東方地開放義団と云えば、今東部を騒がせている過激派のテログループ。
作戦が失敗すれば将軍だけでもと、列車を暴走させ自爆行為を行う可能性があった。例え、何百人が泣く結果を迎えようとも、彼らは躊躇しない。いっそ天晴れだと云いたい程の彼等の歪んだ正義感、使命感。だから、将軍よりも先に機関室を最優先に解放させる必要があった。
「それは分かっているんだけど。上から、ってのがな」
下から車両を渡って行くと、どうしても先にテログループの要所となっている一等車両を押さえることになってしまう。それを避けようと思えば、残される道はただ一つ。風の通りがキツイ屋根を歩いていくこと。
そのためエドワードの現在位置は列車の屋根となっていた。
「そういや、昔もあったよな。こういうの」
懐かしむように、けれどどこか悲しげに呟いた。小さな音は轟音に掻き消され、言葉を発したエドワードの耳にすら届かず散っていく。
湧き上がる懐かしさや悲しみに瞳を伏せれば、思い起こすものがある。
赤い衣を纏い、銀色の戒めを肌身離さず持っていた幼い自分の姿。
何が正しいのかも分からないまま、それでもけれどと願っていた、愚かしい過去の。
その悲願は間違いなのだと本当は識っていながら。何も知らずにいたときの。
そんな自分の傍にいつだって居てくれた。今は遠く離れている大切な。たいせつな―――。
エドワードは呑まれそうな思考の闇の中、嘲笑めいた溜息を洩らす。そして、懐かしい姿を打ち消すように頭を振る。
ゆっくりと少しだけ瞳を持ち上げれば、あの頃よりも色素の薄れた金糸が、風に弄られ視界に入る。長い髪を両手ですべて囲い込んで頭のトップで結い上げた。
エドワードのその姿は戦いに身を置くことを決意するためのものだった。逃げ道を自分で崩す、云わば儀式のような、そんな意味合いを含んだ行動だった。
もう一度瞳を閉じて、今すべきことは何だと、自問する。今考えるべきことは、過去のことではないはずだと。
「やるべきことは、制圧。乗客に安全を与えること」
間もなく出てきた答えを言い聞かせ、意識を過去から現在に呼び戻す。
下らぬ感傷など捨ててしまえ。
どうせ何をどう思っても、あの時に戻れるわけではないのだから。
エドワードは心のうち、本心とは程遠い思いを抱きながら、足を一歩踏み出した。事件を解決に導くために。そして、ある人物との約束を果たすために。
それにしてもと溜息をひとつ。
「風が強いから屋根の上は嫌なんだよな」
そんな言葉を必ず零す辺り、やはり自分は相変わらずだとエドワードは少し笑った。
「中佐。ハクロ将軍の名前ありましたよ」
そう云って、黒縁の眼鏡を掛けた小柄な男は打ち上げたばかりの乗客名簿を面前に差し出した。
まだインクの乾ききらないそれをロイは受け取る。
紙に埋め尽くされた文字を目線でなぞっていくと、確かに件の名前があった。
ロイは綺麗な形の眉を寄せて溜息を吐く。
「確かにあるな」
きっちりと本名が。
やはり馬鹿な限りだ。
軍の上層部。名ばかりの将軍たちの多くは最早銃も握れない年寄りが大半。
そんな連中にも関わらず、安全のために偽名を名乗ることを多くが嫌う。理由は威厳が堕ちるだの、逃げるようで軍のプライド(本当は無くても、在っても意味のないほどの小さな自分のプライドだろう)が傷つくからという考えがあるから。
そんなことを考えるのは、自分の安全を十分に確保できるようになってからにしろ。
面倒ごとは、いい迷惑だ。
ロイは胸のうち渦巻く罵倒を口にすることなく、ほかの乗客の確認をしていく。
見覚えのあるひとつの名前が漆黒の瞳に映り、ロイは微かに目を見開いた。
すぐ近くで情報の整理をしていたホークアイがその様子に気付く。
「中佐?」
訝しむように片目を眇め、首を傾げて自分を呼ぶ副官。口の端が持ちあがり、ロイが返したのは言葉ではなく、なんとも嫌な笑顔。
「諸君、喜びたまえ。思ったよりも早く解決できそうだ。
マース・ヒューズ中佐が乗っている」
顎に髭を生やし、黒い髪はオールバック。眼鏡に隠された鋭い黒瞳に極め付けが微妙な服のセンス。
一見、堅気かどうか疑わしき人物が一人、車両と車両の渡り部分で壁に身を任せ、頭を悩ませていた。
