男は、愛するすべてを軍に奪われた。
彼の東部内乱イシュバール戦。軍に非がありながらも、正義の名の下にと、広がっていった戦火。
まるで、このときを待っていたかのように様々な新しい有事法が機能した。中でも他とは比べる必要もないほどに、圧倒的に機能したものがある。
一つは国家資格を持つ錬金術師の召集の際の強制軍部昇格。一般人であろうと、少佐の階級に縛られ、大総統に忠誠を誓うこと。それは、戦争が終わっても軍から解放されず、軍人となることが義務付けられるものだった。以前も確かに有事の折には戦争に参加を義務付ける法律はあった。けれど、少佐の階級を与えられることはなく、軍属の身で戦場に立っていた。だから軍人となることは義務ではなかった。
もう一つは、有事が街や村の付近にて発生した場合、そこに住まう市民が持つ財産を軍に提供すること。終戦後、提供された財産は返却されるが、それはどんな状態になっていたとしても、軍は一切の責任を負わないこと。場所によっては、返却も出来ないということ。
国家錬金術師なんて、男には世界の違った話であった。けれど、財産の法律は違う。イシュバールに遠く離れていなかった男の村は、奪われるような形で提供することとなった。
提供先の司令官が酷い者だと、兵士の慰め物として女子どもまでも提供しなくてはいけなかった。拒否や抵抗をしようものなら、暴力という名の和解が待っていた。
結果、多くの男たちが、妻や子どもを、土地を軍に奪われた。男はその中の一人だった。
憎しみや空しさが心に積もるなか、イシュバール人からの襲撃があり、軍の駐留所となっていた男の村は見るも悲惨な光景と化した。建物は崩れ去り、草木に茂っていた野原も山も、焼け野原となった。
女子どもが捕らわれている牢獄も、例外ではなかった。燃え上がった其処は、悲しみを嘲笑うかのように村人の侵入を拒み、女子どもを掻き抱いた。
あたりは瞬く間に甲高い断絶魔に支配された。穏やかな昔の情景など一つとしてない、血と肉の饗宴。
からがらに、イシュバールの暴動兵を鎮圧し、饗宴会場から去っていく軍。
それすらも認識できないほど、外形しか留めていない牢獄を前にした男は絶望の淵にいた。
幾度、叫んでも。どれ程、土を掘り返そうとも。何一つ。肉の欠片も、骨の粉も、男の下には帰って来ることはなかった。
男は憎しみを募らせた。
何故愛する妻やわが子を奪われなくてはいけなかったのか。
なぜ、自分たちの平穏が崩されたのだと。
貴様ら軍に、奪う権利が何処にあるのだと。
軍は人殺しの集団。国がそれを認めているのだ。ならば自分とて、奪ってもいいはずだ。奴らの大事なものを。命を。
男は自分の中に、正義を見出した。
例えば、それが人道から背いた間違いであったとしても、構わなかった。失うものなど、最早一つとしてない身だったから。
だから、その手に銃を取った。
長く続く内乱に、何度も諦めればいいのにと、褐色肌と赤い瞳の民族を思ったことがある。そうすれば、自分たちだってくだらない犠牲を払わずにすむと。
それは間違いだったのだと識る。
彼の民族は正しい。
奪われ憤り、闘うこと。それらは、決して愚かな行為ではない。
愛するなにかを、大切なにかを、奪われること。それによりどれ程の絶望を、憎しみを抱くかも知らずにいた。
それこそが愚かしいというのに。
誰だって大切なにかを護るために闘う。
男が銃を持ち護ったものは、今はいない者たちへの愛情だった。
この憎しみだけが、その証だった。
「誰だ」
眼鏡を掛けた男が鋭い眼光で奥の車両を睨んでいる。
自分に軍人だと云った二人が視界を塞いでおり見えないが、その先にいるのは、あいつだとわかる。
あの一瞬だけ見えた、軍人なのだと。そして、その軍人は、自分との約束を、果たそうとしてくれている。
中央発1947便を占拠して、一般車両から二度目の定時連絡が入らなくなりバルドと共に訝しんでいた時、一匹のネズミを見つけた。
