昨晩は別山乗越西の小ピークに上がり素晴らしい夕陽を見たから、今朝は反対の別山側のピークに上がり朝陽を待つ。
剱沢を眼下に、そして八ツ峰を眼前に従えた剱岳が目の前だ。
山頂まで直線距離にしてわずかに約3キロ。これは、地元、氷ノ山で例えるならブナの森から氷ノ山ほどの距離に相当する。
その距離にあれだけの高さの岩峰が聳え立っているのだから、この付近の相対的なモノの大きさがどうも歴然とせず、自分がちっぽけに感じるというよりも、逆にこの光景全体が本当は小さいのではないかという錯覚に陥ってしまう。
相当の風が吹き付け、昨晩とは比べ物にならないほど身体は凍えるが、目の前の視界いっぱいに広がる光景に見入る。
昨晩、夕陽を見て宿に帰った際、
「残念ながら剱は赤く焼けませんでした。」
初めてここを訪れた者が言う言葉にしては横柄なもの極まりないものの、それに対してもきちんと応対してくださった小屋の主人、佐伯さんや坂本さんからのアドバイスでは
「朝のほうが焼けやすいんですよ。」
だった。
この言葉を信じ、上がった小ピークで剱沢の遥か上部、別山の稜線の向こう側が次第に赤くなると時を同じくして剱本峰が赤くなるのを待った。
しかし、時間が経過しても思い通りに表情は変わらない。
アドバイスを貰った甲斐なく剱御前東斜面がわずかに色を変えただけで陽が出てしまったが、よく考えなくても、そんなに贅沢を言ってはいけないことくらい承知している。
昨日の夕陽は素晴らしかったし、今日も剱の岩や雪に朝陽の射すところをきちんと見れたんだから。
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大日岳と別山乗越に建つ御前小舎 |
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剱沢と八ツ峰 遠く白馬連峰 |
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大日岳を背景に縦走する登山者 |
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剱沢上部と剱岳 |
テレマークを始めた時、こんなところに足を向けられるとは思ってもみなかったし、また誰が想像しただろう。
だが、今、聖地ともいえるその源頭部に身を置き滑ろうとしているから、まさに夢のような話しだ。
「さ〜、いよいよだ。」
今日は今回の山行のハイライトともいえる剱沢滑降だ。
小屋前で確認する限りでは雪の状態はそう悪くなく、こちらでも何とかなりそうだ。
「ちょっと待った〜っ!」
またまた事件発生。今度はSさんのメガネがない。『メガネ紛失事件』発生だ。
これは、これまでの携行品の事件とは違い身につけるものだから、本人にとってはとても切実な事件だ。
普段の生活でもメガネが手放せないSさん。
今回のようなシーンでは屋内にいるときは色なしメガネを、屋外で活動するときは色付きのメガネをそれぞれかけ替え、基本的に、常にどちらかのメガネをかけているらしい。
メガネは二つでもメガネケースは一つだから、かけ替えた際、ケースには今かけていないほうのメガネが必ずその内に入っていなければいけないのだが、それが無い。
「おっかしいな〜!?」
「靴はどうやって履いたんやろ?」
「あれがないと、何もできひん(できない)はずやのに・・・。」
普段の生活でもメガネが手放せないSさんにすれば、色んな事がメガネなしでどうして出来たのか、不思議なことが多分にあるらしい。
「ま、しゃ〜ない(仕方ない)。」
(普段、メガネをかけない自身にはこの状況がよく理解できなくて申し訳ありません)
こんな境地だったか、そんなことも忘れ、Let's go〜!
別山乗越をあとに剱岳の見守る剱沢を滑り始める。
朝日が当たってはいるものの、まだまだ雪面は固く、下手っぴのこちらにはちょっと手強い。
それでもすぐに小屋は見えなくなり、代わりに剱のただ中に身を置くようになる。
この大自然の中にいるのは今、我々二人のみ。
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八ツ峰と遠く白馬岳 |
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剱沢を落ちて行くSさん(左下の黒い点) |
見上げる谷はどれも稜線までは数百メートル。岩壁も相当なスケールのものがゴロゴロしている状態だ。
「これが平蔵谷だから、これは源次郎尾根。となると、あれが武蔵谷だった?」
急ぐ必要は何もなく、地形図を出して谷や尾根を確認しあうのも楽しい。
地形図ではよく分からない小さな尾根や谷が実際にはあり、源次郎尾根の末端にも小さな枝のような尾根が張り出していて、顕著な尾根ですら同定しづらい。
どちらかといえば谷は理解できても尾根を把握するのが難しいが、それもまたよし。
このロケーション、ガスに巻かれでもしたら登り返しのルートファインディングはかなりきつそうだが、今日はしっかり視界があるので問題なし。
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平蔵谷と剱本峰を見上げる |
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長次郎谷を登高するSさん |
長次郎谷出合いまで下ると標高を下げたこともあり雪質がかなり悪くなっていた。
予定では真砂沢出合いまで滑り、再度剱沢を登り返すつもりだったが、このまま下っても雪は悪くなる一方だし、
いっそ
「長次郎を登ってみましょうか?」
で意見が一致。
クライミングを終え下山した3人のクライマーと入れ替わるように谷筋に入って行く。
「これが長次郎谷か・・・。」
本や写真でしか触れたことのない、あの長次郎谷を、それも残雪の上をスキーで歩いているかと思うと到底現実のものとは考えられなかった。
もっともっと小さく細い谷かと思いきや、決してそんなことはなく、出合い部分は少し狭まって細くなっているものの高度を上げるほどに奥行きや広がりのある素晴らしく見事な谷に変身して行く。
見上げる稜線との高度感も抜群だ。
正面に見えてきた、この谷を上部で二股に分ける大きな岩壁が熊の岩か。その右には親指のような形の小さな岩塔もあるようだ。
