■ 王になった野伏         1 2 

「ボロミア!」
 イシリエンのファラミアの静かな館に、アラゴルンの大声が響き渡りました。息を絶え絶えな様子の馬を駆け寄ってきた兵に預け、大股に玄関へと向かいます。部屋を飛び出したままの格好でしたので、アラゴルンは外に出る際に常に着用している野伏の姿ではなく、王然とした姿でした。濃紅のシャツに黒いとも見える濃緑の上着を着ています。ベルトには宝石飾りも美しい剣が下げられていました。そんな姿でしたので、さすがに彼が王その人とは思わないまでも、きっとボロミアと縁のある貴族の誰かだろうと兵達はアラゴルンの進む道を阻みはしませんでした。
 ドアを開け、中の玄関ホールに入った途端、アラゴルンは目の前を掠めた一本の矢に慌てて足を止めようとしてたたらを踏みました。風を切り裂いて前髪を一本かすめて行った矢は、玄関ホールの壁に鈍い音を立てて突き刺さっています。
「何者だ!」
 咄嗟に腰の剣を抜き、油断なく構えたアラゴルンでしたが、目の前にずらりと矢をつがえた弓を構えた者達が居並ぶのを見て、目を丸くしました。
 そこには、なんとエルフ達がたくさん待ち構えていたのです。
 まるでロスロリアンの森の中に足を踏み入れたときのように、矢をつがえて狙われながら、アラゴルンはぽっかりと口を開いていました。
「…一体……何事ですか…」
 アラゴルンが驚いたのも無理はありません。
 そこには、イシリエンの森に住まうレゴラスと彼が率いる一族を始め、裂け谷のグロールフィンデルとアルウェンの兄のエルロヒア、エルラダンの双子、そしてロスロリアンのハルディアの姿があったのです。皆が皆、矢をつがえ、アラゴルンに狙いを定めていました。
 エルフの会合でもあったのかと言う顔ぶれです。
 いつにない緊迫した空気に驚いているアラゴルンに、ただ一人、矢をつがえずにのんびりと立っていたグロールフィンデルがにこりと微笑みます。
「我々はファラミア公からボロミアの警護を任されたのだよ」
「け、警護…ですか?」
「そう。ミナス・ティリスにはボロミアを付け狙う悪漢がいるらしくてね、ボロミアが心身ともに疲れ果てたというので、こちらで休養をしているんだが、どうもその悪漢、こちらにまで押しかけてくるのではないかとファラミア公は言うのだよ。それならばと我々が、警護を買って出たわけだ」
「それは…ご苦労様です…。いや、それよりも、レゴラスがいるのはともかくとして、どうしてあなた方までこんなところにいるのです、グロールフィンデル! 兄上方! それにハルディアまで!」
「私は奥方に命じられここへやってきたのだ」
 ハルディアはにこりともしないで答えました。
「奥方の命がなくとも、ボロミアのため、無論私は来るつもりではあったが」
「…ボロミアのため…?」
「そうだよ」
 レゴラスは昔の仲間に矢を向けている事に、何のためらいもないようでした。
「僕の永遠の想い人に、権力を傘によからぬ事をしてくれたらしいね、エステル。ボロミアがどれほど王を渇望していたのか、君はよく見知っているはずなのに、よくもそんな恥知らずな真似を…。ボロミアがアルウェンに泣きつかなければ、僕達は一生君の蛮行に知らず、ボロミアの側に君を野放しにしたままだったよ」
「蛮行……野放し……私は獣か」
「獣に違いはないでしょう」
 グロールフィンデルが、レゴラスとハルディアの間を抜け、アラゴルンのまん前に立ちました。その途端、皆が構えていた矢はつがえたまま、弓は下へ向けられます。
「私達の愛するボロミアに、無体を働いたそうだね、エステル」
 にこりと微笑むグロールフィンデルの言葉に、覚えがありすぎるアラゴルンはぎくりと顔を強張らせました。
