39話 憑かれるものの想い

「実は……、渡晴とは、もう今日と明日しかいられなくて……」
それを聞いた僕は、まるで平静を装うかのように、目の前にあるコーヒーを飲んだ。なんとなくそんな気はしていたけれど、本当だったことに対して、僕はそれくらいしかできなかった。
飲んだコーヒーの味はほろ苦く、どこか寂しい味がしていた。ブラックだったということもあるのだろうけれども、理由はそれだけではないような気がした。
「そうか……」
「うん……。ごめん、三日前には言うって、そう約束してたのに」
「いいよ。茉子とのこともあったから、気が動転していたのだろうし」
もっとも彼女は、茉子が本当のことを僕に告げたことを、知らないだろう。僕と茉子が付き合っているのも、僕の"役"であって、偽装されたものであるということ──、ただ、それを美久が知ってしまっては、彼女の本意を無駄にしたことになるだろうと思う。
しかし、茉子は……、"役"の下で付き合う状態であるというのに、あの映画館にしてもどうして僕にもたれてきたのだろうか。もし彼女が僕にもたれたくて──つまりは美久に対する腹癒せではなくて、ああしたのならば、その理由として思い浮かぶのは、茉子が未だに僕を……。
「渡晴?」
「えっ、な、何?」
突然名前を呼ばれたことに対して驚いている僕と、それに対してふくれっ面をしている彼女が、いた。
「ちゃんと人の話、聞いてる?」
「ごめん……」
「今日と明日の二日……。今日はもうすぐ夕食の時間だけど、あとたった二日だけなの。だから……、何かしたいことがあるなら、何でも言って」
そう言われて思いつくことは、それほど多くなかった。
「明日の夕食は、私に全部作らせて」
彼女は、夕食を食べている時にそう言ってきた。
「喜んで」
「あと……、茉子も呼んで欲しいんだけど」
「うん、分かった。どのみち連絡しなきゃならないし」
「うん……。あれから、一言も話してないけど……」
あの時何があったのか、それは美久もあまりよく分からないとのことだった。だから美久も、茉子に対してなんと声を掛ければいいのか分からないのだろう。
一昨日、茉子の家から帰ってきた後のことで、茉子は突然隣の部屋から駆け込んできたけれども、何も教えてはくれなかった。あれから茉子は怒っている風でもなかったけれども、美久に対しても怒っていないのだろうかというのは、そうだと言い切れなかった。ただ、昨日茉子も美久に話したいと言っていたことは確かで、もしかすると茉子も美久と同じ気持ちなのかもしれないなと思った。
「多分、茉子も話したいんだと思うんだけど」
「そう?」
彼女は、首を傾げて僕にそう尋ねる。
「うん。あの──」
僕はその続きを言うのに少し躊躇して、
「──映画館に行く時に、美久と話したいってそう言っていたから」
言葉を選んで、そう言った。
「昨日の、デートのときか」
「うん……」
躊躇も虚しく、美久は伏せた言葉も遠慮なく言ってしまった。
「……渡晴、一つ質問していい?」
「うん?」
「渡晴は、茉子と付き合って、よかったと思う?」
「……」
そう言う彼女に罪悪感があって、僕はその答えを返すことができなかった。付き合っているわけではなく、美久に安心して欲しいと気を遣ったがための状態に対して、僕が"よかったかどうか"の感想を言うことなど到底……。
「どうかした?」
「いや、なんでもないよ」
「ほんとに? 何かさっきから上の空だから……」
「うん。大丈夫だから」
「それなら、いいんだけどね」
そう言ってぼんやりと空を眺める彼女は、どこか淋しげに映り、そのせいか、僕も寂寥の感を抱いていたのだった。
彼女が帰ってきたのは、九月の十五日。今日が九月の二十七日であるから、明日でちょうど二週間になるのか……。つまりは、彼女の現世での滞在期間は二週間で、彼女はそれを期限として天国に帰ることになる、ということだろう。
彼女は、最初からそのつもりで来たのだろうか。それとも、目的──僕と茉子を付き合わせることが達成された後に帰ることにしていたのだろうか。
その期間は、目的を確実に達成するために十分なものだったのだろうか。美久が、茉子に頼んだ願い……、それを美久が僕のために為そうとしたことについては、死してまで僕を想う彼女に感謝すべきことであるけれども、戻ってきた目的が他のことではなく茉子に頼むことであったわけも、頼む相手が茉子であったわけも、恐らく僕には誰かを介さない限り永遠に分からないだろう。
彼女には、あれを言うわけにはいかないのだ。彼女に対して隠し事をしている……、それでも些か罪悪感があるけども、それも美久のためだと思ってこそのものだ。知らない方がいいこともある……。そう言うと、聞こえはいいだろうか。ただ、今は徒(いたずら)に彼女を騙すわけではなくて、これも彼女が安心できるように……、彼女がここへと戻ってきた本来の目的に対して満足がいくように……、彼女に対してそうしてあげたいと、僕は切に願う。
