E神谷 嵐基地
防衛庁の資料に「由良嵐基地」の日本文字とともに「YURA SUICIDE
BOAT BASE」の英字があります。直訳すれば、「由良 自殺 ボート基地」となります。最初は木製合版の特攻艇「震洋」および魚雷艇の格納庫でしたが、途中から回転格納隧道にに変更されました。図面には7個の隊道(トンネル)があり、5個が完成し、後の2個は未完成でした。(『由良町誌 通史編 上巻』由良町,1995)F白崎人間魚雷「回天」基地跡、東亜セメント(後に日本セメント)白崎採掘場跡
白崎の岬の付け根を南から北に石灰岩を掘り出した洞窟をトンネルにして道路が通っています。この洞窟トンネルこそが人間魚雷「回天」の出撃基地でした。
白崎の岬には東亜セメント白崎採掘場があり、朝鮮人が働いていました。その中には強制連行された人もいたと考えられます。
大引地区の浄明寺の上あたり(地名は中出)に小学校がありました。この小学校跡地に1935年頃、朝鮮人の飯場が数棟できました。そのうちの1棟には男性ばかりが住んでいました。1棟には10家族程度暮らしていました。男性ばかりの飯場は強制連行された人の飯場である可能性が高いといわれています。
『移入朝鮮人労働者状況調』(中央協和会1944)によれば、1940年度に大阪鉱山局により朝鮮人30人の白崎採掘所での労働が承認されています。『移入朝鮮人労働者状況調』は、強制連行された朝鮮人労働者の企業別一覧というべきものです。
現地の人の証言と『移入朝鮮人労働者状況調』の記録などから1937年の国民徴兵令にもとづく強制連行があった可能性が非常に高いと考えられます。
日本セメント株式会社の『七十年史 序編』(日本セメント株式会社,1955)には採掘場についてつぎのような記述がなされています。「採掘場では、寒暑、風雨、落石の危険にさらされる露天作業と、多湿で照明度の低い坑内作業とが大部分でした。特に危険度の高い高所におけるさく岩系統の作業、多湿で粉じんの多い坑内さく岩作業および積み込み作業など、作業環境は概して不良でした。経営主体が小規模で、半封建的な労働関係でした」 。
現在の東亜セメント白崎採掘場跡には公園が出来、見た目にはきれいに整地されています。レストラン、キャンプ場、スキューバーダイビング教室などの施設もあり、まさに観光スポットとなっています。そこには、かつてセメント採掘所であることや、過酷な労働を虐げられた人々の歴史的な立て札もなく、以前ここに何があったのかも知らない人々であふれています。