「何だったかな…確かに聞いたはずなのだが、たくさんありすぎてすぐには思い出せないが……そうそう、執務の間にボロミアの首筋に唇を落としたのだとか」
「尻を撫で回したそうですね」
「兵や侍女がいる前で、抱きついて服を脱がそうとしたとか」
「野外で嫌がるボロミアを押し倒したそうじゃないですか」
「言うことを聞かねば、王位を捨て野に下るとボロミアを脅したそうだね、エステル。可哀想なことをする。彼がどんなにその言葉に心を痛めたか、察せない君ではないだろうにね」
 口々に皆が述べる言葉の最後を、グロールフィンデルが薄く微笑んだまま収めました。
 アラゴルンはそこまで言われ、ようやく、どうしてエルフの方々の矢が自分に向かっているのか、そしてどうして自分が皆に取り囲まれているのかを悟り巻いた。
「……ボロミアを付け狙っている悪漢と言うのは…私のことですか」
「おや、ようやく気付いたのかね。やれやれ、その察しの悪さでは、おそらくボロミアが気落ちしていたことにも気付かなかったろうね。可哀想に…ますます私はボロミアを守って差し上げたくなる」
 グロールフィンデルの穏かな口調に、アラゴルンは慌ててあたりを見渡しました。
 ファラミアの館にはいて然るべき侍女の姿がなく、玄関ホールはがらんとエルフ以外の人気はありません。おそらくはこのエルフ達が人払いを申し付けておいたのでしょう。あまりの静けさに、逆にアラゴルンは不安になってきました。
「ボロミアは! ボロミアはどこです、グロールフィンデル!」
 グロールフィンデルのやや前方にいたレゴラスを押しのけ、アラゴルンはグロールフィンデルの元に駆け寄りました。掴みかかりそうな勢いのアラゴルンの様子に、グロールフィンデルは内心で愛らしいものだと思い、うっかり微笑んでしまいそうになりましたが、そこはこの作戦が恙無く成功を収めるため、と顔を引き締めました。
「私の口からは言えませんよ、エステル。主治医はボロミアにあなたを会わせてはならないと仰っている」
「なんだって!」
 既知のエルフの口から零れた言葉に、アラゴルンは飛び上がって驚きました。
「そんなに病が重いのか! ああ、そう言えばあの子は良く熱を出す子だった! こんな寒い時期にミナス・ティリスからイシリエンまで駆けさせてはならなかったのに…! どこです、グロールフィンデル! ボロミアはどこにいるのです!」
 アラゴルンに突き飛ばされ、やや不機嫌になっていたレゴラスが、また矢をつがえ、アラゴルンに言いました。
「聞こえなかったのかい、エステル。グロールフィンデルはあなたに、ボロミアと会ってはならないと言っている。これ以上ここにいてもボロミアには会えないよ。彼も会いたくないと言っていた。心痛が増すばかりだと、涙ながらに僕に言っていたよ」
「…何と言うことだ……」
 がばりと両手で顔を覆い、項垂れるアラゴルンの姿に、やれやれ少し薬が効きすぎただろうかと、グロールフィンデルとレゴラスが顔を見合わせたときでした。僅かな隙をつき、アラゴルンは彼らの間をすり抜け、ファラミアの館の玄関ホールを走り抜けてゆきます。
 聡い野伏であった彼から、昔の鋭敏さは消えていなかったのでした。
 エルフ達が慌てて彼の後を追いかけてきますが、さすがにエルフの中で育っただけはあります。アラゴルンはその腕をすり抜けて、ボロミアの気配のする館の奥へと風のように走りました。
 アラゴルンには解っていたのです。
 この館のどこに、ボロミアがいるかを察していたのです。
 大体にして館の造りなど皆同じようなもので、ファラミアが自分の兄をそこらの部屋に押し入れることもないと彼は予想していました。おそらくは、一番上等の客をもてなすための客間へ通すであろうことも、想像していました。ですから、それがあるような場所にちょっと気を配ってみれば、人がいるかいないかなどすぐに解ってしまうのです。案の定、賓客をもてます部屋に人の気配がありました。
