季節が木々を彩る時
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「聖なる夜」

 香港一の高さを誇るビルは街並から飛び抜け、周りのビル群を見下ろしていた。その存在感は夜のライトアップによってより大きく華やかに輝き、周りを圧倒している感すらあった。その屋上では当然視界も行く手も遮るものなどなく、あらゆる方角から冷たい強風が無数に吹き荒れていた。
 そこに一人の青年の姿があった。どのビルからも決して姿の見られない死角ギリギリのビルの一端に身を置いていた。黒のタートルと黒のワークパンツ、真冬の服装にしては軽装すぎており、地上から何百メートルも離れた屋上では尚更だった。吹き荒れる冷たい風は青年の体温を吸い取り、体の感覚さえ奪おうとしていた。しかし、青年の顔に際立った変化は見られず、澄んだ目にわずかな感情の波が見られるだけだった。
 青年は柵を背に座わり腕時計で時間を確認すると、体のあちこちから黒い金属製の部品を取り出し、それらを素早く流れるような手つきで組み立てていった。そして、胸ポケットに入れていた一発の自作の弾薬を銃身の薬室に差し込んだ。出来上がったものはM4A1カービン、機動性を重視した狙撃用ライフル。ライフルを膝の上に横たえ、青年はまた身動きひとつせず、物音ひとつ立てず、時が来るのを待った。
 吹き荒れる風にかすかに街の雑踏が混じっていたが、青年には何も聞こえておらず、来るべき時間だけに意識が集中していた。そして、腕時計のアラームが時刻を告げると、青年は立ち上がってライフルの肩に担ぎ、柵を軽々と飛び越えて足下に広がる百万ドルの夜景の中へ飛び降りた。
 しかし、それはあっさりと裏切られ、青年は舞い降りるように静かに着地した。屋上から4メートル下に外付けされたエレベーターが止まっていたのだ。エレベーターは青年を待っていたかのように、着地したわずかな振動を屋根に感じるとすぐさま急降下し始めた。
『10、9・・・』
 降下していく中で、青年の頭にカウントダウンが鳴り響く。青年の身体は小さく抱え込まれ、両足は最大限の安定感を求めて幅・荷重が微調整される。動く足場にも左右されず、吹き上げる強風の抵抗にも揺るがないポジショニングが求められ、青年は的確にそれを探し当てた。肩に担いでいたライフルは流線を描くように青年の腕の中へ。肩の当て方、腕の位置、持ち手、指の掛かり具合、すべてが計算し尽くされた所へなめらかに納まり、それは一切無駄のない動きだった。
 下から吹き上げる強風はそんな青年に抵抗するように、次々と青年の身体を捕らえて揺さぶりをかけ、隙あらばビルの谷間へ引きずり込もうとした。その度に青年は本来のバランス感覚と経験を最大限に使ってやり過ごしていく。それでも、強風に含む冷気はいつまでも青年の身体にまとわりつき、凍らせようとしていた。身を切る寒さに身体は震え上がろうとするが、青年はその衝動さえ意思の力で抑制した。
『8、7・・』
 エレベーターはビル群の中へ入り、なお降下し続ける。青年は銃身を上げ、スコープの後ろに目を当てて向けられるべき方向に構えた。幾十にも重なるビルのわずかな谷間を抜けた三百メートル先へー。スコープの視界はあるビルの窓を縦になめていく。まるでビルが上へ昇っていくように。青年の集中力と感覚は研ぎすまされ、状況を見極め始めた。エレベーターの降下する速度、夜景の輝きが及す距離感の差異、吹き上げる風とビルの谷間をくぐり抜ける風、すべてを計算し、来るべき一瞬に備える。それは完全に不可能に思われた。吹き荒れる風の中、身体のバランスを取るだけでも注意が必要であり、その上、ライフルがどんなに強固に固定されようと細い銃身は煽られて揺らいでしまうのだった。
『これで成功したら、奇跡だ』
 一瞬、そんな言葉が青年の頭の片隅に過る。だが、青年の心が身体を突き動かし、頭の中の邪念も去っていく。一段と集中力と感覚は高められ、極限に達した時、青年のいる世界は完全な静寂の無の世界となった。
 頭のカウントダウンが『6』を刻もうとした時、スコープの視界に壇上でスピーチするターゲットの姿が映った気がした。しかし、その瞬間にはもうすでに引き金は引かれた後だった。身体が無意識に反応していた、まさにそんな感じだった。一瞬の間。スコープの視界はまたビルの窓を縦になめていた。青年の胸に絶対的な確信が浮かんだ。
『5・・』
 確信にも気を奪われぬように、青年は冷静にカウントし続ける。素早く遊底を操作して薬莢を排出すると、それを黒の薄手袋をした手で掴み胸ポケットに収めた。そして、ライフルを肩に担ぎながら立ち上がり、右側の三メートル離れた空中を見つめた。
 低く身を屈めると、『4』のカウントと同時に大きく踏み切って、見つめた先へと飛んだ。青年は空中を走るように足を漕ぎ、青年の身体は風に煽られながら放物線を描いて落ちていった。すると、突然その足先に大きな物体がぶつかり、青年の身体を上へと押し上げていった。隣のもうひとつのエレベーターが上昇してきたのだ。エレベーターは青年を無視して速度を緩めず、そのまま上昇を続けた。
『3、2、1・・・』
 バランスを取って体勢を整えると、青年は肩に担いでいたライフルを下ろし、慣れた手つきで素早く分解し始めた。ひとつの部品が分解される度に、元にあった場所、青年の身体の至る所へと隠されていく。すべての部品が隠された時、エレベーターは最上階で静かに止まった。青年は跳躍して頭上にあったビルの隆起物に足を掛けて踏み台にし、さらに上へと飛んだ。両手はビルの上端を掴み、腕の力が身体を引き上げた。
『0』
 腕時計のアラームが小さく鳴り響き、青年の姿は数秒前と変わらぬ屋上に存在していた。すべて何事もなかったかのように・・・。