そのネズミが機関室から上がってきたことで、其処は開放されたことが分かった。同時に、一般車両も開放された可能性が高くなった。
此処が、最後の砦なのだと、男は理解した。
男の願いはただ一つだった。
幾年も前に、ただ一度見た。けれど忘れたことのない、すべてを奪い去ったあの男の顔。
本名を記載しても、護衛を二人つけただけで、崩されるものなど一つもないと呑気に思っている男、ハクロに破滅を与えること。それだけだった。それが叶うならば、ほかはどうでもよかった。自分の命でさえも。
仲間がネズミと攻防を繰りたてている間も、男はハクロを見ていた。乗り込んできたとき、壁に銃痕で身体を象ってやれば、ハクロはそのまま意識を飛ばしてしまった。それでも軍人なのかと、男は怒りで目の前で真っ赤になったのはつい先程のこと。
殺したい。出来るならば、この男の妻や子どもを目の前で切り刻んでやりたい。
男自身が味わったあの思いをハクロにも、と。
そんな思考を不意に破られたのは、仲間の叫び声。
「ただのネズミじゃないぞっ。錬金術師だっ」
屋根から車両内に落とされた仲間はそう云った。
テログループの仲間たちがリーダーであるバルドに支持を仰ごうとした瞬間、壁から青白い光が走った。その光が止んだとき、壁からはラッパのような代物が出来上がっていた。
『テログループ東方地開放義団に告ぐ。一般車両はすべて開放した』
そこから響いたのはアルト調の声。緊張感溢れるこの場には、相応しくないものだ。
『残るはこの車両だけなんだが、大人しく投降しないか』
「こちらには、ハクロ将軍がいる。こいつがいる限り軍は手を出せまい」
続けられた言葉に、バルドは壁に出来た物体を仇のように睨みつける。
眼に不穏なものを宿らせながら、口元を吊り上げ、どこか誇らしいげに云うバルド。
それを横目に、男は思う。
東方司令部の現司令官の地位は中佐。そしてハクロの地位は少将。階級が下である現司令官、ロイ・マスタングは確かに不用意に軍を動かし強硬手段には出られない。部下には、上官を護る義務が生じるために。
けれど、動けないのは東方地開放義団とて同じだ。ハクロは大事な取引材料。殺すわけにはいかない。司令部に電話を繋いで脅すように悲鳴を聞かせるのもいいが、出血多量により死なれて困る。
作戦では、東の運用河の橋の上で列車を停めて逃亡するはずだった。だがその要の機関室は開放され、多数の人質と列車の支配権はこちらから離れた。
作戦は成り立たない。
逃げることも叶わない。
いくら足掻こうとも、これ以上は打つ手はない。あとは軍に捕らえられるだけなのだと、男は悟っていた。
そして、男はそれでも構わなかった。
始めから男の目的は東方地開放義団とは別にあったのだから。
『残念。交渉決裂だな。穏便に済ませたかったのに』
言葉とは裏腹に愉しそうな声。それが聞こえなくなる前に、視界は光に覆われた。
今度はなんだと、車両内には緊張が走る。
光が晴れて、視界に飛び込んできたのは、大きなパイプ管だった。
余りにも場違いに思える可笑しなディティールのそれに、仲間たちは一瞬眉根を寄せて銃を下ろしたが、バルドはパイプ管の意図に気付いたのか、声を張り上げる。
「馬鹿やろうっ」
バルドの叱責に慌てる仲間たちとは裏腹に男は、これですべてが終わるのだと、瞳を閉じた。
どんな過程であっても、アルト調の声の主がこの列車に乗り込んだ事実で、結末は決まっていたのだ。
だから男は嘲笑う。
すべてが、無駄な足掻きだと。
始めから、自分が仕組んだ、失敗する計画だったのだと。
バルドの叱責が終わるか終わらないかの境、轟音が聞こえた。次の瞬間に感じたのは冷たい衝撃。その流れのまま、押しやられ、扉に強かに打ちつけられた。掛かる圧力に、背にあるものはミシミシと嫌な悲鳴を上げている。
扉は重みに屈して決壊する。押さえるものが無くなった男とテログループの何人かは、勢いのまま外に投げ出された。