「ボロミアー!」
「待つんだ、エステル! 彼に会ってはいけない!」
 レゴラスが風よりも早くアラゴルンの脇をすり抜け、行く手を塞ぎました。
 それはボロミアの部屋のドアノブまで、あと数歩で手が届くという場所でした。がっしりと押さえ込まれたアラゴルンは、さすがにエルフの力には叶わず押しとどめられてしまいます。
「離せ、レゴラス! 私をボロミアに会わせるんだ!」
「駄目ですよ、エステル」
 ハルディアが右手を、レゴラスが左手を、そして双子達がアラゴルンの身体を前から押し、必死にボロミアの部屋から遠ざけようとしていました。その前に立ち、グロールフィンデルは少しも慌てたことなどないと言うような顔で微笑みます。
「彼の主治医である私が、あなたをボロミアに会わせるわけにはいかないと、判断したのですからね」
「主治医! あなたがですか!」
「ええ、ですから、大人しくミナス・ティリスに帰りなさい、エステル。執務をし、彼にあなたこそが真の王であり代わる者などないのだと思われるような王になりなさい。彼の望んでいることなど、あなたは充分に知っているでしょうに」
 諭すエルフの声など聞こえないような素振りで、アラゴルンは叫びました。
「ボロミア! 私だ、アラゴルンだ! 退いて下さい、兄上方! レゴラス、ハルディア、離せー! ボロミアー!」
 大声で叫ぶアラゴルンの声は、部屋の中にいるボロミアにも聞こえていました。ファラミアの妻であり、エオメルの妹であり、セオデンの姪であるエオウィンと差し向かいでお茶を楽しんでいたところでしたが、アラゴルンがやってきたと聞かされて、そわそわと落ち着かなく部屋の中を行ったりきたりしていたのです。アルウェンの策略でイシリエンまでやってきたボロミアでしたが、内心ではいったいミナス・ティリスがどのような状況になっているのか気が気ではなかったので、出立してから四日目にとうとうやっていたアラゴルンを今や遅しと待ち構えていたのでした。
「落ち着いて、ボロミア義兄様」
 エオウィンは手ずからお茶をカップに注ぎ、ボロミアを椅子に座らせ、それを持たせました。
 勿論、ボロミアは臥せってなどいません。
「ここはアルウェン様の仰る通りにしないといけませんのよ」
 すべてはアルウェンの知略の賜物だったのです。
 アラゴルンが執務を度々放棄するのは、今だ王である自覚が足りないのと、ボロミアに対する甘えがいくらかあるのだろうと彼女は言いました。そしてボロミアに無理難題を押し付けるのも、甘えているからだと言うのです。
 それに、アラゴルンがそうしてしまう一因はボロミアにもあります。
 アラゴルンに王などやめてやるなどと言われてしまっては、彼の言うことをなんでも聞いてやりたいと思いますし、そうでなくても、ボロミアはアラゴルンのお願い事には弱いのでした。
 ですから、とアルウェンはボロミアの手を取って、四日前のミナス・ティリスで言ったのです。
 うんと懲らしめて、甘えたいだなんて思わないようにしてしまわないと。
 にっこりと、アルウェンは春の日差しのように微笑みましたが、彼女の計画はまるで冬の井戸の水のように冷たいものでした。
 アラゴルンを懲らしめるために、ボロミアはイシリエンにやってきて、執政の仕事はファラミアが引き継いでいます。レゴラスもギムリと共に諸国漫遊の旅に出ていたのですが、途中で切り上げ戻ってきました。ハルディアも奥方の命を受け、飛ぶようにやってきました。グロールフィンデルとエルロヒア、エルラダンの双子達は裂け谷から馬を飛ばしやってきて、ボロミアとの久々の再開に喜びつつも、アルウェンの策略どおりアラゴルンを懲らしめることに余念がありませんでした。
