「・・・会えた?」 男の見透かした言葉に、彼女は悲しそうに微笑んだ。 「・・・思い出の中でね。」 その意味を、彼女も男もよく分かっていた。ただ彼女にとっては、分かっていても受け入れたくないことでもあった。 「バカなことだと分かっているんだけど・・・・。だけど、ここに来れば会えるような気がして。また、ひょっこり現われて私をビックリさせるんじゃないかって。もう会えないのは分かっているのに。なのに、どうしてだろう?」 彼女は微かに笑っていたが、目は悲しそうにメリーゴーランドを見つめたままだった。この一年間というもの、彼女は口を閉ざしていることが多かったが、今夜は随分口を開いて話をしてくれる。男は今までなかった彼女の変化を敏感に感じ取り、チャンスだと感じた。彼女が閉じこもっている分厚い殻を崩せるのではないかと。 「それでも、会いたいんだね、彼に。」 男は優しく温かく言葉を掛けた。その言葉はしっかりと彼女の気持ちを言い当てていたようで、彼女はそっと目を閉じた。 「そうだね・・・。」 再び開けた彼女の目には、うっすらと光るものがあった。 「もう会えないのに、会いたくてたまらない。だから、どうしても・・・。もう、あれから、あの日から明日で丁度、一年になろうとしているのに。私は、私の時間はあの時から止まったままで、とても動き出しそうにないな。」 彼女はまた、悲しげで辛そうに微笑んだ。そんな彼女の横で男は、決心したように深呼吸をひとつすると、今まであえてしなかった話題を口にした。 「彼は、どんな人だった?」 彼女は驚いたように男の顔を見た。今まで誰もが気遣ってその話題をさけていた。それをここまでストレートに聞いてくるのは、彼女自身もとても意外だった。そんな彼女の視線は遠くを見つめるように宙を見つめると、今度は地面に落ちた。 「・・・そうだな、目が印象的な人だった。いろんな顔があったのだろうけど、瞳がすべて物語ってた。いつもどこか寂しげで遠くを見ているようで、そして時折、とても悲しげな目をしていた。出会った頃はその理由が分からなかったけど、ずっとお母さんを探していて、辛い重荷を背負っていたんだよね。重荷の重さも、それを背負って生きることの苦しさや辛さも、私は分かっていなかったから、『罪と向き合って、罪を償えば、そうすれば−』なんてこと、簡単に言えた。今なら、分かる気がする。でも、遅すぎたね・・。」 彼女の最後の言葉には、強い悲しみの思いが感じられた。 「そんな彼に、惹かれたんだね。」 それを聞いた彼女は息を洩らすように微笑んだ。 「さあ、どうかな?恋とは違うかも。でも、いつの間にか心の中に彼がいた。その彼がいなくなると、なんだかぽっかりと穴が開いたみたいで・・。」 「逆に、心の中で生き続けるんじゃないかな?」 「そんなの、意味がないわ。」 「そんなことはないよ。僕は・・・、僕はずっと君を見てきた、この何年間。悔しいけど、君と彼との間には誰であろうと、何が起ころうと壊せない強い絆があって、命も何もかも相手に投げ出しかねない程、お互いに絶対的な信頼を寄せ合える、そんな強いつながりが見えたんだ。実際、彼はそれを行動に起こした・・・。なかなかできることじゃない。それ程、君を−」 男は一旦、そこで言葉を切ってフゥと息を吐くと、悔しさを堪えるように言葉を続けた。 「正直、悔しかった反面、彼がうらやましかった。そんな強いつながりを持てるなんて。それは例え、彼がいなくなっても変わることのないもので、いつまでも君の中で存在する強い絆なんだと思う。そうでなければー」 「そんなこと、無意味だわ!彼が死んでしまったら意味がないのよ!」 彼女は男の言葉を遮り、押さえ切れなくなった感情が溢れ出したかのように、言葉を激しく吐き出した。 「私は彼に生きていてほしかった!例えニ度と会うことができなくても、彼が生きているだけで良かった!この空のどこかで生きていると思えただけで良かった。それなのに、私のせいで!・・・せめて私が、私があの時、手を離さなかったら−」 彼女は言葉と共に泣き崩れた。 『これでは、心がボロボロになって当然だ。』 この時、男は初めて分かった。彼女は彼を失った悲しみだけでなく、彼を失った責任をも自分にかぶせ、ずっと自分自身を責め続けていたのだ。彼女の涙から、痛い程心の痛みが伝わり、触れればすぐに壊れてしまいそうなガラスのようだった。男は慎重に言葉を選びながら彼女に声をかけた。 「それは君が負うべきことじゃない。君にそんな重荷を背負わすために彼はあんな行動を取ったんじゃない。むしろ、君に重荷を背負わせないためにしたんだ。君の幸せを願っていたから。・・・確かに、彼の行動が正しかったとは思わない。他にも方法があったはずだ。君がこんなにも苦しまなくてもいい方法が。だが、彼にとってはこれが一番の方法だと思った。彼は君のことをよく分かっていたから。どんなに君をかばうような主張をしても、きっと君は事実をありのままに言うことを。君が自分の重荷を誰かに背負わすのを許さないことを。