H燃料基地跡
由良で生まれ育った1928年3月生の男性Mさんの証言は次の様です。
「徴用で燃料タンクの工場で働いた。1942年頃に、200人くらいの朝鮮人がいっしょに燃料タンクを囲む土手を築く働いていたと思う。つるで土を掘って、モッコではこんだ。ひとつの堤防の中に、タンクが7つくらいすわった。楕円形に、土塁を築く。土手すれすれに、上からスレートをかぶせた。まわりには木も植えた。土手は7つ。タンクは、49あったやろう。タンクは、直径が10メートルくらい。いまの阪和ストアの奥にはいったところに、点々とあった。
現在由良町立白崎保育所のところに朝鮮人の飯場があった。屋根はトタン葺きだった。家族、女性や子供が一緒にいたと思う。囲いなどはなく、飯場には出入り自由だった。30人くらいのグループに朝鮮人の長が1人いた。親方は元請けのK組で、監督はSで、K組は今も御坊にある。
その後、鍛冶屋にまわされ、そこでの親方は日本語が上手な朝鮮人だった。ここでの朝鮮の労働者は片言の日本語で話し、年の頃は20〜30代だった。完成すると (1943年、1944年頃)、すぐに出ていった。
風の吹く日、脱穀してるときに飛ぶ穂を朝鮮の女のひとがひらいにきた。いっしょう瓶のなかでつぶしてたべるようにする。こごめにも入るか入らんかくらいの飛んだもみや。燃料タンクの工事中のこと。飯場の朝鮮人の女のひと。雑穀をよう炊いていた。飯場は、雨露しのいだらいいだけのもので、朝鮮人が引き上げると同時に、ばらしてしもうた」。
I衣奈採掘場跡
大阪窯業セメントの採掘場では、朝鮮人が10名程度徴用されていました(『由良町誌 通史編 上巻』由良町,1995)。