エドワードは静寂の中、上等な椅子に深く腰掛けていた。なにをするでもなく、考えるわけでもなく、ただ瞳を伏せて、そこにいた。
コンコンと軽く扉を叩く音がする。瞼を持ち上げれば、書棚が見えた。ただし中は空だ。ここに来て約一週間経ったが、現副官であるハボックに、送られてきたエドワードの物品や箱に詰まった資料は整理しなくていいと云われたからだ。理由は整理と同時進行で資料や本を読むから。ハボックがそう云ったときのことを思い出して、エドワードは少し不貞腐れた。自分だってやるときはやるのに。
机と平行に向けていた身体を、正面に位置する扉へと向ける。気配がないことから、ハボックかと当たりをつけてみる。
「入れ」
入室の許可を与えれば、非礼を詫びる言葉と共に入ってくるのは、予想通りハボック。
その姿が、傍近くに辿りつくまで待った。
「書類はすべて処理した。巡回に行きたいんだが、なにか問題は?」
入室した途端にいきなり出たエドワードの願いに、副官は少し困り顔をする。
「そろそろ言い出すと分かっていただろう?」
「分かってはいたんですがね」
肩を竦めるハボック。それ以上なにも云わないことから、自分の願いを却下したいのだろう。それはエドワードも分かっている。彼は自分を一人で外に出したくないのだ。理由は明確。危険に晒したくないからだ。
「もう、一週間だ。そろそろ情報収集するべきだろう?」
得たい情報はイーストシティの現状についてともう一人の司令官について。その司令官であるロイ・マスタングは既に調べ始めているはずだ。エドワード・エルリックについて。
「まだ一週間も経ってないですよ。
いいじゃないですか。どうせ貴女のことは深く調べられない」
確かに調べられない。エドワード・エルリックの個人情報は機密事項ものだ。深く手を伸ばせば死を掴むことになる。
「けどな、あっちにはホークアイがいる。彼女は俺を知っているだろう」
「ああ、ホークアイ少尉ですか」
忌々しげに呟くハボックにエドワードは溜息をつく。まだ彼女を憎んでいるのか。四年前のあのときのことを。
「今は中尉な」
「で、なにか」
言外の含みをハボックは漂わせる。リザ・ホークアイがなにか知っているのかと。
空気重みを増したのは気のせいではないのだろう。机越し目の前に立つハボックは眼を細めている。
「いや、彼女はなにも知らないはずだ。分からせるような素振りは俺もしなかったし。握られている秘密はないよ」
そうですかと呟くが、ハボックはまだ納得していない。寄せた眉は解かず、空気も重いまま。
エドワードは表情もなく、その姿を暫く見ていた。ハボックはその視線には気付かない。
「彼女には手を出すな」
纏わりつく静けさを切り捨てるように、エドワードが重く言葉を紡げばハボックは顔を上げる。その顔は驚きに満ちている。今まで、部下が自分を護るために動いていたことに関して、エドワードは深く追求することも、止めろと云うこともなかった。彼ら部下が自分を護るために、誰かの命を奪おうとする以外は。ただそういう時だって、エドワードはなにも云わず、彼らの邪魔をして止めさせていただけだ。だから、エドワードはこうやって、言葉にするのは初めてだった。
「命令だ。いいな」
ハボックにはエドワードを護りたいという思いがある。そしてエドワードにも、思いがある。それはハボックとは違うものだ。
「返事は?」
承服し難いのは分かっている。それを知った上で、エドワードは上官という立場で部下に強要する。命令という名の下に。
「Yes.Sir」
小さな返事を聞き届け、執務室から出て行く。巡回の件は副官の了承も得ずに。
エドワードは少し歩いていると、一人の女将校に出会う。
「あっ」
「久しぶり、ホークアイ中尉」
笑いかけるエドワードとは対照的に、ホークアイの表情は硬い。
