43話 もう一つの節目

「逝っちゃったね……」
軽くブランコに揺られる茉子はそう言った。
「ああ……」
上辺だけで彼女に返事を返していることが、よく分かった。
目の前には、友達の茉子がいて、幾らか吹く風に髪をなびかせていて、僕を見ていた。そんな彼女の目に、僅かながらも涙が浮いているのが見える。何故か僕にはそれが僕自身に向けられているように映って、少し辛かった。
「そろそろ、戻ろう」
彼女は、その涙で潤んだ目で僕の目を見て、言った。
「そうだな……」
僕は、今になって自分の元気がなくなっていることに気がついた。

「今日は、帰るよ」
彼女は僕の部屋に置かれた自分のポシェットを持って、ベッドに座る僕にそう言った。
「うん……」
今日は……、か。今考えれば、あの時の彼女は、何か特別な思いを秘めて、僕の家に泊まったのだろう。もちろん彼女が言うホームシックというものも、あったのかもしれない。でもきっと、それ以上の気持ちこそを込めて、あんな風に言ったのだろう……。
茉子は、その場から静かに歩き出し、玄関の方へと向かう。足音だけがする空間に、扉の開く音がするのはそう遅くなかった。

僕は、ただ、そんな彼女の気持ちすらも汲むこともできなかった。彼女が、その心を僕に許し、僕に信頼を寄せるように。彼女が、その隣を僕に許し、僕に身体を寄せるように。僕も、彼女に対して、誠意を持って付き合っていかなければ……。

僕は、自分ひとりのために湯を入れた風呂に浸かりながら、ぼんやりと美久のことを考えていた。
もしかすると、彼女は僕のためではなくて、茉子のためにこの世に戻ってきたのではないだろうか。彼女の気持ちになかなか気がつかない僕を見て、自分こそが気がつかせなければと思ったのではないだろうか。いなくなった自分自身の代わりという考え方ではなくて、自分がいなくなったそのときこそせめて茉子にはその気持ちを叶えてもらいたいと思ったのではないだろうか。僕ではなく、茉子のために……。
料理を始めたことも、僕自身が言い出したことで、美久が最初からそう思っていたわけではなかった。彼女は、戻ってくる前に、それを意図したわけではなかったのだろう。ただ、僕の料理ができるようにならねばという気持ちに、彼女が応えてくれただけ……。そうでなければ、最後に“茉子のことを頼む”なんて、言わないだろう。もしかすると、彼女は、僕に茉子のことを托したのではないだろうか……。

自分ひとりがいるアパートの一室で、いくらベッドに入れども、その隣には誰もいるはずがなかった。ここのところ、隣に美久がいたせいなのか、このベッドをやけに広く感じていた。そのベッドの上で大の字になって、ぼんやりと天井を眺める。部屋は暗く、いつもに増して静かだった。静寂を保つその空間に、ただ視線は漂うばかりで、定まることもなかった。美久が再びいなくなったからといって、今更悲しくなることもなかったのだけれども、何処か背中が寂しいと思っていた。

「渡晴くんって、もしかして……」
目の前には、水中を泳ぐ魚がいた。休むことなく行き交うその姿に、水の中を自由に行きかうことの憧れを感じていたけれど、それとは逆に彼らはこの先ずっとここから出られることはないのかとも思っていた。
「僕が、何?」
隣から喋りかける声に、僕は目の前を通り過ぎた魚を目で追いながら応えた。
「やっぱり、別にいいよ……」
魚から目を離し、隣にいる彼女を見て、僕は再び問いかける。
「僕が、どうしたんだ?」
「別に……、訊くほどのことでもないから」
答えにならない答えを返して、彼女は大きな水槽の中を見ていた。
「……」
仕方なく、僕は再び水槽へと目を戻す。そこでは、上から射す光が、水の中で仄かに揺れていた。

気がつけば、部屋は十分に明るかった。傍に置いてある時計は、未だ目覚まし時計としての役目を果たす時を待っていた。時間まで、あと数分……、そう思いながらうとうととしていると、待ってましたとばかりに目覚ましはその音を立てた。重い上半身を起こして、僕は鳴り響く時計へと手を伸べる。その音を止めて、部屋には再び静けさが戻った。ベッドの上で軽く伸びをして、面する壁のカーテンを開ける。外はしとしとと小雨が降っていて、薄曇の状態だった。
「雨か……」
誰もいない部屋で僕は一人呟いた。

久しく自分だけのために作った朝食を食べて、僕は傘を持ってアパートを出た。短距離ならば傘を必要としない程度の雨の中、駅までの道を、僕は傘を片手に往く。ふと見上げた空は少しずつ晴れ間が広がり、ここももうすぐ雨が止むだろうと思われた。

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