ところで、美久がこの世からいなくなってから彼女が現世(ここ)へ戻ってくるまでの間、僕はただ彼女を失ったことへの悲しみに打ちひしがれていたけれども、今はそんな感覚はない。それは、"今、彼女がここにいる"ことにも起因するのかもしれないが、それとはまた別の理由もある気がするのだ。
きっと……、彼女が明日、この世から再び旅立っても、僕はそれに涙することもないだろう。彼女が去ってしまうことに対して、惜しい気持ちや悲しい気持ちがないわけではない。だが、今度はちゃんと、彼女に別れを告げて、しっかりと離別ができるような、そういう気がする。一回の事故が何の前触れもなく二人を別(わか)つような非情ではなくて、ちゃんと彼女に"さよなら"の言える別れを、彼女に対して自分の中で心の整理がつく別れを、僕は望んでいたのかもしれない。
静かなお風呂の中、僕はぼんやりとしていた。湯船に入る暖かな湯がじんわりと身体を温める。緩やかに秋の景色へと移りつつある九月の寒空の下にある僕にとって、それはまさに幸せと呼べるものだった。
美久が明日で去るという事実は……、予め知っているからこそ言えることもあるから、たとえ一日前であろうと言ってくれてよかったと思っている。三日前にという約束だったけど、美久も茉子のことで色々と大変だったのだろう、仕方ない。何にしても彼女の還りが僕のためであるから、彼女に三日前にという話が一日前になったと怒る道理はなかった。それに、去る前日に怒って喧嘩しても、何の意味もない。ただ今は、残されたおよそ一日、それを大切にすることこそ意味のあることだと思う。
風呂から出ると、美久は一杯のミルクを前にして、本を読んでいた。この空間は静まっていて、平穏だった。これも一つの平和だろうか、僕はそう思いつつ美久の前の席に座る。椅子を引く音で気づいたのか、彼女は顔を上げて僕がお風呂から上がってきたことを確認する。それからまた、本へと目を移しそのページを一枚めくった。
「──っと読み終わった」
僕はその声で目覚め、自分が寝てしまっていたことにやっと気づいた。
「渡晴、おはよう」
「お、おう……」
「それだけ寝たら、今夜はゆっくりできるでしょ?」
僕はそう言われて、テーブルの上に置いてある時計へと目を遣った。十一時三十二──いや、三十三分。針は動き、時刻は移る。時を断片的に切り出す時計は、また次の時間を示していた。風呂から上がってきたのはいつ頃だったろうか。少なくとも、三時間ほどは経過している気がする。
「美久は風呂に行ったのか?」
「うん。渡晴がぐっすり寝ている間に」
「……」
「いいの、今夜のためだもの。私は寝なくても大丈夫だけど、渡晴はそういうわけにもいかないでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「……それとも、」
彼女はそこで言い留まって、軽く僕の顔を覗き込んだ。
「一緒にお風呂に入りたかった、とか?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
ああ、今夜の美久は何を言っているのだろうか……。
「いいんだよ、別に無理しなくても」
「別に無理なんて……」
「入りたいなら入ろうよ。ね?」
"ね?"なんて可愛く言われても……。
「美久が一緒に入りたかっただけじゃないのか?」
僕は再び湯船に浸かりながら、外で身体を洗っている美久にそう問う。
「細かいことは気にしないの」
風呂の中はうっすらと蒸気が舞っていて、窓も少し曇っているようだった。
「……結局まだ風呂にも行ってなかったし、はじめからそのつもりだったんだろ? それなら、僕が入っているときに来ればいいのに」
「急に一緒に入りたくなったの。別にいいでしょ、最後の夜くらい」
未だ僕しか入っていない湯船へ、僕は顔を半ば沈めて、心のうちで"どうしたものか"と呟いた。
「はあ……、お風呂も気持ちよかったね」
お風呂上り、彼女は、僕の隣で空(くう)を見ながら呟いた。
「ちょっと狭かったけど」
僕はそれに対して正直な返事を返した。
「それでもやっぱり相手のいるお風呂って楽しいものだよ?」
至近距離にある僕の顔を見ながら、彼女はそう言った。
「それも今日で最後か……」
「茉子だって、きっと……」
「……茉子は、そういう柄じゃない気がするよ」
僕は誤魔化すかのようにそう言って、内心では"茉子とそんなことをすることもないだろう"と思っていた。
「そうかな……。ああ見えて、意外と積極的なんだけどな……」
積極的って……、どうかと思うけど。
「……長く付き合ってる渡晴に言う必要はないと思うけど、茉子は結構しっかりしてるようでも、脆いところもあるから。ちゃんと……、守ってあげてね?」
彼女は僕に向かって(相変わらず至近距離で)、心配そうに言う。
「うん。言われなくても──
そう言いながら、美久が去った後の僕と茉子の関係を、何となく考えてみるのだった。
きっとずっとこのまま。付かず離れずでいれればいいななんて。

←38話 40話→

タイトル
小説
トップ