He left deep scars ,specially on her... 彼女を守ること、それが奴からの、同じ女性を愛したあの男からの願いだった。
「おつかれ。」 男は一声かけ、部屋を後にした。どこか暗い感じのする長い廊下を足早に歩き、いつものコースを辿る。 「お疲れ様です。」 「今日はもう終わりですか?」 すれ違う人たちからの挨拶に軽く返事を返しながらも、男は歩くスピードを緩めずに、廊下を抜けて建物を後にした。そして、駐車場停めてあった自分の車に乗り込んだ。エンジンを駆けると同時にスピーカーからはラジオが流れて、夕方のニュースを伝えていた。ニュースに耳を傾けながら、男はいつもの場所へ車を走らせた。 この一年間、そこへ行くのが日課になっていた。特別に仕事の用事がない限り、必ずそこへ行き、彼女に会うようにしていた。例え彼女自身から会うことを拒まれても、彼女が口を閉ざしていても。男にとって、それが義務にも思えたが、何より彼女のことを心から心配していたからだ。 彼女は男の元同僚であり、婚約者でもあった。今でも彼女が自分の婚約者だと男は思っている。一年前のある事件をきっかけに、彼女は大きく様変わりしてしまった。以前は明るく溌溂とした、輝きを持った女性だったが、今はすっかりとその面影を失っていた。それ程、あの事件で彼女が受けた心の傷はあまりに大きかった。 日本中を震え上がらせた無差別連続狙撃事件。一年経った今も日本中のすべての人間が強烈に覚えているあの事件は、主犯格の一人が死亡。残り三人の逮捕という形で、事件の決着が着いた。男も彼女もその捜査員の一人だった。その捜査の中で、彼女はある人物を失った。事件が彼女に与えた打撃、それは喪失だった。 あれ以来、彼女の心には大きな穴がぽっかりと開き、まるで魂が奪われたように彼女は生気を失っていた。それ程、失った人物が彼女にとって、大きな存在だったのだろう。 それが男にとっては、認めたくないことだった。いや、認めざるおえないことなのは頭では分かっているのだが、気持ちとして反発してしまうのだった。それもそのはず、彼女が失った人物は男と同じく、彼女のことを愛していたからだった。そして、その人物は何よりも彼女の幸せを考え、行動し、自分の命さえも投げ出したのだった。 「彼女を、守ってあげてくれ。」 それがその人物からの最後の言葉だった。正直、男は『ふざけるな』と思った。彼女の気持ちに気付いていながら、あんな行動を取るなんて馬鹿げている。それで彼女が幸せになれるはずない!と。しかし、その人物と同じ立場だったなら、同じ行動を取るだろうとも思えた。彼女のために命を投げ出し、それで彼女の心の中で生き続けるのなら、本望だと。 『逆の立場だったら、良かったのに』 そう心のどこかでうらやましく思う自分に、男は腹が立った。 以前から彼女とその人物の目に見えない強いつながりには気付いていた。婚約しようと、結婚式が近付こうと、彼女の心の片隅にはその人物がいることも。だが、誰よりも彼女を幸せにする自信があった。だからこそ、ニ度もプロポーズをし、彼女に問題が起こった時も最大限に力を尽くし、そして、今もその力が試されている。 彼女を立ち直らせられるのも、彼女を幸せにするのも、今は自分しかいないと思っている、そう信じたい。その思いだけがこの1年間男を支え、彼から諦めという言葉を打ち消していた。そして、今日もまた、彼女の元を訪ねるのだった、以前の彼女に戻ってもらうために。
「こんばんは。」 男はできるだけ明るい口調を心掛けて、ガラス戸を開けてのれんをくぐった。店内は客がまばらに座り、ラーメンやチャーハンに箸を進めていた。 「よおっ!いらっしゃい。」 カウンター越しに江戸っ子気質の年配の男が声をかけた。 「どうも。彼女は?」 盆にのせた料理を運びながら中年の女性が首を振った。 「相変わらず。部屋でぼーっとしている。雁太郎も私も、いろいろ言っているんだけどね。」 「そう簡単には無理よ。私だって、未だに信じられないんだから。特にお姉ちゃんの場合、目の前で見たんだよ。ショックが大きいよ。」 若い女性が皿を片付けながら言った言葉に、カウンターにいる年配の男も盆を持った中年の女性も、出前の準備をしていた若い店員も、その顔がかすかに曇った。彼らもまた、あの人物をよく知っており、彼女同様に人物を失ったことに対して心に傷を負っていたのだった。彼らの場合、事実を受け止め、なんとか乗り越えようとしていた。せめて彼女が彼らと同じようになればと、男は思っていた。 「いいですか、上がっても?」 男が上に指を指しながら言うと、中年の女性が申し訳無さそうに言った。 「ええ、どうぞ。いつもすみませんね、船木さん。心配して毎日訪ねて来て下さって。」 「いや、別に。