42話 Fin 〜旅立ち〜

「はい、これ。渡晴くん、誕生日おめでとう」
「うん。ありがとう」
僕は茉子からそれを受け取ると、質感を感じて、その中身を推測する。この大きさでこの重さだと、本だろうか。茉子に促されてその包装を解いた先には、予想通り一冊の本があった。それは料理の方法や食材について書かれている、所謂お料理ブックだった。恐らくは、僕が美久に教えてもらって料理を始めたことで、より精進して欲しいということだろう。
僕が当初美久から料理を教えてもらおうと思ったその目的は、彼女が心配しないようにせめて三食が作れるようになろうと思ったからだった。けれども、最近はどちらかというと彼女のためではなく自分のためとなって、それを生活のうちにどう生かすか、ということも考えなければならないように思えてきていた。
今知りうる限りの範囲だけで終わってしまっては、いくら美久が教えてくれたものだとしても何処かで飽きが来る可能性も勿論否めない。バラエティを増やすということは自分の知る範囲を広くするということ──料理でいえば知りうる料理の世界が広がるということだろう。それだけ新しいことを知ることもできるし、そこに生まれる発見も以後に生かせる。その取っ掛かりになればいい。
「茉子も料理関係か……」
美久がそう言って、茉子の顔を見る。茉子はそれに意外そうな顔をして、
「えっ、美久も?」
「うん。そのために昼休みに屋上に行っていたんだから」
彼女はそう言って、包装紙に包まれたそれを僕に手渡した。それは、茉子のものとはヤケにこじんまりしていて、小さなものだった。そして、質量もそれほど重くなかった。僕は包装を静かに──紙が破けてしまわないように丁寧に剥がして、中に入っているものを確認した。
そこには数冊のメモ帳が入っていて、そういえば以前買い物に行ったときに美久がこんなものをかごに入れていた気がする。それに包装紙にも見覚えがあった──一箇所破れてしまったけれども。僕が買った包装紙に包まれた、僕が買ったメモ帳……。つまり、メモ帳に何か書かれているということだろうか。
僕は、その一冊目の表紙をゆっくりとめくり、中に書かれていることを確認する。
「せっかく食べるのなら美味しいものを食べたいでしょ?」
メモ帳の中には、まず“ごぼう”と丁寧な字で書かれていた。それから数行下に“細く、しならないもの”と書いてあり、その下に“きんぴら、掻揚げなど”と書いてあった。そこからさらに一ページめくると、そこには“大根”と書かれていて、同じような説明が書いてあった。二冊目の表紙をめくると、そこには“ハンバーグ”とあり、その下に材料が書かれていた。三冊目も同じように料理の作り方が書かれていて、各事項について事細かに書いてあった。
「これを、屋上で?」
「うん。二週間では教えられなかったことも多かったし、せっかく渡晴がやる気になるなら、助けになれたらと思って」
「ありがとう」
言うだけ言ったというわけではない。ただ、それだけの言葉しか頭に浮かばなかった。
「いや、礼には及ばないよ。私もちゃんと誕生日プレゼント貰っているんだから。ちょっと早かったけどね」
「僕は何も……」
その名を告白という。今思えば、告白された後には、彼からはそれ以上何も求めてはいなかったかもしれない。告白という事実だけで、彼から貰うのは十分だったように思うのだ。待ち侘びていたわけではないけれども、彼の決意だけで私には十分だったと思う。
僕が、美久に誕生日プレゼントなんて、あげることができただろうか。当日に突然誕生日の存在を茉子に聞いて、彼女に言葉を掛けることしかできなかったというのに、彼女は一体何を貰ったと言うのだろうか。
「……分からないなら、別にいいよ。わざわざ言うほどのものでもないから」
私は僅かばかり頬を赤らめてそう言ったけれども、渡晴はそれに気づいてはいないようだった。
敢えて理解は求めないということだろうか。すると増して、その正体を問いたくもなるのに……。
「そう言えば、茉子の誕生日も二ヶ月後だったよね。もし、何か送れたら送るよ」
「えっ、そんなことできるの?」
「うん、まぁ。でもあんまり期待しないでね? できることも知れているから」
