■ 王になった野伏 1 2 3 |
一方その頃アラゴルンは、ようやくファラミアの元から開放され、胸を撫で下ろしていました。ファラミアの部屋へボロミアがどこに行ったか知らないだろうか、と尋ねに行くと、待ち構えていたように、くどくどと説教をされてしまったのです。ファラミアがイシリエンにいる間に起こったささやかな事件のことまでもを持ち出され、アラゴルンは一瞬、一体全体どうしてファラミアがこのように自分の行動に詳しいのかと尋ねようとしたのですが、それよりも前に、ファラミアが口を開き、また説教が始まってしまったのです。 実はボロミアが助けを求めてアルウェンの部屋へ駆け込んできた時に、事情を大まかに聞いたアルウェンが策を巡らせ、気心の知れている侍女にファラミアへの伝言を頼んだのでした。ファラミアはボロミアと、そしてアルウェンはエオウィンと文のやり取りをしていましたから、ミナス・ティリスで起こる事柄のほとんどを、ファラミアはまるで見たように知っていましたので、これを機に、一度は言ってやらねばならぬと思っていたことを、洗いざらいぶちまけてやったのです。 ファラミアの部屋を出たときには、すでに陽は落ち辺りは薄暗くなっていました。 やれやれ、とアラゴルンは溜息を吐き部屋へ戻りました。ボロミアもそろそろ戻っているかもしれないと思っていたのですが、当ては外れ、部屋で待っていたのはアラゴルンのお部屋付きの侍女です。食事の支度が整った旨を伝えられ、アラゴルンはそのまま部屋に落ち着くことなく、食事をするための部屋へ向かったのでした。 「あら、随分お疲れの御様子ですこと」 食事の間にはすでにアルウェンとエルダリオンがいました。アラゴルンは困ったように微笑み、席へと腰を下ろします。 「いや、ファラミアに随分と説教を食らってしまってね。それで、アルウェン。ボロミアを見なかっただろうか」 ボロミアを、と言ったところでエルダリオンが小さなお口を開きました。何か言うつもりなのだろうとそちらを見たアラゴルンは、アルウェンがエルダリオンに口にポテトサラダを掬ったスプーンを突っ込むのを見て目を丸くしました。 「アルウェン、それはいくらなんでも乱暴じゃないだろうかね」 「あら、ほほほ、そうかしら。エルダリオン、一人で食べられるわね? お母様と約束したものね?」 にっこりと微笑む母に、エルダリオンは一瞬何のことだろうかと首をかしげたのですが、ね、と再度言われ、あ、と口を開きます。そしてまたすぐに閉じ、こくこくと頷いたのでした。 何か隠し事があるようだとは思いましたが、アラゴルンは母と子のささやかな隠し事には目をつぶるようにしていましたので、気付かぬ振りをして食事に手をつけます。 「ボロミア様はみかけませんでしたわ」 「そうか…まだ拗ねているのだろうか…。明日には顔を見れよう」 アラゴルンはそのように簡単に考えていたのですが、翌日の執務が始まる頃になっても、それどころか終わる頃になってもボロミアは姿を見せなかったのです。 それだけではありません。 翌日も、そのまた翌日も、ボロミアは姿を見せませんでした。換わりにファラミアが執政の職を遂行していました。ボロミアが相手ですと、あれやこれやと色々と人には言われぬようなややこしいことをしでかしたり、または言葉巧みにボロミアを恥ずかしがらせて頬を染めるその様を堪能したりと、やりたい放題をして職務の間の息抜きをしていたアラゴルンでしたから、相手がファラミアに代わった途端、そのようなことはできなくなり、さらにはファラミアが容赦なく仕事を追い立てるので、一日が終わる頃にはぐったりと疲れ果てていました。それでも、ボロミアのご機嫌はどうだろうか、とそそくさと部屋に向かうのですが、ボロミアのお部屋番をしている衛兵はどうしたことか中には入れてくれませんでした。それならばと、窓から忍び込んでもみたのですが、ボロミアの姿はありません。 ボロミアがアラゴルンの前から姿を消してから四日、とうとうアラゴルンは憤りも露に叫びました。 「一体どうなっている! どうしてボロミアは私の前に姿を現さないのだ!」 乱暴に叩きつけられた執務机からは、決済を終えた書類がはらはらと辺りへ散り落ちました。侍女が慌ててそれを拾い上げ、お茶を飲むのに使っているテーブルへ置きました。普段は温厚なアラゴルンの激昂に、彼女は聊か怯えていたのでした。 しかしたいていのことに驚いたりはしない鉄の心臓を持つファラミアは、澄ました顔で、さて、と呟きました。 「先に申し上げませんでしたでしょうか」 「何をだ! 大体なぜ、お前が執政の職を継いでいるのだ! 執政の座はとうにボロミアに代替わりしたはずだぞ!」 またもどんと机を叩くアラゴルンのせいで、また紙がはらはらと落ちました。 ファラミアはすんなりとした眉を寄せ、怒り狂っているアラゴルンを眇め見ます。 「そうどんどんと机を叩かないで下さい。痛んでしまうではありませんか」 「机などどうでも良い! それよりもボロミアがいない理由と、お前が執政の職を継いでいる理由を言え!」 「わたくしは前執政として、また執政補佐として、執政閣下不在のミナス・ティリスを預かっているのです。