「どうするかな。先に頭を潰して、胴体を潰すか」
男の答えなど決まりきってはいるのだが、その先にいる人物に会うのが嫌だ。
さすがにこの状況の中で、常日頃繰り返される厭味の連発はないだろうが、それでもやはり嫌だ。その人物は東方を治める男を親友に持つ自分に何かと厭味を吐く。それが自分の価値を下げることになるとも知らぬまま。
「確かに会うのは嫌なんだが、あいつの評判を落とすわけにもいかんしな。上手くいけば将軍に貸しも作れる」
諦めの思いを抱いて男は青い空を仰いだ。
太陽の光にまぶしそうに眼鏡の奥の黒い瞳を細める。
纏まった休暇が取れ、愛する妻子すら中央に置いて久しぶりの親友に会いに来たというのに、何故こんな物騒な事態に巻き込まれなくてはいけないのか。
きっと東方司令部にいるあの男は、自分の名前を見つけるなり仕事が減ることを確信して喜んでいるのだ。
こっちはその男の評価を下げないように、事件を鎮めようとしているのに。
「ま、文句はあいつにぶつけることにして、さっさとやるか」
眼鏡を押し上げ、男は壁から身を離す。
そのとき背後に人の気配を感じ、脊椎に緊張が走り抜けた。腕に固定していた小振りのナイフをしっかりと掌に落としこみはしても臨戦態勢も整わないまま、咄嗟に振り向こうとする。だが相手のほうが早く後頭部に固い感触があたる。恐らくは銃口。
「なにをさっさとやるんだ?」
低い声、どうやら相手は男。声を発する位置からもかなりの長身ということが窺える。
テロリストに気付かれたか。
眼鏡を掛けた男は気配の鋭敏さを自負している。いかに思考の中にいても、さして深く沈んでいるわけでもないのに、気付けないなど有り得ない。
よって、背後で自分に銃を向けるのはただのテロリストではない。
恐らく元軍人か、現役の軍人か。
出来れば後者を望みたいが、テロリストのお仲間であれば勘弁願いたい。
背後を取られたままでは、早々に攻撃をすべきではない。背後の男の一挙一動に神経をすり減らしながら、男は投げつけられた命令通り両手を挙げる。一応殺意は向けられていないが、安心など出来ない。愛する妻子も、親友のことも、残して逝くわけにはいかない。眼鏡の奥、鋭い眼光を宿しながら男は様子を窺うことにした。
乗車していた一般車両から後ろを制圧し、恐らく前方で暴れているだろうエドワードを想い、まだ開放できていない前の車両へとハボックは急ぐ。
最後尾の車両から元居た車両に戻ってきたハボックに乗客たちは安堵の息を洩らした。良かった。そんな声が聞こえた。微かな声で男か女かも分からない。けれどその言葉の意味は分かる。
―――良かった。(まだ生きている。失敗はしていない)
エドワードは云った。普通の人間なんだ。戦う意味も、方法も知らない。だから責めることは出来ない。する必要も無い。価値も無い。
彼女のように考えられない自分は、普通の人間とやらに云いたいことがいろいろある。けれど、彼女の悪い噂が立つようなことは避けなくてはいけない。これから行く土地は彼女にとっては、未曾有とはいかなくても、暫くは背も右も左も、預けることの出来ない場所になるかもしれないから。(もちろん自分は背を護るけれど)
そして何よりも軍部がそうであるから。
だから、彼女の味方になるだろう民衆の不快感を部下である自分が買ってはいけない。
ハボックは己の中で渦巻く不快感に歯を噛み締める。
振り切るように、前方の扉に差し掛かったとき、その向こう、人間の気配がした。
テロリストかと、内心舌打つ気分だ。
日々、どんな状況下でも気配を消すことを常としている自分を相手は気付いていないはず。
ならば先手必勝。
こちらは早く上司である彼女の元に行きたいのだ。
問答無用で眠ってもらう。
ハボックは左手で扉の取っ手に手を掛け、右手に銃を構えた。
「――ってことにして、さっさとやるか」
扉の向こう側から話し声が聞こえる。
拾える声と、察知できる気配はただ一つ。
それでも、仲間が居るのかとの疑念をハボックは否めなかった、だがすでに扉は心持でも確かに開いた後。ここで退く訳にはいかない。ハボックの気配はあちらにも気付かれたはず。