「お久しぶりです。エルリック、准将」
彼女は、エドワードの顔すら見ない。
ホークアイは顔を蒼白にして、エドワードが来た方向に歩いていく。その背中を暫く見ていたが、エドワードもまた、彼女とは違う方向に歩いていった。
溜息一つ、その場に残して。
「おねえさん」
何度か分からない、呼び止め。
最初のうちはどこぞの軽い男が、綺麗方をナンパしているのかと思っていた。どうやらそれは違うようで、自分への呼び止めであり、商売精神溢れるものだったらしい。
「今日はいい林檎が手に入ったんだ。買って行かないかい。軍人のお姉さん」
軍人は大概嫌われる職業だ。だがイーストシティの人間は軍を忌み嫌ってはいない。それは先程から軍服を纏うエドワードを厭うことなく呼び止めることからもわかる。呼び止めるのは圧倒的に男の数が多い気がするが、それでもその人たちには不穏なものはない。彼らが軍に対し、嫌悪の感情が少ないということは、それはつまり、東方司令部がこの街の市民に少なからずでも、誠意を見せているということだろう。
「うーん。止めておくよ。一応巡回中だしね」
「おや、残念」
呼び止めた店主は本当に残念そうな顔をする。悪いなと断りながら、エドワードは街の情報を聞くことにした。
「いま、街のほうは賑やかだね。ああ、けど、親子連れが目立つ」
「ん、まあね、テロも漸く収まったからね。みんな出歩きたいんだよ。
親子連れは、例の誘拐事件がまだ解決してないからなぁ」
そう、ここではテロと同時進行で未成年者の誘拐事件が起こっていた。
帰ったらもう少し詳しく調べるかとエドワードは、他の話題に移った。
「なんか、最近変わったことはないかな」
「うーん。ああ、最近夜が物騒だな。軍人じゃないのに、やたら動き回る奴らがいるんだよ。まるで、至る所を監視しているようなんだ」
店主は気味が悪いと、顔を顰める。
「へえ。気をつけて見回るよ。ありがとう」
エドワードはその話が引っかかり眼を細める。
そうしていると、エドワードの脳内で一つの可能性が組み立つ。どちらにしても、これは司令部に戻ってからの問題でもあり、今の軍の手持ち情報では店主の情報も活かせず、一つのピースにしかならない。
ならば今は先のことを読んで、やっておくべきことがある。
「いやいや。がんばってくれよ。あんたら軍が頼りなんだ」
「まったくだね。巡回のとき、暇ならまたいろいろ話してくれよ」
軽く手を振って、エドワードはそこから離れた。
「随分良い司令官らしいな。あの男は」
エドワードは頬を緩ませながら呟いた。
やはり情報収集をするならば、市民から得るのが一番の近道だ。市民の声は軍をなによりも表す。彼らが云う軍は、軍人全体を指し、その頂点に立つ司令官を指し示す。
市民からの一定した軍への評価はとてもいい。ならば、軍人を統括する司令官は有能なのだろう。
なにより、初めて対面したとき、あの男は外面を綺麗に取り繕っていたが、あの黒い瞳はまったく違うものを映していた。 自分にとって有害となるか、無害となるか。利用できるか。
それには、流石と感嘆した。あの若さで大佐秒読みと云われるのは伊達ではない。成り上がりであろうと、あの男は崩れない。立てた功績はロイ・マスタングの実力だ。
大通りを抜けて、小道に入る。
二年ほど離れていたイーストシティ。エドワードが司令官として起っていたときと比べ、外観も街の人々の様子も変わった。道は増えて、市民は今のほうが明るい。
当時のエドワードは、自暴自棄が入っていたため、坦々と仕事をこなすだけだった。市民がなにを求めているのかも、分からず、解ろうともせずにいた。
ただ早く、この世界に終わりが来ればいいのにと願う毎日だった。
入り組んだ道の途中、一つのコーヒー専門店がある。その店の外装はとてもシックなものだった。
エドワードは少し笑う。
「変わってない」