 クラークの女性は事務処理をしながらも気は漫ろで、何度もホテルの玄関口を見ては溜め息をついていた。同僚が帰って人目を気にしなくなってからというもの、それがますます顕著で、玄関口ばかり見つめ、仕事は一向にはかどっていなかった。
 時計の針が八時を回った頃、ホテルの外が騒がしくなった。どこか遠くから聞こえるサイレンの音。次第にその音ははっきりと聞こえ、何十のサイレンの重なりであることが分かった。何台ものパトカーがホテル前を走り過ぎて行った。
 そんな時、女性の目に一台のタクシーがホテル前で止まるのが見えた。女性は期待感を持って出て来る人物を待ち、出てきたのは白のトレンチコート姿の青年だった。青年はたくさんの荷物を抱え、ホテルに入ってきた。女性の心はわずかに高揚したが、必死にいつも通りの自分を装った。
「おかえりなさいませ。たくさんの買い物なりましたね。」
「ええ、頼まれた物を全部買ったらこんなになってしまって。」
 青年は笑って、手に持っていた荷物を一旦置いた。荷物はブランドマークの入った箱がいくつかとショッピングバッグが2つ。そのひとつからは大きなクマのぬいぐるみの頭が飛び出して、愛らしい表情を振りまいていた。
「教えてもらったお店に行ってきました。言っていた通り、美味しかったですよ。」
「そうですか!喜んで頂けたら嬉しいです。」
 女性は心からそう言って、青年にホテルの部屋のキーを渡した。その際、キーを受け取った青年の手に目が止まった。
「手袋も買われたのですか?」
「?」
 不思議そうな顔をした青年に、女性は手で示して促した。それは青年の手にはめられた黒の薄手袋だった。
「出掛けられた時、されてなかったので」
「ああ!これ。・・・あまりに寒かったので買ったんです。分厚い生地だと指が思うように動かないと思ってわざわざ薄手のものを買ったんですけど、逆に薄すぎて寒さで指が動かなくなってしまって。」
 青年は屈託ない顔で笑い、手袋を外してショッピングバッグに放り込んだ。すると、今度は何か思い出したように言葉を足した。
「あ、この荷物、日本に送ることできますか?」
「ええ、もちろん。すぐ手配しますが。」
「いや、部屋にある荷物も一緒に送りたいんです。それで、何か段ボール箱とかありませんか?」
「どのくらいの大きさのものが要りますか?」
「普通の・・・、このくらいの物を2つ」
 青年は六十センチくらいの幅を手で作った。
「わかりました。後で配達伝票と一緒にお部屋にお持ちします。こちらのフロントに連絡下されば、送られる荷物を取りに伺いますので。」
「ありがとう。本当に手間ばかり掛けて申し訳ないです。」
 青年はまたたくさんの荷物を抱え、外付けのエレベーターへ向かった。エレベーターに乗り込むと、青年は荷物を降ろし、少し疲れたようにエレベーターボタンに寄り掛かった。クラークの女性はそんな青年の姿を見送りながら、先程とは違う意味合いの溜め息をついた。
 上昇していくエレベーターの中からの景色は素晴らしいものだった。百万ドルの夜景と呼ばれる街並の全貌が上昇と共に目の前に広がっていく感じは、誰もが不思議と胸を高揚させる。しかし、青年は違った。青年の胸には高揚とは裏腹の、重い鉛のような沈んだ思いが漂っていた。今は冷たい風に身をさらされることも、極限の集中力も必要としない穏やかな時間のはずだった。しかし、青年の手には冷たい感触が残っており、とてもそんな気分になれなかった。青年は夜景から目をそらすように背を向け、エレベーターの扉を見つめ続けた。そのエレベーターの外では、輝く夜景の間をいくつものパトカーのランプが駆け巡り、けたたましいサイレンを鳴り響かせていた。

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