44話 もう一つの物語

放課後。空は、快晴とまでは行かずとも、晴れ間を覗かせていた。雲の隙間から覗く太陽は、今日も相変わらず燦々と輝いていて、直接見られることを拒んでいた。流れる雲は白く、朝方の雨を招くような雲はもういなくなっていた。僅かに吹く風に木々は靡(なび)き、落葉樹はその露わな姿を晒していた。
「……」
茉子はただ徒に俯き続けるのみで、僕からは僅かな陽に輝く彼女の黒髪しか見えなかった。

話を朝に戻す。大学に着いて、改めて今日の登校は暇だったなと思い返す。美久が戻ってきたあの日には、朝の電車の中には茉子がいた。あの日から、一度しか朝の電車では出会っていないのだけれども、その理由は恐らく水曜日であるということに由来するのだろう。ただ、今日も水曜日であったけれども、彼女と朝の電車で出会うことはなかった。乗っていた車両が異なったのか、若しくは、他に何か事情があったのか。それにしても、美久のいない登校というものはこんなにも暇だっただろうか……。

今日は、本来ならば、美久と講義が重なる日。それは二時限目で、僕が彼女と付き合うようになってからは、彼女は講義では僕の近くの席に座っていた。それまでの彼女は、僕が座った位置から相対的に見て特定ではなく、誰か別の、おそらくクラブの友達だと思われる人と座っていた。
そんな二時限目に、僕は隣に座っていたはずの彼女をぼんやりと想い、晴れた空を眺めながら彼女の旅立った場所について考えてみるのだった。

天国というものは、一体どこにあるのだろうか。空高くにあるとすれば、宇宙とはどちらが遠くにあるのだろうか……。
宇宙に行くならば、今の時代はロケットに乗っていく他はない。それ以上の技術は、これから先の時代が順々と築いていくものだろう。
一方、天国に行くならば、(その存在が本当にあるとして)単純に命が尽きればいいだろう。ただ、そうすることに伴う苦しみだとか悲しみだとか、そういうものを全て背負っていくに違いない。だからこそ、現世に思い残すことがあった美久は、ああやって戻ってきたのだろう。
天国へは場合によっては一瞬で逝けるが、この世に思いを残すのだから、決断には時間を要するはずだ。宇宙へは場合によっては高額で行けるが、この世に思いを残すことなく、決断よりも個人の能力が問われる。生きて行けるという点に関しては、宇宙は僕らにとって近い場所にあり、天国よりもよっぽど身近な存在だ。
しかし、決断する時間と、能力を身につけお金を用意する時間を考えれば、天国の方が近いのかもしれない。人間の社会とは、成功には時間がかかり、没落にはそれほどの時間は必要ないのだから。

普段は、茉子と重なる講義がない時でも、移動している最中に彼女とすれ違うことは多かったし、そのときにはある程度言葉を交わすこともあった。しかし、今日はいつもと違い、講義の移動中にその姿を一度も見ることがなかった。二時限目くらいまでは、それを不思議に思うまでに止(とど)まっていたが、さすがに三時限目となるとそのことを心配に思う他なく、僕は今日の朝の自分を反芻して、何処か彼女にそうさせるような非がなかったかどうかと考えてみるのだった。

僕が食堂に来た時、そこにはまだ二人の姿はなかった。聡司が遅いのは当然として──その理由は一度も聞いたことがないが──、茉子とは互いに早かったり遅かったりだった。今日は、僕が早いのだろうか。少し心配になりつつも、僕は適当に空いている席に座って、持ってきた本を読みながら、彼女が来るのを待った。

それから二、三分ほどして、茉子はやってきた。その姿はいつもと至って変わらないように見えるのだけれども、何か微妙に違和感があった。それが微妙であるが故、僕には余計に引き立って見えてしまっていた。
「渡晴くん……?」
彼女は椅子を引きながら、僕に恐る恐るといった雰囲気でそう話しかけてきた。僕は返答の代わりに、本から目を離し彼女の方へと遣った。
「今日の放課後って……、時間、あったりする?」
「あるよ。それがどうしたんだ?」
「えっ、と……、ちょっと話したいことがあって。放課後に……、センターホールに」
“ちょっと話したいこと”か……。
「ああ、分かった」
それから、茉子は聡司が来てもあまり喋ろうとはしなかった。そうである理由は定かではないけれども、この誘いは何故か高校での幽霊の件を思わせるものがあった。