懐かしい。素直にそう思える。イーストシティを眺めても、昔座っていた椅子に腰掛けても、そんな感情は沸き起こらなかったのに。
準備中の札が掛けられている扉を、エドワードは軽く押し開く。キイと変わらない甲高い音に迎えられる。
開けた視界には、やはり変わらない店内。落ち着いた雰囲気が、エドワードが気に入った理由の一つだった。
「すいません。まだ、準備中なんですが…」
カウンターでゆったりと作業をしている青年が振り向く。
黒髪、碧眼、甘い容貌。背丈はすらっとして。やはり彼も変わっていないのだろうか。
この男の穏やかな雰囲気が、エドワードが此処を気に入ったもう一つの理由。
男はエドワードを見たまま、動かない。声も出さない。咽喉で引っかかった言葉の続きはエドワードには届かない。
久しぶりの姿に、エドワードは顔が緩んでいくのが分かった。胸にはじんわりと広がっていく穏やかな温もり、そして密やかな恐怖。もしも、誰だと云われたらどうすればいい。そんな思いが浮かんで離れない。
「ひさしぶり、レオン」
覚えていてほしいと、祈るように口にしたその名。エドワードは無表情。軍服を着ている自分がそんな態度を取れば、威圧にしかならないというのに。
それでも、昔から、少しでも恐れを抱いたら、表情を殺すのは癖だった。それが自分を護るための盾となるから。特にこの男には、どれ程心偽って綺麗に笑っても、見抜かれた。だから彼の前では、無表情のときが多かった。
誰かに慰められたくなんてなかった。
「申し訳ございませんが、どちら様でしょうか」
男はエドワードの恐れなど知らず、そう云った。
三年、離れていた。その間、一度も顔を見せに来ることはなかったけれど、エドワードは男のことを覚えている。
中央への異動命令が出たとき、自分は無言でこの地を去っっていった。あのときのことを男は怒ったのだろうか。そうして、忘れてしまったのだろうか。エドワード・エルリックのことを。
エドワードは胸が締め付けられるように痛んだ。
「うそだ。覚えている」
痛々しげな声が眼を逸らしたエドワードの耳に届く。ほんの少し視線を戻せば、そこにいる男は顔を痛ましそうに歪めてエドワードを見ている。
「ちゃんと覚えてる。エドワード・エルリック」
自分の名前を呼ばれたことで、忘れられていないということがわかった。安堵したと同時に、切ないほどの痛みを、エドワードは感じた。
「おかえり、エドワード」
久しぶりに見る男の笑顔に、エドワードも笑い返した。レオンに。
「ただいま」
これほどに、自分は誰かの忘却を恐れている。
すべてを、取り戻したあの日の、あの瞬間から。
ハボックは只今不機嫌だった。
ほんの少し前までは、金色の上官の命令で落ち込んでいた。
そして今は、黒いもう一人の上官と相対していて、不機嫌だった。
「では、准将は街に巡回に行かれたと?」
「そうです」
何度同じことを言わせる気だと、ハボックは思う。
眼の前に立つ上官は、憎たらしいくらい端整な顔立ちに変化付けることもなく、ほお、と呆れ気味の溜息をつく。入隊後一年だけ、この上官の下にいた経験で、ハボックにはそれが厭味と皮肉の始まりだと知っていた。
「書類は、すべて決済済みです。准将が巡回に行かれても問題はありませんでしたから。なにか問題でもおありですか。マスタング中佐は」
あの金色の上官への悪態など聞きたくはない。だから先にロイの言葉を潰してやろうとハボックは睨みつけるように云った。
「問題?あるだろう。准将が今いてくださらないお陰で、緊急にもかかわらずこの書類は決裁できない」
ロイは口元を歪めて、手に持っている緊急の書類をひらひらと振る。
もともとその書類は、この上官がぎりぎりまで溜め込んでいたものだ。要するに、緊急と化したのは、目の前の上官の所為なのだ。