私は自分のしたいことをしているだけですから。」 男は店内を抜けて奥にある居間へと上がり、そのまま階段を昇った。そして、ある部屋の前まで来ると、先程よりさらに明るい口調で優しくふすま越しに言葉をかけた。 「船木だけど、今日はコンサートのチケットを持ってきたんだ。クラシックで趣味に合わないかもしれないけど、暇つぶしにどうかなって。」 男は言葉を待ったが、何の反応も音も聞こえてこなかった。薄いふすまが分厚い壁に思えた。それは彼女と周りを隔てる壁にさえ感じられた。 「聞こえている?」 それでも何の反応も返ってこなかった。 「開けるよ、いいね?」 少々強引かもしれないが、それくらいしないと彼女を立ち直らせることどころか、いつまで経っても進展が起こらないからだ。男はそっとふすまを開けると、そこには時計の秒針だけが音を立てて動き、あとは動くものも人の姿もなかった。 男はすぐに廊下の先にある物干し台に向かった。そこも彼女がよくぼんやりと時間を過ごす場所だった。けれど、物干し台にも彼女の姿はなく、その隅に置かれた忍冬がかすかな夕暮れの光を浴び、風に揺れていた。 「また、あそこか・・・。」 忍冬を悲しそうに見つめると、男はぽつりとつぶやいた。
『きっと、彼女はあそこにいる。あそこにいるに違いないのだから・・・。』 彼女が出かける場所と言えば、そこしか思い浮かばなかった。彼女がそこで悲しそうに佇んでいるのを何度も見ているし、誰かに促されなければ何時間もその場所に居続ける彼女を何度も連れ帰ったこともある。今日もまた、男はその場所に足を進めた。 日中は暑い日射しを投げかけていた太陽もすっかり沈み、灯った街の明かりは夜空さえ照らし出すような程賑やかに、時に虚しく輝いていた。男はそんな街を通り抜け、キラキラと様々な色で彩られた人工的な明かりがつけられた遊園地の前へとやって来た。そして、恨めしそうに見上げて一息つくと、慣れた様子でその門をくぐった。 それほど広くない遊園地だが、行き交う人達の中で一人の人間を探すとなると手間がかかるものだが、男には彼女の居場所に検討がついており、真っ先にそこへ向かった。そして、足早に進めていた足はピッタリと止まったのだった。 「やっぱり・・・。」 子供が楽しそうに手を振る姿が見えるメリーゴーランドの傍に、微動だにせずに、回るメリーゴーランドを悲しそうに見つめている彼女の後ろ姿があった。彼女の肩は重い荷を背負っているように沈み、寂しそうにも辛そうにも見えた。そんな彼女の背中を見ていると、男は思わず抱きしめたくなった。けれど、彼女がそれを望まないことを見越して、ぐっと気持ちを押え付けた。 こんな風に佇んでいる時の彼女には、どんなものも視界に入らず、どんな言葉も耳に届かないのが常だった。現実から離れ、彼女の目も耳も別のことに心奪われてしまうからだ。けれど、こんな時、どうすれば彼女の意識が現実に戻ってくるのかを男は知っていた。男にとって悔しいことが、その方法はある人物を真似ればいいだけだった。 「・・・きなこさん。」 男がいつもよりやや低めの声で呼び掛けると、彼女はビクッと強烈に反応して、恐る恐る振り返った。 「・・・なんだ、船木さんか。」 男の顔を見るなり、彼女は少し落胆したように息をもらしながら言った。どうやら彼女が期待した人物ではなかったようだ。男はそのことを気にする様子はなく、むしろ『船木さん』という彼女の呼び方に少し寂しさを感じた。以前は『健一さん』と名前で呼んでくれていたのに、今では婚約以前の『船木さん』に戻っていた。彼女の中での自分との距離の置き方をはっきりと見せつけられたような気がして、男の胸の中で寂しい風が吹き抜けた。 『課長よりはマシか・・・。』 そんなことが頭を過り、男は口元を緩めた。 「また、私を連れ戻しに?」 彼女もかすかに口元を緩め、冗談っぽく笑ってみせた。それは半年前の彼女にはできなかったことで、それだけでも男にとっては嬉しいことだった。 「家にいなかったから、ここだろうと思って。」 「毎日大変だね。そんなことをしなくても、私は大丈夫だよ。船木さんもお父さん達も心配しすぎなんじゃない?」 「・・・それじゃあ、どうしてここへ?」 男は分かりきったことを敢えて言葉にした。彼女に自覚してもらうためだ。彼女がどんなに強がって見せても、所詮心が共合わないのだ。彼女の無理をした姿を見るのは男には逆に辛いことであり、むしろ、彼女が大きく泣き叫び、何もかも自分に感情をぶちまけてくれた方がよほど良かった。 男の問いかけに彼女からの返答はなく、彼女は黙ったままメリーゴーランドを見つめていた。しばらく微妙な沈黙が二人に流れた。
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