 あとはボロミアが止めを刺すだけです。
 抜かりなくね、と言ったアルウェンの顔を思い浮かべ、ボロミアはエオゥインに持たされたカップの紅茶をがぶりと飲み干しました。
 そうとは知らないアラゴルンは、本当にボロミアが臥せっていると思い込んでいます。必死でボロミアの名を呼び、押さえるエルフの力を撥ね退けようと躍起になっていました。
「ボロミア、お願いだ! 私に少しでもいい、顔を見せてくれ! そなたが無事だと確認させてくれ!」
「駄目ですよ、エステル。会ってはあなたが傷付くだけです。我々は、あなたのことを思って止めているのに…」
 グロールフィンデルが思い入れたっぷりにそう囁くと、アラゴルンは訝しげに顔を顰めました。
「グロールフィンデル、それは一体……」
 どういうことだ、と呟きかけたアラゴルンの前で、あれほど手を伸ばしても届かなかったドアが、カチャリと音を立てて開きました。そしてそこから姿を現したのは、少しばかり迷惑そうな顔をしたボロミアでした。
「ボボボボ、ボロミア!」
「なんです、騒がしいですな」
 すんなりと眉を寄せたボロミアは、ちっとも病に臥せっているようになどは見えませんでした。面会謝絶を言い渡されているのですから、よっぽど死に瀕しているのだとアラゴルンは思っていたので、その姿に呆気にとられてしまいます。
「ど、どういうことです、グロールフィンデル! 彼は元気ではないですか! だったらどうして私に会わせてくれないのです! ああ、ボロミア…ボロミア! 無事で良かった…そなたが臥せっていると意地の悪いエルフ達が言うので心配していたんだ…」
 今度こそエルフの腕を振り払って、アラゴルンは駆け寄りボロミアを抱きしめました。いつもなら困ったように、微笑みながら抱きとめてくれるボロミアの腕は、今日ばかりはありませんでした。
「……ボロミア?」
 不思議に思って身をもぎ離すと、ボロミアは迷惑そうな顔で一歩足を引きました。
「どなたでしょうか、グロールフィンデル。わたくしにこのような野伏の知り合いなどないのですが」
「おや、あなたのお知り合いではないのですか」
 グロールフィンデルは目を丸くして、ボロミアの側で目を丸くして強張ってしまっているアラゴルンを軽く引き寄せ、そしてハルディアやエルロヒア、エルラダンの双子達に引き渡しました。
「あなたの名を叫んでいたので、てっきりあなたのお知り合いだと思い込んでいましたよ」
 親しげに言い、グロールフィンデルはボロミアの頬に触れました。
「いえ、構いませんよ、グロールフィンデル。あなたが側にいてくださるのなら、野伏程度の賊など恐ろしくもありません」
「ああ、なんて愛らしいことを仰るんだろう。私のボロミア」
 グロールフィンデルは、ぎゅっとボロミアを抱きしめ、優しい仕草で頬にくちづけました。先ほどはアラゴルンの背に回らなかったボロミアの手も、グロールフィンデルの背中にはしっかりと回されています。グロールフィンデルの肩に顔を伏せているせいで、アラゴルンに彼の表情はしかとは見えませんでした。
「な、何を…何をしているんです、グロールフィンデル! 私のボロミアに気安く触れないで頂きたい! それに、ボロミア! あんたも何を言うんだ! 私の顔を、よもや五日程度で忘れたなどと言うつもりか!」
 グロールフィンデルの肩に顔を埋めたままのボロミアが、くぐもった声で答えます。
「わたくしには野伏の知り合いなどおりません」
「……そ、そんな…。ボロミア…どうしてしまったんだ…。本当に私を忘れてしまったのか……」
 泣き出してしまいそうなアラゴルンの声に、うっかりとほだされてしまいそうになるボロミアでしたが、グロールフィンデルに小さな声で促されて、きっぱりと顔を上げました。唇を引き結び、冷たく装った顔でアラゴルンを見つめました。