あの女将軍の弱みを探ろうと、ハボックを射る黒い瞳は鋭い。
「エルリック准将はご多忙な方です。いらない仕事を増やすのは止めていただけませんか」
「増やしているつもりはないんだがね。それにしても、ご多忙の割には、この場に居られず、街に下りられるとは。ああ、息抜きか」
あからさまに、エドワードを嘲笑するロイに、ハボックは拳を力の限りで握りしめる。ここで、思うがまま、この上官をハボックが殴れば、自分だけでなく、自分の直属の上官であるエドワードが責を負うこととなる。自分が、彼女に害を為すなど、冗談ではない。
ハボックは、ロイの挑発に乗らないように更に拳に力を込めた。
「貴方とは違いサボられることなどありません。ご心配なく。
准将自身が街に下りられ、情報収集されるのは、日々の業務の一つです」
ほう、部下の情報は信用されていないということか。そういう指揮官に命は預けたくないのだがな」
ああ云えばこう云う。さすが頭が切れる。エドワードと同じく国家錬金術師の資格は伊達ではない。
「最高指揮官の名に恥じるような方であるならば、私は遠慮なく、潰す。それに、あの見目麗しい容貌だ。よもや、などということがないことを祈っているがな。
まあ、最高司令官の身でありながら、軽がるしく出ている事態で、既にどうかとは思うが」
身体を売っているのではないか、非常事態の場合はどうするのかと、好き勝手に云う黒い上官に、ハボックはさすがに理性が飛ぶ。それを止めたのは、聞き慣れた声だった。
「それは、悪かったな」
聞こえてきた、凛とした低音。
ロイは驚いて振り向く。
今の今まで、悪態の対象であった上官が、扉に凭れてそこにいた。
彼女の気配にも、扉が開いたことにことにもロイは気付かなかった。
自分は戦場にだって立った。そこで様々な感覚を鍛え抜いた。特に気配に関しては、人一倍鋭い。例え、気配を殺していたとしても、気付ける程にはそれに自信があった。なのに、ロイは気付けなかった。
ロイの背中に冷や汗が伝う。
わかっていた。
列車ジャックのときに見た彼女の錬金術は、異端なものだった。練成陣を何処にも忍ばせていなかったにもかかわらず、錬金術は成った。あんなこと、どれだけ天才と云われても、出来るはずないことだった。
そうして、今も思い知らされる、実践経験の圧倒的な差。
エドワード・エルリックと、ロイ・マスタングでは、何もかもに差がありすぎた。
名前と階級を聞いたときはどれ程の年かと思っていたが、対面した後に聞けば彼女はまだ二十四。自分よりも二つも下なのだ。
ロイは初めて劣等感を抱いた、この最高司令官に。
「遅くなって悪かったな、ハボック中尉。下がって良いよ」
エドワードの言葉にハボックは不満そうだが、そのまま部屋を出て行く。ロイの側を通り抜けるとき睨んできたのは、気のせいではないだろう。まるで、牽制のように。
ここ何日かで見ていた限りでは、ハボックは彼女には逆らわない。それは、上官の言葉だからでもなく、勿論惚れた弱みなどという、ふざけた理由でもなかった。なにか、奥深いところから起因するものだということは、見ていてわかった。
随分と大事にされているらしい。彼女は。
なぜか胸糞悪いとロイは書類を持つ指に力を込めた。
「さて、わるかったな。なにも云わずに出かけて」
「いえ」
躊躇なく謝罪してくる上官に、ロイは居心地の悪さを感じる。それはさきほどの、悪態の数々を思い出して。いったいどのあたりからエドワードに聞かれていたのだろうか。自分が口にしていたのは、上官侮辱罪に当たる。
「だが、忘れるなよ。俺がいないときのための、お前だ。補うためでなければ、双司令官なんて置かないだろう」
そう云って、彼女は笑う。先程のことにはまったく触れず。
まるで相手にされていないようだ。ただ、諭されてるだけだ。事実を。
エドワードはロイに近付いてくる。
