J朝鮮人の飯場跡
 ナカヤマリーナのあるこの土地に、朝鮮人の飯場があり、数家族が暮らしていました(Kさんのによる)。マリーナの付近にもう一カ所飯場がありました(Kさんの妻の話)。
K朝鮮人の防空壕
 朝鮮人女性(79歳、1920年生)の証言による、
 「ここの防空壕を掘る仕事をしている朝鮮人のため、飯炊きに通っていました。1945年8月6日のちょっと前、一緒に防空壕に逃げた朝鮮人が空襲により防空壕が壊れ、大勢亡くなりました。子供も女性の人もいました。
 日本が手をあげるちょっと前。広島に爆弾落ちるちょっと前だった。
 防空壕の場所は、マリーナからちょっとまわって、海の近くで2階建ての家が2軒あり、警察にいくまでの喫茶店の手前。死んだひとたちはどうなったか知らへん。
 18、19才くらいで日本に来た。最初、大阪の鶴見橋にきて、徴用で連れていかれるからというて、日本人の親方バットさんといっしょに、10軒、ここに逃げてきた。ここでは、大引で石掘りしたり、馬にかますを積んだり降ろしたりした。馬は親方が大阪からもってきた。全部で13頭。馬の世話をしていたひとがいたが、当時60何歳かぐらい。
 それから吹井で飯場、ここ(マリーナにあった飯場か?)で豚を飼うた。
 兄さんも九州のどこかの炭鉱で石炭に埋って死んだ。もうひとりの兄さんは、しごとで引っ張り出されて、広島に来て、日本が戦争にまけたあと、日本人が韓国のひと、殴ったり殺したりしたんで、こわくて、帰ってしまった」。

 『由良町誌 通史編 上巻』(由良町,1995)には、次のような記述があります。
 「1945年7月28日 海防艦三十号宮崎の鼻沖で終日延べ八十機と交戦 沈没 民家数十戸破壊。
  1945年8月  空襲が烈しいので部落別分散授業する(由良小沿革史)」。