38話 昨日の明日

階段を駆け下りてくる音も、そして、階段を駆け下りてくる渡晴も、何もかもが愛惜を帯びていた。懐かしいと思うには早すぎるのだろうが、ここへ戻ってきた頃と似たような気持ちになっていた。
空に浮かぶ朝方の月を見て、それに憧れさえも感じていた。今、この身からすれば、空高くへと行くことも簡単だけれども、彼女の在る場所──空の高くに憧れているわけではなくて、彼女の恒久的な、だけれども周期的なその輝きに対して、憧れを感じていた。ああして、地球に常に表の顔を見せながら、昼と夜を順に回って、地球の様子を伺う姿。決して、彼女がここまで来ることはできないけれども、それは常に空にあって。
……別に現実逃避をするつもりはないけれども。今ここにこうしていられることも──つまり、死んだはずの私がここにこうして戻ってくることができたことも、感謝すべきことであって、普通ならそうはいかないのだ……。だというのに、ここからこうして去ることに対して、抵抗と心配と執着が、未だ私の心にあった。

大学も、いつも通りにそこにあった。なんら変わらず、私がここの学生として通っていた頃の風景と一緒だった。
時間はゆっくりと流れて、空高くの雲も、時間の流れに倣うかのように、注視しなければ見切れないほどゆっくりと流れていた。駅から来る人も、流れに逆らうことなくゆっくりと校門を目指していた。
私と渡晴も、その流れに任せて、同じスピードで校門へと向かっていた。渡晴は、あれから"あとどれぐらいいるか"について聞かなくなっていたけれども、どこか疑っている雰囲気だけはあった。
それが言葉のない会話なのにヒシヒシと伝わってきて痛かった。

渡晴の講義中は、私はメモ帳にこの間の続きを書き連ねていた。枚数はあるから、結構持つと思う。思いつく限りを書き記して、今後の渡晴の参考になればと、そう一字一句に想いを込める。
昼食の時刻になるまで、私はただ只管に、屋上という誰も来ることのない場所で、その手記を続ける。誰にも邪魔されることもなく、誰にも見つかることもなく、ただひっそりと、書き続けることのできるこの場所で……。

昼休みも、いつもと変わらなかった。私は、手記を止めて渡晴の元へと戻ってきていたけれども、渡晴は茉子と普通に話していて、私としては些か茉子に対して嫉妬感を抱いていた。それを紛らわすかのように、私は渡晴の座る椅子の背もたれにもたれて、窓の外の風景に目を向けていた。聞こえてくる声は仕方ないと、目を瞑って……。
二人の会話は、楽しそうというような盛り上がり方もしていなかったけれども、それなりに弾んでいるようだった。聡司の方は、程よく参加しているといった感じで、私がここに戻ってきた時から比べると、溶け込んでいる方かなと思う。会話は順調に進んでいるようで、穏やかな空気で時間はゆっくりと流れているようだった。
この食堂も、いつもと同じ空気が流れて、馴染みのある雰囲気が漂う。もうしばらくすれば、この雰囲気、この空気、この感覚ともお別れ、なのか……。

午後の講義中も、私は屋上で過ごしていた。講義を聞いていても暇だということもあったけれども、それよりも、これを書けるだけ書いておきたかった。そう、これは今、渡晴にその存在がばれるわけにはいかないのだ……。ばれてもいいものなら、渡晴の隣で書いているだろうけれども……。そういうわけにもいかないから。これはあくまで彼に対する置き土産であって、それまでは彼に明かすわけにはいかない。
午後の講義も終わり、渡晴は帰路についた。私は、彼の後ろをついていくようにして歩いて──正確に言うと浮いて──いた。会話もなく、いつもの妙なやり取りもなかった。
別に、渡晴が話したい気分じゃなかったというわけでもないだろう。本当はいくらでも話したいのかもしれない。でもそれが、講義の度に私が何処かへ行くものだから、私に対して更にとっくきにくくなっているのだろう。
だからといって、度々いなくなる理由を彼に言うわけにもいかなかった。それがたとえ、彼のために書き連ねるものであったとしても、これだけは秘密にしておきたかった。何か譲れぬものがあったといえば、そうかもしれない。なんせ、経験の為すものを、彼に託すのだから……。

家に帰ってからの渡晴は、ここが自由にものを言える空間であるというのに、それでも講義中の私の不在に関しては何も言わなかった。つけたラヂオをBGMに、コーヒーを相手にして、彼は課題を片付けていた。渡晴の本を読んでいる私に対して、時々話題をふりながら。
見慣れた光景だったけれども、今日は何か違和感を覚えずにはいられなかった。何かを待たれているような、何かを期待しているような。そして、それとは逆に何もあって欲しくないような、何かを願うかのような。後者であるわけでもなく、当然の如く前者であったのだけれども、この状況で彼に話すことは躊躇われた。せめて、その課題を片付けて、落ち着いてから……。もちろん、私は読んでいる本の内容などちっとも頭に入ってこなかった。

「さて、と」
渡晴はそう言って、終了した課題を片付けていた。何か妙に素っ気無い渡晴と、いつ話すべきかと迷う私だけが、この空間にいた。
片付け終わった彼は、台所へ行って、マグカップを二つ持って戻ってきた。一つを私の前において、もう一つを自分の前において、彼は椅子に腰掛けた。
「何か、話したいことがあるんでしょ?」
「うん……」
やっぱり、感づかれていたらしい……。
「実は……、渡晴とは、もう今日と明日しかいられなくて……」
「……」
渡晴は、何も言わずに、マグカップに入ったコーヒーを一口だけ飲んだ。

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