目の前で改めて見ると、彼女は幼げな顔立ちをしているが、恐ろしいほど整っている。何の感情も映さなければ、まるで人形のようだった。
「これか、急ぎの決済は」
いつの間にかロイの手から消えていた書類を片手に、金色の上官は机に向かう。
優雅な動作で椅子に腰掛け、金の目は紙の文字を追う。だが、その紙は、再びロイへと差し出された。
「エルリック准将?」
いったいなんだ。ロイは上官の名を呼ぶ。
「作成からやり直し」
「待ってください。時間をわかっていますか?今から作成なんて、無理です」
この書類は明日の昼までに中央に送らなくてはいけない。時間的には今日中に配達員に渡さなくてはいけないのだ。今は、もう辺りが朱く染まり始めている。今から作成など、不可能だ。
「大丈夫だろう。お前の仕事は、俺が貰ってきたから、大分量が減ったはずだし、作る余裕は十分にあるよ」
意味がわからない。自分の何が減ったと、この人は云ったんだ。
「とにかくやれ。それでは上に出せない。これ、命令」
これは、仕返しか。緊急の決済書類を溜めた自分への。ロイは歯噛みする思いだった。不満は嫌というほどある。だが、命令だと云われた時点で、上官に逆らうことなど、出来ない。
ロイは敬礼をして、部屋を出て行く。扉を閉める直前、声が聞こえた。
「勝負はいくらでも受けてやる。だが、どこぞの馬鹿共と同レベルなら、相手にはしないからな」
閉ざされた扉の前で、ロイは苦味を味わう。自分は子ども染みた事をしていた。それは、自分が散々馬鹿にしてきた老将軍たちがしている事と同じことだった。
突き返された書類を見る。
いったいなにがどう駄目だったのか。なにも云わず、ただ作り直せだなんて。書類は列車ジャックについて。必要なことはすべて書いてある。見落としなどない、はずだ。
訳が分からず、ロイは苛々と頭を掻き毟って、自分の執務室に足を向けた。
途中、ブレダとファルマンに出会う。二人の手には、大量の書類。聞けばそれは自分の机に積みあがっていたものだと云う。最高司令官が自ら書類を分別して、一方の書類を自分の部屋へ持ってきてくれと頼まれた。それだけ云うと、部下二人はその最高司令官の部屋へと向かった。
ロイは暗闇の中、すっきりとした机に向かい事件のファイルと書類を見比べていた。だが、何度見ても、睨みつけても、最高司令官が自分に書類を突き返した意図が分からない。これは完璧に自分への仕返しだと、拳をぎりぎりと固めたときに扉は叩かれた。入室の許可を与えると、入ってきたのは副官。
「ああ、中尉。丁度良い。この書類を見てくれないか」
そう云って差し出したのは、先程から格闘している一枚の書類。
ホークアイでさえ分からなかったら、最高司令官がなんと云おうとも、そのまま中央へ送りつけてやる。そんな決意がロイの胸にはあった。
差し出された書類を読み終わるのを待てば、ホークアイは一つ質問をしてくる。
「これは、エルリック准将の元に持っていかれたのではないのですか?」
「持って行ったら、突き返されたのだよ。なにをどうとも云わずに、ただやり直せとね」
「分かりました」
なにがどう分かったのか、ロイには分からないが彼女に敵意でも向けているのだろうと解釈した。
そうして、彼女は再び書類に目を通す。一度読み終わったようだが何故かもう一度、書類に目を通す。どうやら、彼女でも分からないらしい。
やはり何処にも訂正するべきものなどないのだ。間違っていたのは、あの歳若い上官の方だった。そう思えば、ロイは今まで低空飛行していた自身の機嫌が急上昇していくのが分かった。
このまま、エドワードの元に書類を持っていって、なにが間違いなのか云わせようか。きっと云えないだろう。間違いなどないのだから。そうしたら、彼女の顔が歪むだろうか。いつも、歳の割に達観しすぎている彼女は。それは、さぞ見てみたいものだと、ロイは深く笑みを刻んだ。