それよりも、何といっても右にそびえる岩壁は八ツ峰、左は源次郎。正面の稜線右手はチンネなのだから、そこは名だたる岩壁にぐるりと囲まれた場所だったわけだ。
出合いから30分ほどの登高でエンドとしたが、そこから見上げる長次郎谷は涸沢から見上げた穂高の光景にも勝るとも劣らぬ見事なものだった。
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長次郎谷上部・熊の岩と右股 |
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長次郎谷滑降 |
このあとの長次郎の滑降は距離的にも時間的にもホンのわずかで終了し、決して長いものではなかったが、この地までSさんと一緒に来れたこと、そして一緒に滑れたことで深く記憶に残るものとなった。
出合いまで戻り、剱沢を眼前の左右に配し、正面に残雪の尾根を見上げれば、切り立つ尾根と深く切れ込んだ谷。
これはどこかで出会ったことのある情景。
スケールはずいぶん違ってはいるものの、残雪期の波賀(兵庫県西部の山あいの町)の山が見せる表情によく似ていた。
同じ山あいの地でも、異国ではきっとこうではないだろうから、やはりここは日本。
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しばらくこんな情景も楽しんだら剱沢の登高だ。
そんな折、左手下方から剱沢を上がってくる二人。
やがて追いつかれ話すと別山沢を滑降してきたという。
今日、これまでには真砂沢を滑ってきた単独の人にスキーヤーとしては唯一会っていたが、どの人もこの人もツワモノ揃いで呆れるばかり。
(我々の自負は今日出会ったのは皆、山スキーヤーばかりで、テレマーカーは一人もいなかったことくらいか・・・)
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別山沢滑降の三重からの山スキーヤーと |
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一服剱(右)と剱御前 |
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目の前に剱御前小舎 |
移転のため閉鎖中の旧剱沢小屋付近での昼のロング・ブレイクも含め、約3時間で別山乗越着。
小屋に戻るや否や例のメガネを探したのは言うまでもない。
まず、小屋の人に尋ねると、知らない、という。
部屋に戻り、心当たりのありそうな場所をくまなく探したが見つからない。
「やっぱり、無いな〜。」
とはいえ、探せるところと言ったって高が知れてるわけで、すぐに探し終えてしまい
「無いんかな〜。」
と半ばあきらめかけたその時、
「あった〜っ!!!、ありました〜っ。」
剱を正面に望む窓の”さん”の上にありました〜。無事解決です。
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雷鳥沢を滑る |
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雷鳥平よりガスの立山連峰 |
それなりの時間に小屋に戻ってこれたのと事件も解決したのに加え、今日これからや明日の天候も良くないようなので、ここでの連泊予定をキャンセル、雷鳥沢を下ることにした。
坂本さんから雷鳥沢への取り付きルートを教示の上、見送ってもらったら雪の着いているところまでガレ場を少し下り、そこから雷鳥平めがけ滑る。
それでなくても足元がおぼつかないのに、重いザックを背負っているから、とにかくひっくり返ることだけは避けながら滑り降りる。
テント場脇をすり抜け、かろうじて間にあった初体験のTバーリフトに便乗すれば今日の宿、雷鳥荘はすぐそこ。
ホテルのような設備や食事は山小屋とは比較にならず、室堂は観光客のテリトリーだと思い知らされる。
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◆【第四日(5月6日)の記録】
昨夜はここ室堂でも一晩中強風が吹き荒れていた。
見上げると立山稜線はガスの中。御前小舎がかろうじてそのガスに見え隠れする、不穏な天候だ。
この状況なら下山にもかなりの苦労を強いられただろうから
「昨日のうちに降りて正解。」
だった。
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朝の奥大日岳 |
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雷鳥荘の朝食 |
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朝の雷鳥沢 右上に剱御前小舎 |
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美女平よりカーブルカー乗車 |
強風下、室堂まで苦痛の行軍。
心配だった室堂でのバス乗車や美女平でのケーブル乗り継ぎにも余計な時間を費やすことはなく、スムーズに立山駅へと下山した。
Sさんのたっての希望により宇治長次郎生誕地にほど近い富山市大山歴史民俗資料館に立ち寄り、彼の功績を少しばかり学習したあと家路に着いた。
最後に、今回のツアーにあたり行動計画から車の手配まで、何から何までお世話になりっぱなしだった同行のSさんに対し、この場を借りて深くお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
なお、剱岳周辺で長きにわたり実際にロケが行なわれた”剱岳〈点の記〉”全国ロードショーは6月20日より

下の二冊は左、若かりし頃読んだ剱岳・点の記と、右、これから読むため今日、買ってきた新装版の文庫
もちろん著者は新田次郎
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文芸春秋
昭和53年1月10日
第6刷 |
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文春文庫
2009年4月30日
新装版第14刷 |
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