「う、うん……」
今ひとつ、天(あま)の国と現(うつつ)の国の繋がりが分からないものの、今そのことを考えても仕方ない……。
地上へ戻る誰かに頼んで持っていってもらえば済むことだった。わざわざ幽霊であるのに歩いたり空中を飛んだりしているけれども、本来は移動なんて空間をすり抜ければいいだけのこと……、ただ、それが人間離れしているから、私はその使用に気が引けていたのだ。私が渡晴の部屋に来たあの日、朝の時点でここにいなかったのは、他から色々と用を頼まれていたから。還れずに思いを寄せる人たちに、せめてもの敬意と感謝を……。
「それじゃ、食べようか」
彼女はそう言って、僕らの顔を見る。そこには何か安堵の表情があるような気がした。
「うん。今置いてくるからちょっと待ってて」
僕は貰った二人分のプレゼントを持って立ち上がり、自らの部屋へそっと持っていった。
食べ終わり食器を片付けた後、僕らはリビングのテーブルに向かい合って座っていた。美久は今日限り──つまり、十二時まで現世に居られるらしい。明日になれば、再び天へと還る……、そここそが本来彼女のあるべき場所なのだろう。
「私が帰った後、渡晴のことは茉子に任せるよ」
知らないことは罪で、知らせないこともまた罪なのだろうか。それにこめられた意図を、美久は真実を知ったときに受け入れてくれるのだろうか。もっとも、そんな時は来ないだろうけど。
「うん。渡晴くんのことは私がちゃんと見てるから」
何か間接的な意味にも取れるその言葉に、美久はそれほど疑問を抱いてもいないようだった。
「それだけが気がかりで戻ってきたようなものだしね……」
いわれた当の本人は、思い当たる節が幾つもあり、まるで辱めを受けているようだった。
時間というものは、欲とは反対に働くものだ。多くなって欲しいと思えばそれは短くなり、短くなって欲しいと思えばそれは長くなる。在って欲しい時間はそれほど長く続かず、要らない時間が異様なほどに長く続く。それは、人としての性なのだろうか。それとも、ただ、存在する時間の長さを認めることができず、それ故に多くの時間を欲するのだろうか。どちらにしても、人は時間に関して貪欲なのかもしれない。この日の夜はあっという間に過ぎていった。
「そろそろ、時間かな」
美久がそう言った時、時計の針はいつの間にか十一時三十分を差していた。
「夜も遅いけど、外へ行こう。ここじゃ、なんだし」
彼女はそう言って立ち上がり、一人、玄関の方へと歩き始める。僕は、その後姿に淋しさを覚えながら、掛かった防寒着を取ってそっと羽織る。茉子は、美久がそう言ってからもしばらく席に座ったまま立ち上がらなかったけれども、美久が再び促すと、慌てたように立ち上がって、防寒着を羽織った。
美久はというと、思いの他、至って平然としていた。ここへ来た時と同じ、あの黄色いTシャツで。
美久が来たのは、あの公園だった。
僕が彼女を求め、探し回ったあの日に、彼女がいた場所。
懐かしくも、朝早くに散歩と称すデートで、立ち寄った場所。
そこにはあの日と同じようにブランコが置かれていて、美久はそれの一つに腰掛けた。僕と茉子は、夜風に晒されたブランコの囲いに隣り合わせに座っていた。そこは、少しだけお尻が冷たかった。
「もう今日も、そろそろ終わりだね」
軽くブランコを揺らしながら、彼女がそう言った。
「う、うん……」
茉子はあまり元気もなくそう返した。
「茉子も渡晴も、もっと元気出してよ。私も、そんな顔でお別れするなんて嫌だよ?」
「うん……」
再び茉子が浮かない返事を美久に返す。僕はただ、強がっていたものが開(はだ)けて、この状況に居た堪れない気分だった。いつかは来ると分かっていた別れを、数日前では──いや、さっきの夕食の時でさえも快く受けるつもりだったけれども、今はとてもそんな気分になれなかった。まるで隣に座る茉子に共鳴したかのように、僕さえも冷え込んでいた。
「……私だって、勿論淋しいよ? でも、これが最後だって分かっているなら、せっかくだし笑って別れたいじゃない。渡晴もさ、そんなに沈んでないで。ね?」