そうして、僕らはこのセンターホールにいるというわけだった。空は、僅かな晴れ間を雲の隙間から見せていた。きらきらと輝く太陽は、雲と共に光のカーテンを成していた。雲は、透き通ったような白さで、混ざることのない純粋な白だった。かすかに吹く風は、木々を静かに揺らし、雲の間隙の姿を変えていた。
「……」
彼女はあれからずっと黙り込んだままで、顔を上げることもなく、ここにはただ、何もないような時間が過ぎていた。
「あの……」
僕が、これから起こることに色々と考えをめぐらしている時、彼女は突然そう言った。
「えっと……」
そう言ってから、そこにしばらくの間があった。
「渡晴くんに、お願いがあって……」
「うん……」
彼女はその俯いた頭を少しだけ上げる。それによって僅かに揺れた黒髪が、光の反射する方向を変えて輝く。
「私と……、本当に付き合って欲しくて」
そのとき、彼女の中では、時間というものは恐ろしくゆっくりと流れていたに違いなかった。

“本当に”……。
その言葉にこめられた意味を、その言葉が引き出す思いを、その言葉の深意を……。高校の時の彼女のセリフが自ずと思い出される。
“もし、二人とも受かったら……、一緒にお昼食べるって約束してくれない?”
当時は、付き合いたいということが彼女の真意だと思っていた。予めそうまでして約束しておきたい理由は、それしかないと思っていた。でも、大学に入って、二人で昼食を食べるようになり始めると、彼女はただ、その場を楽しむといっただけで、それ以上は何もしなかった。
もしかしたら、あれはその言葉以上の意味を持たない単なる約束だったのかもしれない。何も変わらない彼女を見てそう思うようになり、あの頃真意だと思ったことを自らの自惚れだと思っていた。そう、それは単なる約束……、そうすること以上に束縛を持たない、純粋なもの。そうだとばかり思い、僕は茉子の紹介を受けた美久に告白をしたのだ。
よく考えれば、美久と付き合うことを告げた時の茉子の様子……。細かいとはいえども、それは何処かいつもと違っていた。そこに、何かあることを、僕は気がついているべきだったのだろう。それならば、美久が茉子にあんな頼みをした時も、僕は“ふり”などという酷いことを言わなくてもすんでいただろうから。だから、茉子は言うのだ、“本当に”と……。

「……」
僕は、決断を迫られていた。彼女に対して、いかなる返事を返すか。その遅延は、いままで僕がやってきたことと大して差はないように感じていた。今、彼女がこうして言うことも、遅れたものの蓄積……。彼女の言葉は、高校の三年間、そして大学に入ってからの半年ほどを、踏まえて……。でも、彼女の掛ける想いに同情する形では、何も得られないような気がする。僕自身が、彼女に対してどう想っているのか。恐らく、それが一番大切なのだろう……。

僕の高校における彼女の位置づけは、親友だった。信頼の置ける、唯一無二の存在。そう言っても全く過言ではなく、僕は彼女と……ずっといたいと思っていた。
でも、彼女と付き合いたいというわけではなかった。それは多分、僕が深さではなくて長さを欲しいと内ながら思っていたからだろうと、今思う。付き合ったのちに、別れの時が来るのを恐れていたのかもしれない。友達として付き合った方が、長く続くと思っていたのかもしれない。美久がいなくなった今、そう思うことはさらに強く……。
僕は、どうあっても彼女を失いたくはないと、そう想っていたのだろう。彼女といる時間が、恋人としてではなく友達としてあれども。形を問わず、ただその状態が長く続けばいいと思っていた。
ひょっとすると、彼女に対する恋愛感情は、抱かなかったのではなく抱けなかったのかもしれない……。

僕は彼女を直視できていなかった。彼女はやや俯き加減で僕の方を向いていたけれども、僕の目に映るのは髪の間から見える額のみ。辺りには静寂があって、彼女の中に流れるのは緊張と不安が入り混じった感情……。
今、この時に行動を起こせるのは、僕しかいなかった。
「……うん」
僕は、静寂を破るのに、この程度の言葉しか出せなかった。それを聞いた彼女は、俯いていた顔を上げて、僕の顔を覗き込み、問う。
「本当に?」
単に念を押しているだけ。そうだと分かっていても、彼女のその言葉は僕の胸のうちに大きく響いていた。
「うん、本当に」
自分の言った言葉が、まるでエコーでも掛かっているかのように、頭の中にひどく響いていた。風が吹く窓の外では、一枚の葉っぱが風の中に踊っていた。その葉っぱが一つの円を描いた時、彼女は僕を軽く抱いた。
「……ありがとう」
びっくりする僕をよそに、彼女は耳元で微かにそう言って、僕を包む手に少し力をこめた。僕はただ、そんな状況の中で、何一つ身動きすることも言葉を発することもできなかった。

いつの日か、僕が美久と付き合っていたことを、その美久が天国から還ってきたことを、そして茉子がこうして告白したことを、二人で語る日が来るのだろうか。あるならば、それは一回でなく何回も、一分ではなく何分も、一日ではなく何日も、語り合いたいとそう願う。

←43話 45話→

タイトル
小説
トップ