「わたくしが知り親しくしているのは、ゴンドールの偉大なる王となった野伏です」
「何を言うんだね、ボロミア。それは私だ! あなたが最初に王と認めてくれたではないか」
 ボロミアはグロールフィンデルに肩を抱かれながらも、首を横へと振りました。
「いいえ、わたくしがお慕い申し上げている偉大なる王は、あなたのように野に下り、十日も連絡ひとつ寄越さずに好き気ままに流離っているような方ではありませんし、卑しいことを言ってわたくしを困らせるような方でもありません。わたくしが心をお捧げしたのは、王である事とわたくしの夜伽とを天秤にかけるよう、わたくしを脅すような方ではないのです。ですから、あなたはわたくしが王と認めた野伏の君ではありません」
「…そん……そんな……ボロミア……」
 本当に泣き出す寸前のアラゴルンの顔を見てしまっては、それこそ芝居など全部放り出して駆け寄りたくなってしまいますので、ボロミアは必死で顔を背けました。それがアラゴルンには、自分の姿などまるで興味がないようにボロミアが顔を逸らしたように見え、ますます悲しくなりました。
「お帰り下さい、野伏の方」
 ボロミアは冷たい声で告げました。
「あなたはあなたが望む通り、野に下ると良いでしょう。わたくしはもう、あなたが王であることなど望みません。好きなだけ、好きなことをなさるといい。ただし、ゴンドールには足を踏み入れないで頂きたい! あなたのような方がたとえゴンドールの端の地であろうとも、のうのうと歩いているのかと思うと憤りを隠しきれません」
「覚えておくといいよ、エステル」
 厳しい顔をしているボロミアの隣に立ち、彼の手を取ったレゴラスは、その甲に唇を寄せながら、腰を抜かし床にへたり込んでいるアラゴルンをちらりと見やりました。
「僕の心はボロミアの中にある。ボロミアに仇なす者、ボロミアを悲しませる者、ボロミアを煩わせる者が姿を見せたのなら、僕はためらわない。僕はボロミアを守るのだから」
「ああ…ありがとう、レゴラス。あなたはまるで、わたくしがお慕い申し上げていた王のように逞しい方だ」
 ボロミアはそう言うと、レゴラスがしたように、彼の手の甲に一度額ずいた後、くちづけを寄せました。
 ハルディアは軽く一礼した後に、ボロミアの前に膝をつき、彼の手を取ります。その姿はまるで姫君に思いを寄せる騎士のようでした。
「此度は奥方の命によりボロミア殿の御身をお守りした。だが覚えておくがいい、エステル。私とてボロミア殿に心を捧げる者。ボロミア殿の御身に危険が参れば、奥方の命がなくとも、いや、奥方が私を止め、そしてそれにより私が罰せられようとも、ボロミア殿をお助けする覚悟だ」
「ハルディア殿。あなたはまるで、わたくしがご尊敬申し上げる王のように、誠実な方です」
 ボロミアは跪くハルディアの額にくちづけをし、そしてその肩を抱きしめました。
 アラゴルンは目を白黒させ、そのやり取りを見つめていましたが、自分を抑えていたエルロヒア、エルラダンの双子達もがボロミアの手を取りくちづけるのを見て、卒倒しそうな心地でした。双子達はボロミアの額にも、代わる代わるくちづけました。両の手と額とにくちづけをもらったボロミアは、少しばかり恥ずかしそうにはにかんだ微笑みを浮かべています。
「我々もボロミアに心を配る者」
「エステル、たとえ愛する妹の夫たるそなたが相手とて、ボロミアに害すれば、我々は容赦などしない」
「我々はボロミアの笑顔こそを望むのだ」
 交互に語る双子を順に見つめ、ボロミアは二人の前に跪きました。そして彼らのマントの裾を手に取り、唇を寄せました。
「エルロヒア様、エルラダン様。あなた方は、まるでわたくしが待ち続けた王のように高潔な方々です」
