「なにしているの?」
闇に落ち、静まり返った廊下に響いたのは、地を這うような低く冷たい声だった。
姿は見えない。気配もない。けれど声の主も立ち位置にも心当たりがあり、ディーノは足を止めなかった。
窓はなにかあったときのためにと付けるか付けないかで随分討論があったらしいが結局は付けたらしく、そこから月明かりがさらさらと流れ込んでくる。お陰で歩を進める毎に、腕の中に気持ち良さそうに眠るボンゴレ十代目ボスの部屋の前に立つ男の姿が露になる。
その男は普段よりも冷たい空気を纏いながら射殺しそうな眼光で此方を見る。
「よう、恭弥。久し振りだな」
「どうでもいいから、あんたが抱えてるその子を返してくれない?」
「おいおい、そりゃねーだろ。せっかく此処まで送ってきたのに」
「ご苦労様、もういいよ。あんたは邪魔だ。その子を返して」
迷いなく静かに持ち上げられた雲雀の手には銃がある。銃口の先にサイレンサーが取り付けられているのは、眠りに就く綱吉のためだろう。
けれど。
「んなもんぶっ放せば綱吉が起きちまうぜ?」
消音器、と銘打たれてはいるが完全に音が殺されるわけではない。鋭く空気が抜けるような微かな銃声は必ずこの空間に響く。きっといつもより深い眠りに落ちている綱吉でも起きないと言う保障はない。
けれど目の前に居るのは雲雀恭弥。この男が要求を口にし、尚且つ銃や愛器を手にしたとなればそれは警告。決して生温い脅迫ではない。 恐らくは形だけの気遣いにディーノは呆れて溜息をつく。
「別に構わない。というよりも、寧ろ起こしたいんだよね。勝手に護衛を僕から小娘に変えて、漸く帰ってきたと思ったらどこぞの男の腕の中で警戒心の欠片もなく眠りに就いているんだから。少々、どころではなく大いに腹立たしい。そろそろ綱吉は躾直した方がいいかもしれない」
言い終わるよりも早く、押し殺された銃声が廊下に響く。
腕に抱えた身体で見えないが、弾丸はディーノの爪先ぎりぎりの床に減り込んだ。
「上手くなったな」
賛辞は、本音。
雲雀はディーノを傷付けることに躊躇いはしない。けれど、綱吉を抱きかかえているこの状態では恐らく発砲することはない。雲雀は綱吉に対してだけ、傷つけるということを極端に恐れる。
けれどそれは自惚れであったのだと、たった一発の銃声に真実を突きつけられた。
眠った者を、寧ろ起こしたいと言った雲雀は発砲することに躊躇わない。綱吉は傷つけないと決めている彼だが、ディーノならばいくらでも傷つける。つい先程弾丸が減り込んだのは爪先ぎりぎり。微かに角度が上昇した銃口は、確かに革靴に隠されたディーノの外指を捉えている。腕に重石を抱えたままでは逃げられないし、逃げたとしても雲雀程の腕なら容易くそれを追い狙いは外さない。
「ホントに恐ろしい奴だな」
「さっさと返さなきゃホントに撃つよ」
カチャリと業と音を立てたのは撃鉄。後は雲雀が引き金を引くだけでいい。
「ああもう、わかったよ。ツナと敵同士になるなんて冗談じゃねーからな」
ボンゴレの敷地内でキャッバローネのボスである自分が血を流したとなれば抗争は避けられない。如何に相手が世界屈指のファミリーであったとしても、キャッバローネにも保たれるべき体裁が存在する。目の前にどれ程歴然とした力の差があったとしてもディーノの部下は決して引き下がらないだろう。受けた屈辱は命を張ってでも返すのがマフィアだ。
そして目の前でうっそりと嗤う男は、これ幸いと反撃と抵抗の余力も残さないようにキャッバローネを完全に殲滅し、自分を殺すのだろう。今や雲雀にはそれだけの力があった。冗談ではなく、今のこの男なら殺せない人物も、潰せないファミリーもないのではないかと思う。例え相手がアルコバレーノと称えられた昔の家庭教師であっても、ディーノの中でその予感が覆されることはなかった。