彼女の言おうとすることは分かる。あの時とは違って、今度は彼女とはまともに別れられるのだから。ちゃんと挨拶も交わすことができるし、後に言葉を残すこともできるのだから。その別れを、後悔のないものとしてしっかりしたいと、彼女はそう思っているだろうし、僕もまたそうだ。茉子もきっと、そうだろう。
「おう……」「うん……」
空元気だったかもしれない。ただそう答えるのが、精一杯だったのかもしれない。それでも、今から旅立つ友に、彼女に、そうやって答えたかった。ふいに、彼女はブランコから立ち上がって、茉子の前に立った。僕からはその横顔だけが覗き、やはり俯き加減の茉子は数秒の間を空けて美久に気がついた。美久は、その両手で茉子を包み、軽く彼女を抱いた。
「ありがとう」
美久が茉子に対してそう呟くのが聞こえた。
「ううん、美久こそ、ありがとう……」
涙声でそう言う茉子の声が聞こえる。彼女もその両手を美久の背に添えていた。何処か遠くで、自動車の走る音が聞こえて、夜空で、星が瞬いた気がした。
しばらくして、茉子の元から離れた美久は、僕の前に立っていた。
僕は見上げた星空に一機の飛行機を見つけて、美久へと目を落とした。僕と目が合った彼女は、顔に笑みを浮かべていたけれども、それはどこか不自然な笑みだった。
「ここへ来るのも、散歩の時以来だね」
彼女はそう言って、僕の背にその両手をゆっくりと回してきた。
「うん」
彼女の背の向こう側には、さっきまで彼女が座っていたブランコがあって、そこにはいつの間にか代わりに茉子が座っていた。茉子は空を仰いで、目に薄く涙を浮かべていた。僕は美久の背に回した腕に少し力を入れて、ここに彼女の存在があることを確かめる。彼女は確かにここにいて、僕の腕にしっかりと収まっていた。もちろん、僕も彼女の腕の中に収まっていて、そこからは仄かな暖かさが伝わってきていた。
「茉子を、頼むよ」
彼女は僕の肩の上で、静かな声でそう言った。
「茉子は、ああ見えて結構無理している気がするの。いろんなことを自分の中に押さえ込んで、一人で解決しようって思う方だから」
「うん……」
それは、言われなくても分かっているつもりだった。今までもそうであったし、彼女は自分の気持ちを素直に表に出さないから。
「渡晴のことが好きなことだって、一人でずっと抱えていたみたいだし。渡晴がしっかりしないとね」
それは、今更驚くことでもなかった。 “やっぱり、そうだったのか”と、不明確なことが明確になっただけだった。
しかし、“でも……、”と、冷静に考えてみる。茉子が僕のことを好きだとすると、美久が茉子にした頼みの、僕の判断は……。僕は、彼女に対して、なんてことをしたのだろうか。あの時の彼女の戸惑いは、そういうことだったのか。楽観的な僕の考えで、彼女の思いもしなかった僕の答えで、彼女を思い遣らなかった僕の言葉で……。
一昨日の茉子は、一体どんな気持ちで、僕と行動を共にしたというのだろう。僕は、あまりにも不甲斐なかった。あの提案は、彼女にとって、あまりに残酷なことだった。付き合う “ふり”だなんて、彼女にとってどれほど苦痛なことだろうか……。
「ありが、とう……」
僕は、自分に対する嫌悪感と、美久が去るという寂莫感でいっぱいになっていた。
「いや、お礼なんて。私が戻りたくて戻ってきたんだから。私こそ、ありがとうって、渡晴に言いたいよ」
彼女は後半涙声でそう言った。
「……そろそろ時間かな」
彼女はそう言って、僕から離れた。
「時間みたいだし、そろそろ還るよ」
「……うん」
美久の向こうでそんな声がする。僕はそれを聞いて、胸が締め付けられるほどに痛かった。
「それじゃあ渡晴、そろそろ逝くね」
「おう……」
笑顔で言う彼女に、僕は自然と顔の筋肉が弛緩する。彼女はブランコとその囲いとの真ん中辺りに立った。そして、僕の顔を見て、軽く笑みを作った。
「茉子の誕生日、茉子に手紙を送るよ。そのときまで、待っててね」
僕は返事をする代わりに、彼女に小さく頷いた。
「それじゃ」
美久はそう言って手を握ると、まるで手品のようにそこから消えた。

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