「どう思う?」 「やはり、書いていた通りでは不可能です。」 男の言葉に青年が答えた。どちらもロビーで話していた口調・声のトーンとは大きく違っていた。お互い目を合わせることもなく、それぞれの方向を向いたまま話し続けた。 「お前もそう思うか?」 「ええ。これではあなたでも難しいはず。」 そう言って青年は目の前のガラスを軽く指で弾いた。分厚いガラスは鈍い音を響かせ、頑丈さを物語っていた。 「だろうな。そうなると、上からか・・・。」 「そんなこと、気狂いとしか思えませんが。」 「確かにな。」そう言って男は口元を緩めた。「だが、それしか方法はなさそうだ。」 そこでエレベーターは65階に着き、男と青年は降りて行った。男が先導するような形で二人は長い廊下を歩き、部屋へ向かった。 「なぜ、こんな厳しい条件の中で?もっと条件のいいケースがあるはず。」 青年は冷めたような淡々とした口調で話した。 「いや、あらゆることを検討した上で、一番可能性のあるものを選んだ。」 「今回のが、ですか?」 「そうだ。明日しか機会はない。そして、明日実行するならばどうすればいいかを考えると、こんな方法になった。お前なら分かるだろう?あの場所へはどうすればいいか。」 「・・・確かにこの方法しかないと思います。しかし、こんな難しいケースはあなたがやるべきだ。」 「俺がやる仕事が限定されているのを知っているだろう。それに、・・・明日は都合が悪い。」 最後の言葉を言うと、男の目に暗い影が過った。 『まただ。』 男とは八年程の付き合いになるが、感情を決して表に出さない人間だった。しかし、時折、今のような複雑な思いが過ったように目を曇らせる時があった。それは一瞬だけで気付く者は誰もいなかったようだが、青年はいつも気付いていた。それが気掛かりで仕方なかった。だが、いつも見てはいけないものを見てしまったように、青年は戸惑いを隠せなかった。 「俺以外なら、お前しかいない。」 男の目に影はすっかり消え、また普段と変わりなかった。 「しかし、今回はあまりにも無謀すぎる。あなたの方が成功する可能性がある。」 「お前にも可能性はある。」 「失敗する可能性が、でしょう。」 「いや、お前ならできるはずだ。」 「何を根拠にそんなことを?」 青年は呆れたように言った。すると、男は一歩後ろに歩く青年を振り返り、見透かすような視線で見ると、言葉を静かに洩らした。 「それは言わなくても分かるだろう。」 そう言って男は青年の胸を軽く叩いた。青年の足は止まり、一瞬顔が曇った。明らかに彼の心を言い当てた証拠だった。それを予測していたかのように男は口元を緩めると、再び歩き出して『6506』と数字の書かれたドアまで来ると鍵を差し、部屋の中へと入って行った。 「これはチャンスだと思うが。」 男は暗い顔をして部屋に入ってきた青年にドアを閉めるように身ぶりで示しながら言った。 「どういう意味ですか?」 「この組織には何百人という人間がいて、それぞれの働きをしている。しかし、その全員をトップのボスが覚えているはずはない。自分の目的を達成させたいと思うなら、ボスに自分の働きを覚えてもらうことだ。それが早道だ。」 「でも、僕はここに入る時に約束を−」 「ボスと約束したと?」 「・・・ええ。」 「顔は見たか?会った人物がボスだと言い切れるか?」 「そ、それは・・・。」 「ボスは滅多に姿を現わさない。組織の中でもボスの顔を知るものはごくわずかだ。そんな人がわざわざ出て来て、スカウトのようなことをするとは思えない。悪いが、実際に組織の人材を探す役目を担うのは幹部の仕事だ。」 「もしそうなら、今まで一体何のために・・・。」 青年は自分の手を見つめ、呟いた。彼の顔からは虚しさと怒りが込められていた。 「無駄ではないさ。今までの仕事ぶりがあるからこそ、今度の仕事に抜擢されたんだ。」 「そんなこと、嬉しくもない。」 青年の声は小さく、口からこぼれ落ちたような感じだった。 『いつまでたっても、お前は変わらないんだな』 男はふと息を洩らすと、青年を気遣うように話し出した。 「今回のターゲットはかなりの重要人物だ。前から組織はこの人物の危険性を察知して、消そうと三度試みている。だが、いずれも失敗に終わっている。それほど向こうの強い警戒とガードの高さがうかがえる。今回のSクラス級の難易度の高い仕事はそのためだ。普通なら他の確率のいい方法を選ぶが、この人物に関してはこれが最低ラインだ。これ以上、確率のいい方法もチャンスもない。しかし、別の機会を待っている程の時間もない。年々この人物は力を手に入れ、彼の組織も大きくなっている。これ以上は野放しにはできない。ボスもこの人物にはかなり目を光らせていて、今回の計画にも大きな感心を寄せている。もちろん、この計画の難しさも承知の上だ。これに成功すれば、お前の目的に確実に一歩近付ける。さあ、どうする?」 男の投げかけを前に青年の頭には様々な思いと考えが駆け巡った。しかし、行き着く所は決まっていた。部屋に横たわる静寂に囁くように青年はそっと口を開いた。 「ひとつ聞いていいですか?」 「何だ?」 「あなたはどうしてこの組織に?」 青年の意外な質問に男は笑った。 「なんだ、いきなり」 「あなたも目的があってこの組織にいる。違いますか?」 「俺にもお前と同じような目的があると思っているのか?」 「ええ、あなたは他の組織の人間とは違う。富や名声など欲してない。頑なにある組織に関する仕事しかしないのは理由があるからでしょ?でなければ、あなたのような人が組織にはいないはず。」 「お前からそんなことを言われるとは思わなかったな」 男は笑って誤摩化すが、青年の言葉は男の胸に引っ掛かりを残したようだ。その視線は窓辺から街並を見下ろしてはいたが、何も捉えていないようだった。その目は何かを思い出しているように深い悲しみを感じさせ、そして、その後には激しい怒りと憎しみを宿していた。その一瞬の変化を青年は決して見逃さずに感じ取っていた。前から感じていたことを今、聞くべきではとそんな気がして、青年は言葉にしていた。 「過去に何があったんですか?」 青年の問いかけに男は我に返ったように、目や表情が一変して元に戻った。 「やめよう、この話は。」 「いえ、聞きたいんです!」 青年は食い下がり、その意外な反応に男は驚いた。 「どうしたんだ?お前には俺の話どころか、組織の人間のことなどどうでもいいはずだろう?何をそんなに焦っている?」 落ち着かない感じの青年は、顔を俯きがちになりながら言葉を呟いた。 「分からない。・・・最近、自分の何か消えていくような、自分が自分でなくなるような気がしてたまらない。でも、それが何なのか分からない。」 「俺の話が役に立つとでも?」 「分からない。ただ、あなたはすべてを失っていない。踏み止まっている。そんな気がする」 「凱歌。悪いが、今は話せる気分じゃない。特にこの時期は・・・。今は、目の前のことを片付けよう。この仕事を受けるかどうか、考えを聞こうか。」 「それは、聞かなくてもわかっているでしょう。」 青年はどうでもいいことのように突き放した言い方をした。男は青年の言動から抱えているものを察していたが、気遣いの態度を取れなかった。それだけ男の抱えているものが大きすぎて、話を反らすことで精一杯だった。男は手にしていた書類と筒を軽く上げ、青年に言葉を投げかけた。 「だったら、作戦会議といこうじゃないか。」
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