「……ボロミア…」
 呆然と呟いたアラゴルンの弱々しい声に、ボロミアは思わず振り返ってしまいました。途方にくれた子供のような姿に、思わず駆け寄りたいと腰を上げたボロミアでしたが、ハルディアがその腕を引き、傍らに立ってくれましたので、ボロミアはどうにか自分の気持ちを抑えることができました。
 そのボロミアの側に、部屋の中から出てきたエオウィンが立ちました。アルウェンに負けず劣らずの美しい装いをしていますが、その手には一振りの立派な剣が握られています。それは夫ファラミアのものでも、義兄ボロミアのものでもなく、紛れもない彼女自身の愛剣でした。
「そしてまたわたくしが属すローハンも、白の塔の守護者たるボロミア様に従うもの。ボロミア様の認めぬ野伏の君よ。我がローハンにはそなたの駆ける草原、そなたの浴びる風はありません」
 エオウィンはそう言うと、何のためらいもないような様子で、その剣を鞘から抜き放ちました。油の滴りそうなほどよく磨きこまれた剣の刃先が、茫然自失の様子とはこう言うことだったのかと全身で表しているようなアラゴルンに向けられました。エオウィンは内心で、不敬罪になったりしないかしら、とか色々なことを思っていたのですが、そこはアルウェンの策略を崩してはならぬと言う一念で、怯えている気持ちや、逆に笑い出したくなるような気持ちをおくびにも出さず告げました。
「速やかに立ち去りなさい、野伏の君。そなたはそなたに相応しい場所に行くが良いでしょう。ここはそなたのある場所ではありません」
「野伏は野伏らしく、野にいるといい」
 エオウィンのきっぱりとした言葉に、ボロミアも続きました。彼もまた、色々な思いを胸の中に抱えていたのですが、なんとかうまく隠していました。
 普段のアラゴルンが相手であったなら、そんなものすぐに見破られ、いいように言いくるめられていたのでしょうが、さすがに今日のアラゴルンは頭がうまく働いていないようで、先ほどから何も返せずにいます。
「王でない貴様の顔など、見たくもない」
 ボロミアは見下すようにアラゴルンに言い捨てると、逃げるように背を向け、部屋の中へ入りました。その後にエオウィンが続き、エルフ達も皆、意識があるのかないのか解らないアラゴルンを廊下に捨て置き、部屋の中へ入りました。重厚な両開きのドアを閉め、鍵もきっちりと閉めてしまいます。
 そして皆、黙って顔を見合わせました。
 生真面目な顔をしていたエルフと人間でしたが、誰だったのでしょうか。くすりとささやかな笑い声を洩らしたのをきっかけに、もう我慢ができなくなってしまい、厳しく取り繕っていた顔もだらりと崩れてしまいます。さすがに笑い声を上げることはできませんでしたが、皆が皆、悪戯を成功させた嬉しさに笑顔を浮かべました。
「ボロミア、名演技でしたよ」
 厚い扉は大声は通してしまいますが、普通の会話くらいなら差し支えはありません。グロールフィンデルがそう言ってボロミアの肩に触れますと、反対側からレゴラスがぎゅっと抱きつきました。
「そうだよ、ボロミア! もう、本気でエステルが嫌いになっちゃったのかと思ってしまったよ」
「まさか、そんな! いや、しかし、あのような情けない姿を見せられると、百年の恋も冷めるかもしれんがな」
 ボロミアが笑いながらも目を丸くすると、ハルディアもくすくすと笑い声を洩らしながら、それにしても、と目を細めます。
「姫君の勇ましい姿は、見ていて心が晴れましたぞ」
「まるで我が妹のようだった」
「そう、アルウェンはあれでなかなかお転婆で、剣を振り回して我々に挑んできたものだったよ」
「あら、いやですわ。でもアルウェン様のようだと例えられたのは、心から光栄です」
 エオウィンは恥ずかしそうに、けれども満更でもなさそうに微笑みました。
