37話 疑問心

美久は相変わらず、僕の横で寝ていた。昨日、あれから妙に拗ねていたせいか、今日は背中合わせだった。いつもなら胸元にいる彼女は、今日は背後にいる。背から仄かな温かみが伝わってきていて、それが彼女の帰ってきたばかりの頃を想い出させていた。僕は目的もなく、身体を回して、彼女の方を向いてみた。そこには、僕の一回り小さな背中があって、見慣れた僕の服を着ていた。何も思うものもなく、僕はそれをただぼんやりと眺めていた。
しばらくすると、何か不思議な力が働いたかのように、僕の手は彼女の上にあった。そして何故か急に切ない気分に苛まれて、乗せられた手に自然と力を掛けていた。
「渡晴……」
寝言らしきその声にいろんな意味があるような気が、僕はしていた。
幽霊は夢を見るのか。
その問いに対する答えは出ずとも、私は未だ夢を見たという自覚はない……。そんなことを思いながら、私は一度閉じた瞼を再び開ける。目の前には白に淡い色の文様のある壁紙があり、背後には私の上に腕を乗せた渡晴が寝て……
「美久起きてる?」
「……うん」
どうやら、既に渡晴も起きているらしい。昨日の一連があってから、私はどうも素直に渡晴と話をしようという気が起きなくて、もしかすると渡晴からは拗ねているように映っていたかもしれない。
いや、本当に、私は拗ねていたのだろう。
映画を見ている最中は、茉子がああしていても、渡晴は私を考慮などしてくれなかった。デパートを移動している最中は、茉子のことをぼんやりと見ていて、背後の私の存在にすら気がつかなかった。
そんなことを根にもっていたのかもしれない。否、付き合うようにしたのは私だと幾度となく自分に対して言い聞かせる。
そういえば、とふと思った。何かきっかけがあったわけではない。ただ、ふと思ったのだ。ここへ帰ってきてから何日だったか、と。確か、もう十三日目に……、十三日……。
はたと気づく。以前渡晴に対して、"三日前くらいには言うつもりでいるけど……"と言った。でも、三日前なんてものは、とっくに、過ぎていた。あと、二日しか、渡晴とは、いられないのに……。

「美久って、あとどれくらいここにいられるんだ?」
三日前になったら話す、と、彼女は前にそう言っていたから、もうしばらくはいるのだろうけども。
「……えっ、えっと、その」
一瞬の間があった後、彼女は何故か口ごもってしまって、言おうとはしなかった。それに向こうを向いたままで、表情を伺うことすらもできなかった。
あと、今日を含めて二日。たったの二日。
"三日前には言う"と言ったのは紛れもなく私自身であったにも関わらず、葛藤に駆られてばかりで残りの日数など気にかけてもいなかった。ここのところいつも気になっていたのは茉子のことで、それは、感謝であり、妬みであり、慈愛であった。だからといって渡晴を想わなかったわけではないけれども……。
十三日という日々の経つのがあまりにも早かったように感じていた。遅くなったけど、渡晴にはやはり今日中に告げねばならない。
今晩が朝を迎えられる最後の夜であるということを。
明日が共にいられる最後の一日であるということを。
そして聞いた渡晴が私に対して何を求めてくるか、それはなんとなく分かるような気がしていた。

僕は、答えを曖昧にする彼女を、より強く抱きしめもした。でも、彼女ははぐらかすばかりで、一行(いっこう)にそれらしい答えを得ることはできなかった。以前は、まだ"目的"を達していないからある程度は居る、とか言っていたのに、それすらも彼女の口からは出てこなかった。
目的というのが、茉子にあのことを頼むということであるのならば、既に目的は達成されているのだろうが、美久にそれを直接尋ねるわけにはいかなかった。何故なら美久には、"茉子があのお願いを美久にされたということを僕に話した"ことを話すわけにはいかないからだ。あくまでも、茉子が僕に……、告白をして、それでつき合っていると、思わせなければ、ならない。でないと、美久が隠密に茉子に頼みに行った意味がないことになってしまう。
でも……、あのときのセリフを逆に解釈すれば、目的が達成されれば長くはいない、といえるかもしれない……。
渡晴は、寝ていたベッドから降りて、一人で着替え始める。
私は、未だベッドの中にいて、ぱっとしない意識と格闘している。
残された時間はそれほどなく、その瞬間も大切であるはずなのに、私はいつも通りにしていたいと思う。時間が少ないからこそ、いつも通りに。今こうしている渡晴を間近で、眠た目擦りながら眺められるだけでも、私はそれなりに満足だった。
それを自己満足と言われてしまっては確かにそうかもしれない。渡晴は、私とは反して、時間が少ないからこそできることをやりたいと思うかもしれない。でも、もうちょっとだけ、こうしていたいと思っていた。
あまりにもありがちな、いつも通りの風景に溶け込む、彼の姿を。
今現世にあるこの身でこそ、その目に留めることのできる、彼の姿を。

朝食は、ご飯、目玉焼き、味噌汁の典型的な朝の三点セットだった。本来なら、ここに魚も欲しいところだけれども、生憎うちに魚はなかった。芸のない朝食も僕としては手慣れた感覚があり、そろそろ一工夫欲しいなと兼々(かねがね)思いつつも、未だそれを実行に移すことができていなかった。おかげで、朝食はほぼパターン化されてきているような気がする。
そんな朝食を、僕はお盆の上に乗せて、キッチンからリビングへと運ぶ。リビングにはラヂオから流れてくる天気予報が響いていて、本日が快晴であることを告げていた。美久は、椅子に座っていて、ぼんやりとお盆を運んでくる僕を眺めている。
「毎度お馴染みの朝食三点セット」
彼女が少し身を乗り出しながら、僕に向けてそう呟いた。
「何か、新しいものを増やさなきゃなとは思うけど、あんまりそういうものを考える時間もなくって。休みの日に図書館にでも行こうかなと思うんだけど、そのときは美久も来るよな?」
今日は月曜日、だから。私には、彼にとって休みと呼べる日はもう彼と共にはない。私には、彼と休日に、などという日はもう残されていない。私に待ちかまえる休息は、永遠なるものだけだから。私はもう、彼とは休日に図書館へさえも行けない……。
「美久……?」
「えっ、う、うん……」
私は、意欲的な彼に対して、"もう無理だ"なんて、とてもじゃないけど言えなかった。

何故か今朝の美久はいつもと違っていて、僕は彼女に対して疑心暗鬼になっていた。何かを隠しているような、そんな気がしている。差し迫ったような、何かの事実を。例えば、この世からあの世へと還る日時、とか。例えば、この世へ戻ってきた別の目的、とか。そんな類の何かが、きっとある……。僕は、そう踏んでいた。

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