コンマにも満たない逡巡の後に勢いよく開けば、案の定、目の前の男は焦るように振り向こうとしている。
黒髪の後頭部に押し当てた銃口で先手を打ち、男の行動を止まらせる。
「何をさっさとやるんだ?」
背後から男を見据える。
黒いオールバックらしき髪型に耳に掛かる眼鏡。借金取りかと思わせるような妙なセンスの服の組み合わせ。
ハボックは既視感を覚えた。
何処かで。自分はこれを見たことがないか。
そうして脳裏に浮かんだのは、以前直属の上司だった男。そして、その隣で支える親ばかの男。けれど愛妻家と加え子煩悩な彼は中央勤務だ。
それでも。まさか、もしかして。そんな思いのなか、銃口の狙いは逸らさずに。ハボックは引き金に指を掛ける。
「ヒューズ中佐?」
表立った変化はなかったが、それでも一瞬男が纏う気配が揺れたのを確かに感じた。
「有名人だね。俺も」
軽い口調で肯定をしているがどうやらまだこちらの正体には気付いていないらしい。ヒューズは警戒を怠らずハボックの出方を窺っている。
ハボックは入隊後の一年、エドワードの下にはいなかった。その一年は違う上官の下で過ごした。当時の上官の親友がマース・ヒューズ中佐。そのときからの付き合いで、彼の人となりはよく知っている。それゆえの信頼に銃を下ろし、こちらを向くように云う。
急回転の事態に恐らく目の前の男は混乱しているだろう。だがハボックはそれには構っていられない。
どうせ制圧のために動こうとしているのだ。ヒューズにも一役を買ってもらう。
ゆっくりと、両手を上げながら振り向く姿。
慎重なその動作がどこか可笑しい。
「お、おまっ…」
互いの顔を目に映し出したとき、相手は呆然と目を見開き、幽霊を見るような顔をした。
「お久しぶりです。取り合えずその物騒なものを下ろして頂けませんかね」
「あ、ああ」
ヒューズはまだ呆然としながら、ハボックの云った物騒なナイフを手にしたまま腕を下ろす。
そんなに驚くことないだろうに。ハボックは男の様子に苦笑してしまう。
けれど今は。
「話はあとで。今は制圧を」
「ああ。後ろは終わったのか?」
ハボックの背後の車両に向ける眼は軍人のもの。
軍に身を置き、いくつもの窮地を掻い潜ったヒューズは状況判断が早い。
「はい。前の車両は中佐が?」
頷く姿を見て、じゃあ後はとハボックは口にする。
「一等車両と機関室ですね。そっちはもう一人が行ってます」
「もうひとり?」
ほんの少し渋面を作る男は、たった一人で大丈夫なのか言外に聞いてくる。
「あの人一人で駄目なら、東方司令部の誰であろうと、この事件は解決できませんよ」
説得するように言葉を区切りながら云ってハボックは、にやりと笑った。
その言葉は、ヒューズの親友である、焔を操るあの男でも無理だと云ったものだった。
「そうか」
微かな渋面を、呆気に取られたような表情に変え、そしてヒューズは笑った。
警戒をしながらハボックとヒューズは一等車両の扉に詰め寄る。
壁に背を付け、互いに銃やナイフを手にし、構える。
硬く閉じられた扉の向こう、様子を窺うため気配を探ろうとした瞬間、二人の耳には爆音が届いた。
その音にハボックとは違い、ヒューズは最悪の事態を想像したのだろう。顔が強張っている。
「おい、本当にだいじょ…」
頑丈なはずの扉は、膨大な水量の圧力に耐え切れず粉砕した。
そこから噴出してくる勢いある水は、心配になり堪らず問いかけたヒューズの言葉を遮り、そのままハボックとヒューズの身体を濡らした。
常識外れな現実に、目を白黒させるヒューズを横目にハボックにはここまでの過程が容易に解った。
やはりあの人を一人にするんじゃなかったと、心中では止めどなく湧き上がる乾いた笑いと後悔でいっぱいだ。
そんな中、二人は気配を感じ視線を落とす。そこにはどうやら流しだされたらしき大きな物体が三つ。男。しかも武装している。現状況ではどう考えても男たちはテロリストということになる。
ハボックとヒューズは顔を見合わせ、再び武器を構える。
「大人しくしてもらおうか」
相当な衝撃を受けたのだろう、微かに呻きながらまだ地に伏せる男たちに、二人は影を作るように立ちはだかった。