「げほっ、はっ…ごほっ」
身体が受けた衝撃は強く、とてもではないが早々に立ち上がることなど不可能だった。
蹲った身体の上から、なにか声が聞こえた。だが男には、なにを云ってるのかまでは分からない。
痛みを耐えながら瞼を開けて映し出した世界は暗い影の中から。二人の男の脚の隙間からは、倒れたバルドの姿と、金色の姿。よく見えないが、その姿に確信を覚えた。軍人嫌いの自分が唯一信用できた、女軍人なのだと。
さぁ、あと一演技をしなくてはいけない。あの女と自分を結ぶ点を残すわけにはいかない。慎重に事を進めてきたが、もしもということがある。必要ならば、この命も遺すわけにはいかない。例え、この命が消えたとしても、男の胸の内の願いは、彼女が叶えるのだと、信じている。
偽りの仲間から、引き抜いたナイフ。刃には生々しい紅がこびりついている。それを、強くつよく握る。まるで決意を固めるように。
男は深い思いを立ちはだかる軍人に吐き出し、殺意を凶器と共に突き出した。けれどナイフが届く前に、男の身体は光に包まれた。先程から何度も見た練成反応。固い感触に、拘束されたのだと識る。
「なんで…」
呆然と呟いた男の目には、金色の女の笑みが映っていた。
足音を立てずに近づいてくる姿に、ヒューズの背中に冷や汗が流れる。威圧感があるわけではない。だが何者かがはっきりしない、凄腕の錬金術師に畏怖の感情が沸き上がる。
自分の一回り近く、年が離れているだろうこの少女に。
「誰だ」
堪らず再び問いかけるヒューズの声に、傍近くまで来た少女は笑う。
「怪しい奴じゃないんだけどな。そんなに警戒しないでほしい」
年の割には、落ち着いた雰囲気。それでも、微かに潜む気安い雰囲気にヒューズは眉を寄せる。
「お前、本当にだれ?」
少女への感情を彼女自身に払拭され、ヒューズは隠しようにもないほどに戸惑いを露にした。
あれだけの能力を見せ付けたくせに、畏怖を象徴するようなものはなにもない。まるで狐につままれた気分だ。
ハボックはそんな自分を憐れがるように、種明かしをした。
「その人、オレの上司です。
エドワード・エルリック。階級は准将。因みに年齢は十代じゃないですよ」
「…え?…はぁああああっっ!?」
ハボックから聞かされた衝撃の事実に、ヒューズは眼を大きく見開き、素っ頓狂な声を大きく上げる。
十代じゃない?なら一桁か?いやいや、いくらなんでもそれは有り得ない。一番無難で二十代。それでも問題だろう。なんなんだ、その顔は。童顔というよりも幼顔じゃねえか。一種の犯罪じゃないのか。
渦巻く思考にヒューズは顔が引き攣るのを止められない。
自分の親友も童顔だが、それをも上回る彼女の若作りに、錬金術師はやはり万国ビックリショーを作り上げるのに相応しい奴らだと、ヒューズの中に刻み込まれた。
無理やりにでも納得して、この現実から逃げたい、というのがヒューズの本音だった。
「おおい、現実戻ってこーい」
お茶らけた声と共に、正気が飛んでいっていたヒューズの頭部に重々しい衝撃が落ちた。
広がっていくあまりの痛みに頭を抱える。
なんだ、なんなんだと、ヒューズは泣きたくなった。さっきから自分は人生稀に思えるほど振り回されてはいないだろうか。そう思えば、痛みと情けなさに肩が落ちて項垂れてしまう。
ぽんぽんと肩を叩かれ振り向けば、やはりというか、ハボックが憐れなものを見る眼で自分を見ている。どうやら慰めてくれているらしい。
じんわりと、胸が温かくなる。けれどそれは、一瞬のうちに凍りついた。
「なに?俺は十代に見えて。ようはガキだと云いたいわけか。お前らは」
穏やかな声。だが、違うものを感じて、恐る恐る顔をヒューズとハボックは上げる。目の前では至極綺麗な笑顔を惜しみなく振りまく上官の姿。その背後ではブリザードが吹き荒れている。
どうやらエドワード・エルリックは自分の年齢を下に見られることを嫌うらしい。
