
云おうかどうか迷いながら、やはりハボックにも云うべきだろうと、エドワードは言葉を捜す。
「ホークアイと、少し話をしたんだ」
途端に電話の向こう、雰囲気が変わる。ハボックがホークアイを毛嫌いしているためだ。
『話さなくていいですよ、あんな人』
硬い声音。嫌悪感が滲み出ている。
ハボックは、四年前エドワードを撃ったホークアイを赦していない。
「彼女は戦争に心を病んでいた。あそこでは多くいただろう。目に見えるものすべてが敵だと思っていた奴は」
『それでも』
「それに、彼女は俺の不用意な言葉で深く傷付いてる。今もまだ、その傷は癒えない」
『………』
「何一つとして、彼女に非はない。本当はわかっているはずだ。ハボック、お前も」
『それでも、俺は貴女が大事なんです』
イシュバールの内乱。
あれはエドワードの過去の失態が生んだものだ。そこから生じたホークアイの精神病によっての行動など、謝る必要はない。例え自分があの時死んでいたとしても。寧ろ謝罪すべきはこちらなのだ。ホークアイの苦しみは、元を辿れば自分が発端なのだから。
クリスもそうだ。彼はイシュバールの内乱の所為で愛するものを失ったのだから、エドワードも憎むべき人間に入れておくべきだった。なのに、あんたは軍人でも信じられると云ってくれた。
ハボックや、今はまだ中央にいる部下は、自分を大事だといってくれる。なにも知らない奴も、自分の秘密の一握りでも知っていいても。
もしも、皆が事実を知ったらと思うと、怖かった。どんな目で自分を見るのだろうか。
隻眼のあの男のように、お前のせいではない、それだけは云わないだろう。あんな、温かい目では。
ほんの少し、暗くなり始めた思考を、頭を振って追い払う。揺られる金糸は、暗闇の中、光を散りばめるように舞う。
エドワードは、窓辺に立つ。
臨んだ月は、白く輝いて。
その光に照らされて、一つ呟いた。
「終わればいい」
いつか、自分の夢も、世界も。
けれど今は、きっと眠りについているはずのホークアイの、夢の世界の終わりを願った。
もう、あんな過去の夢になど、苦しめられないようにと。
手に残る、彼女の髪の感触。
その手を固く握りしめる。
最早、謝罪の言葉など、心苦しくて真正面から言うことも叶わない。そんな自分だけど。
back/top/next