そして、ある行動に出ることで、君がそれを無駄にできずに黙らざる得ないことを彼は分かっていた。」 男の言葉を聞き、彼女は大きく首を振って泣き続けた。 「・・・ごめん。こんなこと、僕が口にしなくても君が一番分かっていることだね。よく分かっているからこそ、辛いんだよね・・・。」 男は彼女の涙から心の痛みとその意味を敏感に感じ取り、言葉をつぐんでしまった。自分が何を言っても、所詮気休めであったり、想像上の言葉でしかならないんだろうと思うと、どうしても言葉が出て来なかった。彼女が感情をぶつけてくれさえすれば、自分が彼女を受けとめ、立ち直らせると信じていたのに、いざ泣いている彼女を目の前にして言葉も出ず、何もできずに立ち尽くす自分に、男は腹立たしさを感じた。 それでも、男はなんとか彼女を立ち直らせようと必死だった。その思いが男を素直な気持ちにさせていた。 「僕は君ほど彼のことを分かっていない。だけど・・・、愛する人が泣いているのを見るのはとても辛いんだ。今の君の姿を見ることは、彼にとっても辛いはずだ。それが自分のせいだとしたら、なおさらに。いつまでも、苦しんでいる君を見るのは、彼は望んでいない。笑っている君を見ていたいはずだ。」 その言葉は彼の気持ちの代弁というよりは、男の気持ちそのままだった。 その時、今の季節には珍しいやわらかな風が遊園地の中を吹き抜けた。その風は温かく、優しく、懐かしささえ感じる程落ち着けるもので、涙に溢れた彼女の顔を拭うように頬に触れ、まるで彼女を包むかのようにいつまでも彼女の周りに留まっていた。 そんな風の中、彼女は聞き覚えのある低音の声が響いた気がして徐に顔を上げると、そこには彼女が会いたいと願っていたあの人物が微笑んでいた。 「もう、いいから。笑って、きなこさん。」 「・・・ホイさん。」 その瞬間、彼女の目には今までと違った涙が溢れだし、止めなく彼女の頬を伝っていった。『もう、いいから』ずっとそう言ってもらいたかった。それは誰もいいわけじゃなく、彼にそう言ってもらいたかった。例え、幻と分かっていても・・。一滴の雫が湖に波紋を広げるように、たったひとことの言葉が彼女の冷えた心に降りると、ぬくもりとなって広がり心を覆った。それと同時に彼女の中の何かが変わり、心が軽くなっていった。 「・・・ごめん。ごめんね。もう、大丈夫。私、大丈夫だから。」 彼女は涙を流しながら呟くようにそう言うと、ゆっくりと目を開いた。その先にはあの人物は立っておらず、メリーゴーランドが楽しそうに回っていた。 彼女は少し寂しそうに息を洩らすが、すぐに男の方に向き直った。その顔にはまだ涙が残るものの、以前の彼女の笑顔があり、明るさが差しているようだった。 「帰ろうか、船木さん。」
翌朝、清々しい朝日が居間に注ぎ込んだ頃、居間に腰掛けている彼女の姿があった。彼女は黒のスウェットの上下を着込み、物音を立てないよう静かに靴ヒモを結んでいた。 「よし。」 久し振りに履くランニングシューズの感覚を確かめるように、彼女は軽く足踏みをした。 「きなこ、どこ行くの?」 階段から降りて来た中年の女性が、眠そうな声で言葉をかけた。 「お母さん、おはよう。ちょっとランニングしようかと思って。いいでしょ、久し振りに体動かすの。」 「そう。でも、無理しない程度にね、今までサボっていたんだから。」 中年の女性は明るく冗談めかして言ったが、内心では今までと違った彼女の様子にとても喜んでいるようだった。 「了解!それじゃあ、行ってきます!」 彼女は勢い良く引き戸を開けて出ていった。彼女はまず、近くの寺に向かった。寺の境内で軽く準備運動をしてからランニングするのが、以前の彼女の日課だった。久し振りに同じコースを辿り歩いていると、じんわりと汗が出てきた。最近まで心地良かった朝も次第に熱と湿気を帯び始めていた。 「また、暑い日がやって来たね」 彼女はどこか遠い目をしながらつぶやいた。彼女自身、不思議だった。昨日まで、まさかこんな気持ちになれるとは思わなかった。それほどまでに心が病んでいた。どうにもできなかった運命、どうしようもない想い、それらに雁字搦めになって小さく丸くなっていた。 けれど、昨日のあの一言で抱えていたものが消えて行き、すべてが浄化された気がした。これでもう十分だから、起きてしまったことを起こるべくして起こったこと。その運命や自分を悔いたり、恨んだりしなくても、もういいのだと、やっとそう思えるようになった。その時から、ようやく後ろではなく、前を見つめていけるようになり、自分の時間が動き出したんだと。 彼女は寺の境内に着くと、大きく深呼吸をして準備運動を始めた。体の感覚を取り戻すようにひとつひとつ確かめながら、呼び起こすように−。 そして、彼女はぽつりと一言呟くと、前へと足を進め、勢い良く走り出した。
「私は彼を−、王凱歌を忘れない。」
(おわり)
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