この空の向こうに
(勲とヒカル)

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勲はその日、日が明けるのも待ち遠しかった。

早朝から着替えて準備していた荷物を何度も確認して。
それでも6時までは自室で過ごしてからリビングに降りた。

「おい、勲早すぎるって。」

「だって目が覚めてぜんぜん眠れないんだもん。」

オレは生あくびを噛みしめながら勲の後を追った。
勲は昨夜も寝るのが遅かった。
宵のうちまで興奮する勲に付き合って碁を打っていたのだ。
それほどに勲は今日のイベントを心待ちにしていた。


それに付き合わされたオレの方がまだまだ睡眠が足りなかった。
リビングに降りると起きたばかりの美津子が目を丸くした。

「勲今日は随分早いわね。お父さんまだ寝てるわよ」

「うん、だって楽しみだからさ、」

「それはいいけど朝ごはんこれからだけど。」

「いいよ、オレ待つから。」

勲は食卓に着くと新聞を開いた。
勲は朝一番に新聞に目を通すのが日課だ。
新聞と言ってもニュースを見るわけでなく囲碁欄と囲碁
コラムを見るためだ。
オレも勲の隣の席に腰を下ろした。


「伊角先生の棋譜載ってる。」

相変わらずの勲に美津子は苦笑した。

「勲昨日のカレーでよかったらすぐだけど?」

「だったらそれでいい。」

新聞記事に掲載される棋譜は大きなタイトル戦でなければ
大抵対局より何か月も後になる。
オレはその棋譜を知っていたし忙しそうに支度する
美津子の背をみつめた。



当たり前だった生活と日常。あの頃は何も思わずに
我儘ばかりを言ってた
でも今はどうやったってオレには取り戻せない。
手の届かないものだ。それを勲は持っている。

それを嫉む気はないが失くしてはじめて気づかされたことは
多い。


美津子は準備出来たカレーとスプーンを勲の
テーブルに置いた。
そしてもう一つを誰もいないはずの椅子の前へ置いた。

勲は首をかしげた。

「母さん、こっちのカレーは?」

美津子は困ったように笑った。

「後で母さんが食べるから置いといて。」

カレーにはオレの好物だった目玉焼きが載っていた。
勲はオレの顔を一瞬見たが何も言わなかった。

胸が熱くなる。と同時に切ない気持ちにもなる。

触れることが出来ないスプーン。
湯気の立つカレーの匂いも熱さも今のオレには
わからない。
それでも母さんのカレーの味は思い出せた。

「母さん昨日より美味しいよ。」

「そうよかったわ。」


鼻をすすってその場を誤魔化す美津子に
オレは食卓を立った。









待ちきれない勲が「早く」「早く」とオレを急かす。

「もう出かけるの。」

美津子が玄関先まで見送りにきた。

「うん。」

「一人で大丈夫?送って行こうか?」

「何言ってんだよ。いつも一人で棋院まで行ってるだろ?」

「そりゃそうだけど・・・。」

「行ってくるな。」

「気を付けて、伊角先生や和谷先生に迷惑かけちゃだめよ。」

「わかってるって、お土産買ってくるから。」

急ぐ勲の後をオレは追いかける。
その背に美津子がつぶやいた。

「いってらっしゃい。勲の事お願いね。」
オレは『ああ、』っと頷いた。


勲は玄関から数メートルの所で
オレが来るのを待っていた。

「母さんって兄ちゃんのこと見えてるのかな?
時々ドキッとする事あるよな。」

「そうだな。けど母さんには見えていないと思うぜ。」


美津子にはヒカルは見えてはいない。

なぜならヒカルが話しかけても返事が返って
きたことがないからだ。
それでもヒカルの存在を感じているのだと思う。


ヒカルは最大級の親不幸をしてしまっている。
親の優しさも愛情もこの身になってから気づくなんて。
今更悔いてもしょうがないが。

せめて勲に同じ思いはさせたくない・・と思う。
ただそれをヒカルは勲に押しつけたくはない。


「けどありがたいっていうか。なんか嬉しかったけどな。」

「兄ちゃん食えないのに?」

「食えなくてもさ。」

「じゃあ兄ちゃんの分もオレが食えばよかったなあ。」

「どうして?」

「食えない兄ちゃんの代わりにさ。」

「勲・・。」


本当はオレの代わりなんてする必要ない・・・そう言いたかった。
けれど勲は優しくて両親のこともオレのことも
よくわかってる。
口先だけでそんな事を言うことがヒカルには出来なかった。


「ありがとう。勲、けど勲は勲だからな。」

「それ当たり前だろ?」


勲はオレが言った意味がよくわからなかったみたいだった。




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「この空の向こうに」副題をつけることにしました。
5話が短かったので6話はあまり開けずに更新したいと思ってます。





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