「僕は大歓迎だ。命乞いをするぐらい痛めつけて噛み殺してあげるよ、跳ね馬。綱吉が馬鹿みたいに懐く君は邪魔だ」
「もう少し寛容になったほうがいいぜ?ツナはマフィアのボスにしては珍しいタイプだから色んな所から人気がある」
そう言ったのは、異常なほどの独占欲か所有欲か、兎に角判断の付かない綱吉への執着心を少しも隠そうとしない雲雀に、抑えることを覚えさせるためだった。流石の雲雀でも会う者全てに銃を向けることはないと、そう思ってのことだった。
それが尚更獰猛な肉食獣を煽ることになるとはディーノも思ってもいなかった。
「ふーん。是非、どこの奴らからの人気なのか教えて欲しいね」
ズンと一層重力が増したような殺気に、ディーノは息を詰め、腕の中で眠る綱吉は眉を顰め苦しそうに身動ぎする。随分深淵に眠り落ちているのか、先程の銃声は勿論、雲雀の重い殺気でさえも眼を覚ましはしない。余程この腕の中が居心地いいのか、安心できるのか。それを思い立ったディーノは内心肝が冷えていく。雲雀がそれに気付いていないわけがない。もしかしたら殺気はそれを含めたものなのかもしれない。
だとしても、狭量すぎるだろうと呆れと感心の溜息がディーノの咽喉を突く。
「知ってどうすんだ。また、潰すのか」
いつの間にか側近くまで寄っていた雲雀が腕の中から柔らかな温もりを奪って行く。ゆっくりと冷めていく綱吉の熱に、ディーノは胸がキリッと締め付けられるような寂しさを覚える。
雲雀は漸く腕に戻った綱吉に優しげに微笑む。けれど、その漆黒の双眸にディーノは背筋がぞわぞわと震えた。
人間の狂気など、いろんな種類を目にしてきた。それでも直感的に見えた、目の前のこの男の狂気ほど悍ましいと思ったことはなかった。
「さあ、それは相手次第じゃない?まだ許せる限度なら警告だけでいいし、少々ウザイなら頭だけ潰せばいい。それ以上ならファミリーごと抹消する」
そんな言葉を聞きながら、ディーノの脳裏に描かれたのは、自分が知る綱吉に純粋に心寄せるファミリーのボスの血塗れの姿ではなく。何故か廃墟のように崩れ去ったこのボンゴレの城だった。
だから、だろうか。何の未練もなく背を向けた男に、ディーノは来るべきその日まで言う心算のなかったことを言ってしまった。
「恭弥。あんまりリボーンを舐めないほうがいい。あいつはツナの元に必ず戻る。お前じゃ、ツナは支えられないからな」





真っ暗な場所から不意に力ずくで掬い上げられたような、そんな感じがした。
肌を裂くような空気に、本能が起きろと叫んでいた。それでも自分を護る様に抱きしめてくれる体温に、意識はそれ以上浮上することはなかった。
中途半端なところで浮遊し続けるこの意識。無へと沈むこともなく、けれど現実へと戻るために浮上することもなく。ただ、そこから動かない。
一種の現実逃避のように、今の瞬間が心地好かった。
次第にずっと感じていた体温が離れていった。寂しいと思う前に、先程よりも少し低めの体温を感じた。それはとても、憶えのあるものだった。
鼓膜を震わせる振動はとても優しく、愛おしく思え、心地好かった。だのにどうしてか、悲しくて、その音を聞きたくなかった。
どうせ、これは夢なのだから。そう思えば雫が自分の頬を濡らしていた。
『今日は紅茶でいいかい』
脳裏に甦ったのは、自分の想い人の声。
ずっと、そんな言葉を聞かせてくれていた。十五時きっかりにその日の茶菓子と共に現れて、一時の休憩を与えてくれていた。どんなに忙しくても現れて、自分を机から引き剥がす。彼自身が手間隙掛けて淹れた淡い朱色のお茶を口にすれば、美味しいかいと尋ね、自分が頷けばそれはよかったと微笑みをくれる。
けれど今は、その言葉を、笑みを、甘い一時を、もう自分にくれない。
彼だって、忙しい。そんなことは解っている。わかってはいるけれど。ならば、なぜ、違う人にはその言葉を向けて笑むのか。
