G大引地区の朝鮮人飯場
 前述したように小学校跡に飯場がありました。ここの小字地名は中出です。神小田(地名)にも飯場が2棟ありました。1棟4、5世帯が住んでいました。ここに住んでいた人たちは和歌山石灰工業で働いていました。当時、小学校に通っていた人たちの同級生に朝鮮人がいたという証言も得られました。
 白崎第1尋常高等小学校『高等科卒業証書授與原簿(5ノ三)』のによれば、1937年(1938年?)に2人の朝鮮人が高等小学校1年を修了していること、1939年に1名、1940年に1名がそれぞれ尋常科を卒業していることがわかりました。白崎第1尋常高等小学校『尋常科卒業証書授與原簿(5ノ一)』のによれば、1942年3月25日に4名が尋常科を卒業していることがわかりました。この周辺に朝鮮人が家族で住んでいたことがわかります。

 Sさん(83歳、1916年生まれ、女性、大引で生まれ育ち、結婚)の話による。
 「朝鮮さん。女のひともあった。子どももあったと思う。同じ学校に、Sという朝鮮人がいて、勉強はえらかった。Sは、こっち(S寺のうえの飯場)を引き上げて、出島へはいった」。
 飯場あとの井戸について尋ねると、
 「自由に水をくんだ。近所のひとも、飯場のひともいっしょに使った。
 一段上がったとこに、忠魂碑をまつってた。今は、別のとこに移して、土台だけがのこってるかなあ。上に池があった。いまは、もう埋め戻してる。上にお寺があって、お寺の池だった」。
 飯場の朝鮮人と地元の日本人との関係はどうだったのか尋ねると、
 「昔のひとはよかった。子どもどうし、仲よかった。日本語で話した。朝鮮語は使わんかった。朝鮮さんどうしでは、わからんけど、聞かんかった。女のひとは、朝鮮の着物(チマチョゴリ)を着ていてそれで、すぐわかる。」
 「前山(和歌山石灰)には、うちらも荷ない出しのしごとしに行った。あの岩(下写真の右中央に写っている岩)はハッパかけて、うえから落ちたもんで、その岩のちょっと向こうに寄ったところに、棧橋ががあって、そこから船に積み込んだ。トロ押しもやった。石灰こしらえるとこは、和歌山あたり。 (前山は)道のとこたしまで出っぱってたのを、真ん中へんに石灰があって、掘って出した。そのときに朝鮮さんも働いてた。日本のひとは、削岩機を使ったり、ハッパかけたりして、トロを押すのに朝鮮さんをやとた。力強いし、雇ったのは、若いひとやね」。

女性(73歳、1923年頃の生まれ、大引で生まれ、ここで結婚)の話によると、
 「小学校の校舎は、石垣の上の土地に2棟、むこうの下に1棟、3棟あった。この石垣は、当時のまま。わたしが5年まで、ここで、5年の途中で、向こうへ行った。小学校は1934年に新築された。
 朝鮮のひとは、ふだんいつも朝鮮服だった。朝鮮のひとは、出島の社宅にもいた。(出島の社宅とは、いまの小学校のこっち側にあった社宅)朝鮮のひとは、下の井戸のある1棟に住んでた。小学校の建物はつぶして、社宅の建物はべつに建てた。向こうに大きな井戸がある。忠魂碑のそばにも井戸があった。その井戸と井戸のあいだに、飯場があった。
 この上のほうに男のひとばかりの飯場があった。あの大きな木の向こう側あたり。ごはん炊きにいったりするひとがいて、自然とわかった。
 磯ばた歩きをして、白崎へ行った。山を歩いて、白崎へ降りることもあった。いまの少年自然の家に登って行く道と同じ道。」.