「今度手合わせを願いたいくらいですな」
「まぁ、エルフの方々に手合わせして頂けるだなんて。ボロミア義兄様、わたくし、どうしましょう!」
「エルロヒア殿、エルラダン殿。お気を付け下され。これでエオウィンは猛将。油断召されると手酷い目に合いますぞ」
 ボロミアが笑い声を洩らしながらそう言えば、ハルディアもいつもの取り澄ました表情などどこかに置いてきたかのように微笑みました。
「それではボロミアも、姫君に手酷い目に合わされたということか」
「ああ、ハルディア殿。正しくその通りですよ。わたくしなどでは叶わないほどの猛者なのです」
「ひどい、ボロミア義兄様ったら、嘘ばっかり!」
「いやいや、嘘ばかりではないだろうに」
 憤慨してみせるエオウィンの可愛らしい様に、ボロミアを含め男達が微笑ましい気持ちになっていると、突然、ドンドン、と閉じたドアが乱暴に叩かれました。
『ボロミア、ボロミア! お願いだ、許してくれ!』
 あら、とエオウィンは扉越しに、ややくぐもって聞こえるものの明瞭な言葉でもって叫ばれるアラゴルンの声に、目を見張りました。
『もう城を抜け出したりしないから、ボロミア! どうか私を許してくれ! 執務を嫌がってあんたを困らせたりもしないと誓うから、お願いだ、ボロミア!』
 叫びながら閉ざされた扉を叩くのは、アラゴルンの拳でした。力一杯叩かれるそれに、彼の必死さが伺えるのですが、ボロミアはじっと扉を見たまま動きませんでした。エオウィンはくすりと微笑み、グロールフィンデルがお茶を淹れるのを手伝うために、部屋の中央のテーブルへと歩み寄って行きました。
『ボロミア! どうか愚かな私を許してくれ! もう二度と人前で押し倒したりしないと誓う! あんたが嫌だと言ったら、絶対に手も触れないと誓う! 王位を捨てるなんて言わないし、下品な言葉であんたをからかって楽しんだりもしないから……』
 そんなことしてたの、とレゴラスは呆れたように呟きました。ちらりと横目で見られて、ボロミアは思わず顔を赤らめてしまいましたが、何も答えずにじっとドアを見つめました。
『お風呂にも入るし、庭で寝たりしない。ちゃんとベッドで寝るし、エルダリオンとも仲良くするから……』
「エルダリオンとはそんなに仲が悪いのか」
「親子だろうに」
 エルロヒア、エルラダンの二人が顔を見合わせているのへ、ボロミアは恥ずかしそうに顔を赤くして答えました。
「…その…何と言うか…。わたくしがエルダリオン様に差し上げたぬいぐるみを、ずるいと言って取り上げたりなさるので…エルダリオン様が随分警戒されていて…二人寄ると諍いが起こると言うか…大人気ないのです、陛下は」
「…それが自分の仕える王じゃ、さすがにボロミアじゃなくても疲れるよね…」
「風呂嫌いは裂け谷にいた頃よりの習性か…」
「いや、ボロミア殿には気苦労をおかけする」
 双子が揃って頭を下げたのへ、とんでもございません、とボロミアは大慌てで首を振りましたが、気苦労をかけられていることは確かでした。その時のことを思い出し、思わず溜息をついてしまいました。
『夜中にあんたの布団に潜り込んだりしないし、正装に着替えるのが嫌だと駄々を捏ねたりしない。お願いだ、ボロミア…。顔を見せてくれ……』
 段々と、アラゴルンの声は小さくなりました。
 叫ぶほどだった最初の頃を思えば、今はまるで囁いているような声音です。実際アラゴルンは、それがボロミアであるかのように扉に額を預け、優しく手で撫でていたのでした。この扉がボロミアを阻むのだと思えば、蹴り飛ばしたくなるくらいに憎いのですが、この扉の向こうにボロミアがいるのだと思うと、乱暴にもできません。ですから、殴りつける手をこらえ、必死に撫でていたのでした。
 その扉の向こうで、ボロミアはじっとアラゴルンの声を聞いていました。