『武』
『恭弥』
決して第三者がいるときには口にされない名。二人きりになったときにのみ、彼と彼が口にする真名。
いつからか偶然に知ってしまったその現実に、恐怖した。
自分は、『沢田綱吉』で。でもその前に、世界最大の格式、勢力、規模、伝統を誇るマフィア『ボンゴレの十代目ボス』。敵は勿論、日本から一緒に来てくれた味方にすら、弱音を吐くことも弱みを見せることも赦されない。四六時中、命の危険に晒されて、ファミリーと自分を護るため気づかれないように緊張を保ち続ける。寝るときですら、『ボンゴレの十代目ボス』から逃れられない。
それが、どれ程神経を削ることか。
月に二度のディーノとの会食の他では、想い人である雲雀恭弥と過ごせる時間が、『沢田綱吉』に許された時間だった。弱音を吐くこと、涙を流すこと。『沢田綱吉』が此処に生きているのだと、確認することが許される。
『ボンゴレの十代目ボス』ではない『沢田綱吉』の居場所。
それが、救いだった。
それだけが、『自分』の救いだった。
たった二つだけ。けれど二つだけの救いが、あるときから途絶え、『自分』が何処にいるのかわからなくなった。
誰もが必要とするのは、『ボンゴレの十代目ボス』であって『沢田綱吉』ではない。
誰もの眼に映るのは、『ボンゴレの十代目ボス』であって『沢田綱吉』ではない。
何よりも心許していた人さえ、もう自分を見ない。もう一人は此方から拒絶してしまったから、彼だけだったのに。失ったら、『沢田綱吉』が消えてしまう。
彼が愛してくれた存在が消えてしまう。自分が愛した証が、消えてしまう。
『今回は流石に獄寺じゃなくてよかったぜ』
これは、夢。けれど、目の前に突如現れた自分の側近である二人の男たちの会話は現実にあったもの。虚妄ではない。
『あいつツナの前じゃ嘘は付けねぇし』
彼らはあの時自分が薄く開いた扉の向こうにいたことも知らずにそう言った。あの報告が嘘であったのだと、そう言った。
出来るなら、もう見たくもない現実だ。けれど、夢はそれを繰り返し見せた。
拒絶する術を持ち合わせていなかった綱吉は、ただ静観するしかなかった。瞳からは涙が流れていた。
雲雀恭弥は自分ではない誰かの名を密やかに呼ぶ。
雲雀恭弥は自分でない誰かに笑みを見せる。
雲雀恭弥は自分ではない誰かのために紅茶を淹れる。
その光景は、何よりも愛しく大事なあの人が、『沢田綱吉』は要らないのだと言っているようだった。
『辛いなら笑え、耐えられないなら呼べ。オレが聞いてやる』
そう言ってくれた元家庭教師はあれからもう姿を見せない。
「……リボー、ン」
名を呼んでみたけれど、雲雀にすら拒絶された『沢田綱吉』を、彼に受け止めて欲しいわけではなかった。多分、偽りであっても愛されていた証拠となる『沢田綱吉』を、失いたくなかっただけなのだろう。
溜め込んだ弱さを外に吐き出せば、それを失わずにすむのだと信じていた。けれど、声を立てて笑うことも、息すら忍ばせている自分ではファミリーを相手にそんなことは出来なかった。それでもリボーンなら、出来る。彼にはずっとそうやって接していたから。
せめて、殻の中ででもそれが生きていれば、壊れることなく『ボンゴレの十代目ボス』として生きていく糧となる。
「リ、ボーン」





ひゅっと咽喉が鳴る。痛みが走る。息が出来ない。
綱吉の意識は一気に浮上するも、なにがどうなっているのかわからなかった。
目の前は真っ暗で、何も見えない。ただ、自身の首が絞められているのだとわかった。綱吉は息苦しさに咽喉を締め上げる手へ爪を立てた。がりっと肉を引掻いた感触はあったのに、力は一向に緩む気配を見せず呻く声すら鼓膜を震わせなかった。裸足らしい自身の足は、何かに引っ掛かることなく身体の下に引かれている布を滑った。