そして、いま、ヒューズとハボックは、極寒の地と化した列車内で、ザーという血の気を引く音を聞いていた。
はは、と乾いた声だけが男二人の咽喉にせりあがってくる。
なんと云えば、この冷たい空間から抜け出せるのだろうと、眼鏡を押し上げ、隣の男を盗み見る。だがなんら、解決方法がないらしく、ハボックの額には冷や汗が滲んでいる。
万事休す。打つ手なし。
「まあ、それは置いといてやるから、二人ともテログループのやつら連れてきてくれるか?」
一瞬のうちに消え去った冷気にヒューズはなにを云われたのか分からなかった。だが、腐っても軍人、上官に二度も同じ命令を言わせることはしない。
「ああ。そうだな。そのままにしておくわけにはいかないしな」
解ったとヒューズは頷く。そのあとで、今目の前にいるのは上官だということを思い出し、敬礼をしなおした。
それに上官は苦笑を返し、早く行って来いと、手で払われた。そのままハボックを促し、踵を返そうとするが、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「どうした」
「…いえ、なんでもないです」
明らかに不満げな顔をしながらハボックは問いかけをかわす。
云いたくないこともあるだろうと思い、ヒューズはとにかく上官の命令に従うべく不満顔の男を伴い踵をかえした。
「今度はなにを企んでいるんだか」
微かな空気の振動は、消え去る前に、小さな音となりヒューズの耳に入る。
苦く溜息を吐くハボックはそのことに気付くことなく、本日何度目かになるかも分からない苦く重い溜息を、一般車両の扉をくぐる際に吐き出した。
「さて、死ねると思ったか?」
去っていく二人の軍人に向けられていた視線が、自分に宛がわれるのを男は感じた。
聞こえてくるアルトの声は穏やかなもので、少し以外に思う。
鉄に身体を拘束されたまま、男は顔を上げる。
目の前に立つ彼女は、笑みを浮かべてはいないが怒っているわけでもない。無表情でもない。達観したものを思わせながら、そこにいた。
彼女は、自身の身内を傷つけることを赦さない。
だから軍人と名乗った二人のうち、黒髪ではなく彼女の部下である金髪の男に殺意を向けた。そうすれば殺してくれると思った。終わらせてくれると思った。最早色すら失った、この世界を。
彼女の手で。
けれど彼女は男に死を与えてはくれなかった。寧ろあの状態では、あの軍人たちから命を護られたとも云える。
「死なせると、思ったか?」
先程とは違う意味合いで再び問われたとき、気がついた。
その声は、慈しみが織り交ぜたものであるということに。
「クリス・リッチレイン」
終わりが欲しいならくれてやろうか。
彼女が静かに落とした言葉の意味を理解したとき、男の頬に伝うものがあった。
それは、冷たかったのか、温かかったのか。
一体なにを思って眦から零したのか。
何一つとして分からないまま、男は瞳を閉じた。それはまるで世界が閉じていくような感覚だった。
そうして、暗闇のなかで、乞い待った。
クリス・リッチレインの世界の終わりを。
「いつまで不機嫌面してんだよ、ハボック」
「別にしてませんよ」
「そんなに彼女が気になるなら、様子見にいてもいいぞ?心配はないと思うけどな、あの強さじゃ」
「オレが気にしているのは、そういうことじゃないですよ。大体あの人は、そんなにつよくなんて、ないんだから」
気がかりなのは、彼女が自分たちを見送ったときの笑み。
なにかを隠しているときのものだった。
精神的に弱い彼女が、それに耐えられるのかが、心配なのだ。
けれど、彼女の秘密は、秘密のまま。
それが、彼女の下にいる者たちに科せられた、暗黙のルール。
暗黙のルールは、絶対のルール。
一等車両に戻ったとき、彼女の服は紅が染み付き、テロリストの一人が消えていた。紅の水溜りを残して。
back/top/next