『お願いだ、ボロミア…。私を嫌いにならないでくれ…。あんたの言うことを、ちゃんと聞くから…。お願いだ…ボロミア。あんたをもう一度失ってしまったら、私は気がおかしくなってしまうよ……』
「まるで子供のようだな」
「…実際手のかかる子供と同じです」
 ハルディアのぽつりと呟いた言葉に、ボロミアも同じほどにぽつりと返しました。
「執務が嫌だと駄々を捏ねられると、機嫌を取り戻していただくのに、苦労するのです。小さな子供が目を離すとどこかへすぐに行ってしまう…それと同じです…。陛下はすぐに、どこかへ行ってしまわれる……」
「あなたこそ、エステルに会いたいような顔をしているよ、ボロミア」
 横から伸びた手が、ボロミアの頬を突きました。驚いたボロミアが見ると、レゴラスが旅の間、何度も見た笑顔を向けていました。ボロミアはそのレゴラスの顔を茫洋と見つめていましたが、やがて、ああ、とじんわりと滲むような微笑みを浮かべました。
「そうかもしれない…」
「甘いなぁ、ボロミアは」
「……心を捧げた方に甘くなってしまうのは、仕方なかろう」
「そりゃそうだけど…ああ、でもね、ボロミア。この扉を開けるのは、もう少しエステルを懲らしめてからだよ。でないと誰よりも怖いアルウェンに、お仕置きされてしまうからね」
「そう…そうだな……だが、どうしよう、レゴラス…」
 扉の向こうで、ぽつりと呟かれたアラゴルンの声は、言葉は、確かに同じ扉の裏に触れるボロミアの中にすとんと落ちてきました。
 ボロミアは泣いているような、それでいて笑っているような顔でレゴラスを見つめました。
「私はどうしても、彼を嫌いにはなれない…」
「優しい子だね、あなたってばまったく」
 レゴラスはころころと笑い声を零すと、自身がかけてしまった扉の鍵を開けました。目を丸くするボロミアの背を押して、ほんの少しだけ開けた扉の向こうへ押しやります。ボロミアが驚いて振り返りました。
「レゴラス」
「ああ、ほら、今は僕の名前なんか呼んでないで、あなたの王様の名前を呼んであげなさい。アルウェンには僕が怒られてあげるから」
「ボロミア!」
 ぽんと背を押され、その勢いで廊下へ出たボロミアに、アラゴルンがものすごい勢いで抱きついてきました。しっかりと両腕をボロミアの背に回し、頬に頬を摺り寄せて喚くように言い募ります。
「ボロミア、ボロミア! すまない、私が悪かったんだ。あんたが帰ってきてくれた時に、決して苦しめないと己に誓ったのに、あんたを苦しめて、悲しめて…どうか、どうか許してくれ、ボロミア」
「……陛下…」
 額に、頬に、鼻先に、瞼に、唇にと、アラゴルンのくちづけはまるで雪のように降り積もりました。
 それらを確かに受け止めながら、ボロミアは苦笑します。
 そして扉越しに聞いたアラゴルンの言葉と同じ言葉を、彼に返すために口を開きました。
 扉を閉ざした部屋の中では、アルウェンの計画よりも随分早くに廊下に出てしまったボロミアに少しばかり焦っているエオウィンと、それを宥めているエルフ達がいました。大丈夫ですよ、と彼女を椅子に座らせて、紅茶のカップを渡し、グロールフィンデルは微笑みます。
 エルフ達の良い耳には、しっかりとアラゴルンの言葉も、ボロミアの言葉も聞こえていました。
 それを彼らは、エオウィンに教えてあげました。
 エオウィンはこっそりと聞いたその言葉に、胸の中をくすぐられたような優しい気持ちで微笑みました。
 廊下では、もういいと言うのに、それでも尚も詫び言を口に募らせるアラゴルンの背をボロミアが抱きしめていました。そしてまた、もう一度囁いたのです。
 愛しております、と。
 アラゴルンが彼に扉越しに告げたのと同じ言葉を、ボロミアは彼にもう一度返したのでした。