何かに縋りたいのに、何にも縋れない。
あまりの息苦しさにヒュッと咽喉が鳴る。それが綱吉の耳に届いた次の瞬間、息をすることすら叶わなくなった。酸素を求める口唇は、何かに塞がれていた。口の中にはよくわからない熱を持ったものが蠢いて気持ちが悪かった。それでも噛み切れなかったのは、そう思う前に荒々しく口腔を掻き回されそんな余裕さえ持てなかったからだ。苦しいと、綱吉は爪を立てる手に更に力を入れる。それでも咽喉を圧迫する力は退かない。口唇も解放されない。
「んう……んんっ」
もう駄目だと。そう思った瞬間、咽喉の圧迫感が消え去り、口唇も解放され綱吉は呼吸を許された。
「げほっ。はっ…げっほ」
上手く呼吸が出来ず、綱吉は何度も噎せ返る。身体は完全に脱力し、指先すら全く動かせない。真っ暗闇の中で、ただ酸素だけを求め首を捩じる。
肩で息をしながらも次第に鮮明になり始めた綱吉の意識は咽喉をまだやんわりと掴む大きな掌の熱を感知した。奇襲を掛けてきた者の姿をこの目に納めるため、閉じたままだった目蓋を緩慢に持ち上げようとしたけれど何故か持ち上がらない。もう少し冷静になり始めたところで、自分に馬乗りしている人間が額から両目蓋をすっぽりと覆い隠しているのだと気付いた。
一体どうなっているのだろうか。
酸素が脳に行き届いていない所為か、綱吉は酷く混乱していた。
これが暗殺なら、時間が掛かる上返り討ちにあう可能性が高い絞殺を何故選んでいるのか。それよりも何故、一思いに殺さず手を緩めているのか。大体何故、暗殺者自らの手で目隠しをするのか。
綱吉にはわからなかった。
兎にも角にも、死ぬわけにはいかないと力の入らない身体を叱咤し腕だけを動かして枕の下にある銃を探せば、嗤う声が聞こえた。
「そんなもの、あるわけないでしょ」
「…ぇ、ひっ、かはっ…」
鼓膜を震わせたのは、間違いなく耳慣れた雲雀恭弥のものだった。けれど綱吉が彼の名を呼ぼうと口を開いた瞬間再び咽喉を締め上げられた。今度は緩々と、苦しめるように手にはそんなに強い力は入っていない。息苦しさも、まだ耐えられるもの。失神することも死ぬこともない。
「ひ、ばっ…ぐっ…」
赦しを請うように彼の名を呼ぶが上手く音にならない。
雲雀は苦しみ喘ぐ口唇を舌でゆっくりと撫で、口端から首筋に溢れ出た唾液を追い口唇を滑らせる。その仕草は愛撫するかのように優しいけれど、綱吉の息苦しさは揺るがない。
ちりっと焼けるような痛みを項近くで感じ、綱吉は身体をびくりと跳ね上げた。
「動くな」
ぴしゃりと叩き付けられた叱責は、雲雀がこれ異常ないほど不機嫌であることを教えていた。
それでも今の今まで寝ていた自分は何が原因で彼がこれほど怒っているのかわからない。それこそ、真実は自分に怒っているわけではなく、どこかで溜めてきた鬱憤を晴らすためこんな酷い真似をしているのではないかと思えた。
そんな考えが頭に過ぎった瞬間、綱吉は無我夢中で雲雀の腕を振り払い、腰をずるずると後退させた。けれど逃げ場などあるはずもなく、背には直ぐ冷たい壁が当たる。
部屋の電気は落とされてはいるが、目を閉じていた綱吉はその暗闇の内情がよく見えた。此処はベッドの上で、皺の数も数えられる。恐る恐るとその視線を上げれば、雲雀は静かに綱吉の咽喉を締めていた手を何度も開閉させている。そのまま怖くなって綱吉は目線を下へと逃がした。
つい先ほどまで感じていた息苦しさに加え、じりじりと足元に絡みつこうとしている恐怖で綱吉の呼吸と鼓動が速くなる。
逃げたいと、思う。
いっそ、誰かを呼んだほうがいいかもしれない。
それぐらいには、綱吉はこの現状を危険視出来ていた。ただ、その逡巡こそが間違いであるのだと、気が付いたときにはもう遅かった。
「ねえ」
地を這うような声ではない。楽しそうな、声でもない。なんの感情も彩られてはいない、音。