執政閣下がお戻りになるまでの間、わたくしが執政のなすべき仕事を遂行致します。ご納得いただけましたでしょうか」 「ではその執政はどこへ行ったのだ! もう四日も姿を見ていない! 部屋に行っても部屋には入れず、忍び込んでみれば中はもぬけの殻だ!」 「……忍び込んで…?」 ファラミアの整った眉の片方が、ぴんと跳ね上がるのを見て、アラゴルンは己の失言に気付き、慌てて言葉を変えました。 「いや、兵を説き伏せ中に入ってみれば、だ」 「…まぁ、委細は聞きますまい」 「それよりも、どこへ行ったのだ、ボロミアは! 苛々と、まるで熊のようにアラゴルンは執務室の中を歩き回りました。ファラミアはそれを諌めようともせず、椅子に腰を下ろしたまま、乱れた紙の束を持ち上げ、とんとんと端を机に落とし整えます。 「申し上げませんでしたでしょうか」 「なにをだ!」 「我が兄ボロミアは、度重なる心労に気が臥し、このままでは身体も壊しかねないご様子でしたので、イシリエンにて静養をして頂いております。わたくしの妻がお世話をし、信頼する足る方々に御身の護衛を任せておりますれば、陛下にはご安心いただけるかと」 「ふ、臥せっているだと!」 それまで歩き回っていたアラゴルンは、今度はカカシのようにまっすぐに突っ立ってしまいました。目を丸くし、驚愕に強張った顔からは血の気が引いてゆきます。 「なななな、何か悪いものでも食べたのか! ああそう言えばあの子はよく熱を出す子だった! この寒さに熱を出したのか! それとも悪い病でも煩わせたのか!」 「…いつの話をしているのです、陛下」 溜息を吐き、ファラミアは手にしていた紙の束をそっと机の上に置きました。アラゴルンはかつてこの地にソロンギルとして住まい、そして当時の執政エクセリオン二世の命で、ボロミアに親しく仕えていたのです。ついうっかり、臥せっているなどと聞けば、ボロミアを抱き上げ可愛がっていたその頃に舞い戻ってしまうのでした。 あきれたようなファラミアの顔と声に、アラゴルンは何度か咳払いをして居住まいを正しました。 「そ、それでなぜ臥せっているのだ」 「申し上げましたでしょう。心労が重なりまして、気が臥せっているのです。このままでは満足に陛下にお仕えする事も叶わぬと申しますので、妃殿下とも相談し、イシリエンに」 「アルウェンと? なぜアルウェンと相談などするのだ。私にすればよいではないか」 憤慨したアラゴルンの言葉はもっともですが、そこは口八丁で激動の時代を生き抜いてきたファラミアです。しれっとした顔で告げました。 「おそれながら、陛下にご相談申し上げたかったのですが、お尋ねした際にはどうしたわけか、御不在でしたので」 「不在? 私がか?」 おかしいな、と首をかしげたアラゴルンに、ええ、とファラミアは頷きます。 「夜も深けた頃合でしたのに、御不在でした」 きっとボロミアの部屋に忍び込んできたときだったのでしょう。アラゴルンは深く追求される前にさっと目を逸らしました。 「それで、今もボロミアは…」 「イシリエンのわたくしの館に身を寄せております。どなたも御面会になれず…ああっ、陛下!」 ファラミアがハッと顔を上げたときには、すでにアラゴルンの執務机の上には王である証の冠と杓杖、豪奢なマントが取り残され、アラゴルンの姿は部屋の外へと飛び出していました。 声を荒げたファラミアも、やれやれと溜息を吐きます。窓の外からは馬の嘶きと、アラゴルンの開門を告げる大声が響き渡っていました。 「…もう行かれまして?」 アラゴルンが飛び出して行った扉の影からそっと顔を出したのは、エルダリオンを足元に連れたアルウェンでした。長い髪を結い上げ、エルフではなく人間風のドレスを纏っています。ファラミアは妃その人の姿に、席を立ち、ゆったりと腰を折りました。 「これは妃殿下、王子殿下、ご機嫌麗しゅう存じ上げます。ええ、陛下はすぐに飛び出してゆかれましたよ。夕刻にはイシリエンに到着されるでしょう」 「まぁ、楽しみですわね。一体どんな形相で帰ってこられるかしら」 「さて…」 ころころと笑い声を上げるアルウェンの楽しそうな様に、ファラミアも微笑みました。 「きっと我が父の顰め面よりも厳しいお顔をされているのではないでしょうか」 「それではきっとご機嫌も大変損ねていらっしゃるでしょうし…、陛下が戻るまでの間、私達ゆっくり寛ぎませんこと? 私、ケーキを焼いてまいりましたのよ」 「ああ、妃殿下の手作りですか。わたくしの妻にも見習わせたいものですな」 「あら、エオウィンはお料理を大変楽しんでおりますって、文に書いておりましたのに…」 不思議そうな顔をするアルウェンを部屋の中に招きいれ、椅子を勧めながら、ファラミアは困ったように言いました。 「作るのを楽しむことと、味を楽しむこととはまた別ですよ、妃殿下…」 その溜息が意味するのは一体何なのか、アルウェンは聞きたい気持ちもありましたが、このまま何事もなかったのように通した方が、次にエオウィンと会ったときにも、また文をやり取りするときにも都合がいいのだろうと、聞かなかったことにしました。 |