声に反応したのか恐々と倒れた身を起こす男たちは、向けられたナイフと銃に青ざめる。
その様子に簡単に終わるかもしれないと、ハボックは追い討ちを掛けた。
「後ろの車両はすべて開放した。残るはお前たちだけだ」
諦めろと厳格に言い放つ。床に膝を着いたままの濡れ鼠たちはそんなハボックを睨み付ける。
「あいつといい、お前らといい。何者だ」
憎々しげに搾り出した声は震えている。
それが怯えのためでないのは、男たちの眼を見ていればよく分かる。そこに宿る光は決して弱いものではない。射殺そうとするものだ。
「お前たちが嫌う軍人だよ」
ヒューズは冷ややかな眼を向けながら云った。
男たちの憎悪は増して、瞳には更に強い力が宿る。
その様に、ハボックとヒューズは眼を細め、やはり諦めないかと心のうちで溜息を落とした。
仲間はもう捕獲され、目前には軍人。向けたナイフと銃で蒼白した表情に、最後の逃げ道を潰せば楽に終わるかと思ったが、やはり無理だったらしい。
元より軍に対して不満があるのだ。命を軽んじるこの男たちは、自身の命だって同等にしか思っていない。
だから、心情そのままに、劣勢でも男たちは声を上げて軍人の二人に襲い来る。
ヒューズは一人の足をナイフで深々と突き刺す。
ハボックは一人のこめかみを銃床で強打し昏倒させる。
もう一人はと、二人の軍人の眼が一点に集まる。
其処にただ独り構える男の手には、紅く光るナイフが一つ。
眼鏡越し視線だけを横に少しずらして見遣れば、男が血を流す右大腿を押さえ身体を丸くするように蹲っている。そこには、自分が刺したナイフはなかった。
止血の役目を果たしていたナイフを抜いたのか。
ナイフを片手に構えていた男は、身体の重心を低くする。慣れた所作ではあったが、少し隙が見える。自己流だということが分かる。
「お前たちがいるから憎しみが減らない。悲しみが募る。
お前たち軍人がいなければ、あいつらは死なずにすんだっ」
男は地を蹴り、その勢いのままナイフを突き出す。突き出した先はハボック。
だが切っ先は標的に届くことなく、男の切なる叫びは乾いた音と青白い光に掻き消された。
鉄柵が変化し、男の身体にぐるぐる巻きついて自由を拘束する。
ほかのテロリストも同様だった。
錬金術。
ヒューズとハボックにとって、それは親しいものが操れるため見慣れたものだった。
それ術が、どれ程の脅威を秘めているかも知っている。
一見、ハボックを助けたようにも見えて、味方のようにも思える。けれど、姿は見えず、気配もない。
信用するわけにはいかないと、ヒューズは周囲に警戒を強めた。
そんな男の肩を叩いて、ハボックは背にしている一等車両を指す。
そうして、二人が眼にしたのは一人の女性と床にうつ伏せた男の姿。
女性はこちらに向かい歩んでくる。
「もう一人ってのが、彼女です」
隣に立つハボックに視線を戻せば、苦笑している。
「錬金術も彼女の仕業です。もう一つ云うなら、扉を壊したのもあの人です」
「錬金術、し」
少しずつ陽により明らかになる彼女の容貌。
十六、七にしか見えないほど彼女は幼げな顔立ちをしていた。女性というよりも少女のほうがぴったりとするとヒューズは思う。
錬金術について、よくは知らない。だが、少女が行ったのは遠距離練成に当たるこることだった。
国家資格を持つ親友ですら、遠距離練成は最近になって漸くできたという。
それほど高度な技を彼女が為した。
少女は足音を立てずにいる。
「何者だ」
耳に入る自分の声は情けないほど困惑していることを隠していない。それにヒューズは顔を顰めた。
そういえば、ハボックは少女とどういう関係なのだろうか。
敬語を使っていたことから、偉いさんの令嬢だろうか。いや、ありえない。そんな人物をわざわざ危険な場所に行かせるわけがない。大体彼女は足音を立てないし、完璧なまでに気配を殺す術まで持っている。何よりも、ハボックの云っていた『彼女で敵わないなら誰も敵わない』の言葉。
一般人なわけがない。
「誰だ」
近づいてきた少女に。
隣でいまだ苦笑している男に。
ヒューズは低く問いかけた。
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