「ごめ、ごめっな、なさっ」
「どうして、謝るの。別にいいよ、謝らなくて。綱吉には選択だけを許す」
聞いたこともない彼の声に、綱吉は本能の侭口を開いた。けれど、雲雀はそれを聞き入れはせず綱吉の足首を掴んだ。やんわりと、優しく。途端、何かに当てられたように、華奢な身体ががたがたと震えた。これ以上彼の逆鱗になど触れたくないのに、綱吉の身体は何一つとして言うことを聞かない。
綱吉は恐慌し、頭を振りただ赦しだけを請う。
「おねが、ゆる、しっ…ごめんなさッ、ごめ、な、さっ」
がちがちと寒くもないのに歯が鳴り、背筋には冷たい水がつっと滑り落ちる。
雲雀を怒らせたことは、多くある。怒ったところを見たことも、多くある。けれど、綱吉はこれほど彼が怒ったところを見たことはない。
微かに呼吸困難に成り始めた綱吉の頬に、衝撃が走る。それほど、痛みはなく、加減をされたことがわかる。
赤く腫れ上がるだろうその箇所を、叩いたその手が優しく撫でる。これは多分、自分が雲雀の許容範囲外の行動を取ったことへの罰なのだろう。それを理解すれば口唇が重く感じ、もう赦しを請うことすら出来ず綱吉はただ死刑宣告のように告げられる言葉を戦慄きながら待つしかなかった。
「そう、偉いね。僕は選択だけを許したんだから、綱吉はそれに従わなくちゃね」
何の感情も映し出されてはいない声は、綱吉の直ぐ頭上から落ちてくる。逃がしはしないと言いたげに、綱吉を囲うように雲雀の両腕がゆっくりと壁に付けられる。
「綱吉、顔を上げてごらん。これは、命令」
抑えようとしても、彼の言動の一つ一つにびくりと肩が跳ね、息が詰まる。
できればその要求は拒否したい。今の雲雀を真正面から見れる度胸も勇気も綱吉には全くない。けれど、断ることすら恐ろしい。
「聞こえない?」
逡巡の間さえも赦しはしないと声が告げ、綱吉は操られるようにして顔を強張らせて上げる。
目にした彼は、綱吉の予想とは違う表情をしていた。
「いい子だね、従順な子は好きだよ」
雲雀は、笑っていた。どこか、久し振りに見るものだった。普段の綱吉なら、きっと喜んだ。
けれど、今の綱吉はそれ以上後がないことを知りながら、足は本能のままに逃げようとシーツを滑る。咽喉はもう掴まれていない筈なのに、ひゅっと鳴り、上手く呼吸が出来なかった。溢れ返る涙は目尻から零れ頬を濡らす。綱吉の全身が、目の前にいる男に恐怖を感じ、拒絶していた。
「どうしたの、君らしくもない、泣いたら明日目が赤くなるよ。全く、可笑しな子だね、そんなに怖いなら、最初の段階でじっとしていればよかったのに」
そうすれば、僕だってこんなに怒らなかったのに。そう言って、哂う彼の眼が怖かった。禍々しいとか、険があるとか、そんな言葉では足りない。
綱吉の額に、音も立てず衝撃もなく合わせられた雲雀の額。
ずっとずっと近くなったその恐怖に、綱吉は目を背けたくなるが、身体が動かなかった。指一本、動かせなかった。声が、出なかった。
「さあ、選ばせてあげる」
彼は、優しく微笑む。
「大人しく僕の言うことを聞いて地獄のような痛みと苦しみを味わうか、それとも僕に抗って死んだほうがマシだと思える痛みと苦しみを味わい壊されるのと、どっちがいい?」
その瞳だけは、人間のものではないような色で、哂う。
「…………っ」
「答えないの?選択だけを、許すって言っているんだから答えなきゃ抗っているも同然だ。そんなに壊されたいならお望みどおり、壊してあげる」
「………っ…」
「丁度、躾直さなきゃいけないなって思っていたところだから」
嬉しそうに、愉しそうに、雲雀は哂う。













孤独な王に献上したのは
臣下の歪んだ愛情。












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