未だ、書類を見ている副官を、もういいと止めたが。
「いいえ、あの方は、嫌がらせでこんなことはされません。なにかあるはずです」
そう云ってホークアイは必死に書類の穴を見つけようとする。
ロイは驚いていた。ホークアイの云い方では、彼女は随分とエドワードを信頼しているようだった。出会ったのは、一週間ほど前のはず。それから同じ司令部で働いてはいるが、エドワードとホークアイが一緒にいるところなど見たことがない。というよりも寧ろ、ホークアイは、エドワードを避けている節があった。今まで、エドワードのことを嫌っているのかと思っていたが、違うのかもしれない。
気になって、ロイは口を開いたが、それよりも早く副官が云った。有りました、と。
そして彼女は安堵したように、言葉を紡ぎ始めた。
「誤字が一箇所あります」
「何処にっ」
「ここです」
細い指に指された場所。しっかりと読んでみると、確かに間違っている。
ロイは唖然とした。自分の副官はとてつもなく優秀だ。なのに、彼女ですら何度も何度も読み返して、やっと見つけられたその間違いを、彼女はたった一度、しかも速読で読み分けたのだ。
湧き上がってくる思いを、唇を噛み締めて押し殺す。頭上からは、良かったですねと副官の声。顔を上げれば、普段表情を変えない彼女は満面の笑顔を浮かべていた。
「あのまま中央に送っていれば、確実に中佐のお嫌いな激励が飛んできていました。それに、今は昇進秒読み状態ですから、見つかって良かったです」
始終ニコニコと笑っている副官を早々に追い出す。
ロイの脳裏に思い出されたのは、昨夜の親友との会話。
『十二歳で国家資格を取得。その後は各地転々と旅していたらしい。ほら、よく新聞に載っていたろ?民衆に味方する軍の狗、ってさ』
『実力も頭脳も確かだからって、十六歳で軍に入隊したときは中佐からだってよ』
『入隊から二年後の十八歳のときには南部内乱にハクロ少将を指揮官に参加していたらしい。俺の上司がその内乱に加わっていたことがあってよ、聞いたことがあるんだが、指揮を取ってたのはハクロではなく金色の女将校だったらしい。しかも、金色の女将校は、その部隊にはたった一人しかいなかったらしい。だれか、わかるだろ』
『イシュバールにも参加してたぞ。一番最初に放り込まれた国家錬金術師だ』
『一人で二百人のテログループを殲滅したこともある。なかなか、凄い経歴だな。お陰で出世街道まっしぐらだ』
『一番気になるのが、彼女の部下は死にやすいってことだな。彼女の入隊当時に配属された部下はすべて死んでる。何人かは殉死だが、八人ほどは交通事故やら自殺やら、怪しさ満点の死に方だ。
調べられたのはここまでだな。表面的なものばかりだ。なんかよく分からんが、エドワード・エルリックの個人情報は国家機密になってたぞ。特に軍属時代が』
ロイはくっくと笑いを零す。耐え切れず、声を上げて笑う。まるで狂気のように。執務室は防音なので、外に洩れることはない。もしも洩れたとしても、今のロイには関係なかったが。
漸く止まった笑いに、今度は固めた拳を振り下ろす。机は衝撃に音を立てる。低く積み上げられていた書類は、数枚床に散らばった。ロイはそれに見向きもしない。
次々と分かってくるエドワードのこと。いったいどういう経歴なのかと、一般論からしてみればあまりに異端な彼女の人生。
ロイなどという人間が敵うのか。
彼女の影すら踏めない自分。相手にもされない、こんな現状で、なんの勝負が出来るのか。
彼女と同じ世界を映せない、今の自分で。
「空勝負に何の意味があるんだっ」
闇の中、苛立ちと自嘲の言葉は、ただ一人の室内に落ちた。
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