45話 もう一つの偽装

最終手段というものは、いつも用意しておくべきだと、なんとなく思う。それは、渡晴にすら見えなくなるような状態を作り出せること。それは、霊感保持者ですら感じなくなるような状態になれること。その姿を完全に隠す……、この状態は恐らく、誰にもいることを見破れないだろう。
私がいなくなった後の世界を、少し見たかった。それが本音。本当は、二週間ではなく、十五日間いることができた。それが真実。渡晴には悪いけれども、この最後の一日だけは、彼に見られるわけにも感づかれるわけにもいかなかった。

朝、渡晴はいつもと同じ時間に同じように起きた。彼は、鳴り響く目覚ましを止めるために、ベッドから静かに起き上がる。止めてから、カーテンをゆっくりと開ける。
「雨か……」
そう呟く彼の声が、愛しい他は何もない感情を生み出すのだった。彼は一人、台所に立つ。部屋は静かで、ただ、彼の朝食を作る音だけが響く。いつもと同じように、卵の割れる音がして、それがフライパンの上で焼ける音がする。静寂の中に響くその音は、渡晴だけでなく他の色々なものを呼び起こしていた。

雨の日はどうも気分が優れない。時間がものすごく長く感じる。それも、あの日に雨などが降っていたからだと、少し天気に対して癪になる。かといって、その感情の当て所など何処にもないのだけれども。一方、雨などにめげることのない渡晴は、傘を差しながら、駅へと向かって歩いていく。空にはうっすらとした雲が掛かっていて、それが静かな雨を降らしている。見たところ雨はもうすぐ止みそうで、中には傘を差していない人もいるほどだった。

窓の外をぼんやりと眺める渡晴がいる。講義は刻々と進んでいるのに、彼にはそれもどうということはないのだろうか。あれから、雨は止んで、空は晴れていたけれども、私の心はそれほど晴れることもなかった。昼食の時、テーブルに最初に来たのは渡晴で、彼は椅子に腰掛けて本を読んでいた。しばらくして、そこに茉子がやってきて、彼にこう話しかけるのだった。
「渡晴くん……?」
椅子をひきながらそう言う彼女には、昨夜の面影はなく、どこか不安そうな表情さえ見えた。
「今日の放課後って……、時間、あったりする?」
彼女は、何故か恐る恐るそう尋ねる。
「あるけど……、それがどうしたんだ?」
それに対して、渡晴は至って平然に答えた。
「えっ、その……、ちょっと話したいことがあって。放課後に……、センターホールに」
「ああ、わかった」
“話したいこと”……。
今更、茉子が呼び出してまで渡晴に話したいこととは、なんだろうか……。

その日の放課後、渡晴は約束のセンターホールに来ていた。茉子は、その隣に座っていたが、俯きになっているのでその表情は分からなかった。渡晴は、そんな茉子を少し心配げに見ているけれども、その場の空気は一行に流れる気配がなかった。渡晴が空を眺め、何かを考えているかと思われたとき、
「あの……」
俯きながら、何かを言い出そうとしている茉子がいて、渡晴はそんな彼女が次に発する言葉を待っていた。
「えっと……」
それから、辺りには物音がしなくなったが、しばらくして茉子は思い出したかのように続けた。
「渡晴くんに、お願いがあって……」
「うん……」
茉子が渡晴に願うこと……。私は、渡晴よりも彼女が次に言う言葉を待っていた。
「私と……、本当に付き合って欲しくて」
それを聞いて、私は違和感を覚えずにはいられなかった。
“付き合って欲しい”……?
二人は、私が去る以前の、あの時から付き合っていたのではなかったのだろうか。だとすれば、あのデートにしても、単なる見せ掛け……?
……。
渡晴と茉子は、私に嘘をついていたのだろうか。なら、それは一体何故……? だが、私がそう思うことも気に留めず、ことは進んでゆく……。
「……うん」
渡晴は、静かにそう呟いた。茉子は、それを聞き、静かに顔を上げて、渡晴に尋ねる。
「本当に?」
訊くまでもなく、本当のことだろう。でも、そうやって茉子が訊きたくなるのも、何となく分かる気がした。三年と半年、今まで言えなかったことに対する答え。それが、確かなことだと、自分に対して言い聞かせたい。より真実味を帯びた答えを聞きたい。そんな風に彼女が思うことも、もっともだろう。
「うん、本当に」
彼は、まるで自分自身に言うかのようにそう言った。
……結局、私は二人に騙されていたのか。私はそれが少し癪になって、外に舞っていた葉っぱのうち一枚を、円を描くようにして飛ばしてみた。
「はぁ……」
一つ溜息をついて、再び二人の方に向き直すと、いつの間にか茉子が渡晴に抱きついていた。
「……ありがとう」
茉子が渡晴の耳元でそう呟く。
「……はぁ」
それを見ていた私は、さっきとは別の意味で溜息をつく。私は膝の上に肩肘をついて、二人をぼうっと眺めてみる。
そうすると、何かやるせない気持ちになった。もやもやしたような気持ちで、あの時の感情がぶり返してくるようだった。今更、私の言葉すら彼には届かないのだけれども。

「ごめん……」
しばらくして、渡晴はそのままの格好で、そう漏らした。
「えっ?」
彼女はそう言って彼から離れる。恐らく、突然謝られて驚いたのだろう。もちろん、私にも彼が謝る理由は分からないけれども。
「あの時、茉子がそう思ってると知らなかったとはいえ、“付き合うふり”だなんて言って……」
「いや、そんなこと気にしなくていいよ。もう終わったことだし、今ちゃんとOKしてくれたでしょ?」
「うん……、でも、美久が安心して還れるためとはいえ、ごめん……」
いままでの、私が二人は付き合っていると思っていた、その約束だろうか……。……でも、茉子は渡晴にあのことを喋ったのだろうか。私が、彼女にしたお願い。
“渡晴と付き合って欲しい”。
でなければ、渡晴がこんなことを言うはずもない。安心して、還れるため……、なんて。それが、私の願いであると、知らなければ、言えるはずもない。渡晴は、そのことを全部知っていたのか……。今こうして聞いているからわかるものの、私は二人にまんまと騙されたということ……か。
「はぁ……」
私は、脱力感に苛まれて、何もやる気が起きなかった。確かに、二人はこうして、私が願っていたように付き合うことになったわけだけど。それほど、人の気持ちを動かすのは難しいということなんだろうか……。
「渡晴くん、ちょっとこっちに来て」
「う、うん……」
茉子に呼ばれた渡晴は、茉子との間を詰めた。茉子は、その渡晴を自らの腕の中に優しく柔らかく包み込む……。渡晴は、その茉子に応えて、自らの腕で茉子を軽く包み込む……。
「やっぱり、こうしていられることが、渡晴くんといるって思えるよ……」
茉子はそう言って、自らの瞼をゆっくりと下ろす。そこから、僅かに流れ出たものを見たのは、私だけかもしれない……。

この最後の一日、私にとって、意味があるものだっただろうか。真相は分かったけれども……、いや、騙されたまま去るよりは、ましだろう。私も……、茉子の誕生日に贈る手紙に書こう。今日の日のことを……。

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