36話 囁き 〜何かのついで〜 

あれから、茉子は黙ったままだった。店内は騒がしかったけれども、二人の周りは至って静かだった。茉子はただ、床を見ながら前へと歩くだけであるし、僕はそんな状況に彼女に声をかけ辛くなっていた。
それにしても、と、こんな状況下で僕は考える。美久が嫉妬するだろうと容易に想像がつくなら、茉子は何故わざわざ僕にもたれてきたのか。
……その考えうる理由は、二つ。一つは、何か理由があって、茉子が意図的に美久に嫉妬させたかったから。一つは、美久が茉子に嫉妬することを承知の上で、茉子が僕にもたれかかりたかったから。
茉子が意図的に嫉妬させたかったとするなら、先日の喧嘩と思しきことと何か関係があるのだろうか。例えば、美久に対する茉子の腹癒(はらい)せだとか。でも、あの茉子がそんなことをするとはとても思えない。
一方、後者について考えてみると、そうまでして茉子がもたれかかりたかった理由というものが必要となっているだろう。その理由……、もたれかかることによって、何があるか……。いや、でも、この期に及んでも茉子がそう思っていると、僕は考えているのだろうか。でも、もしそうだとするならば、このことばかりかこれまでのことは見事に辻褄が合うことになる……。そして、それと同時にまた新たな謎が生まれてくる……。
これでよかった、と。天国へ還った時に思うことができるだろうか。今、自分の中にある二つの感情が葛藤の中にある。
一つ目は、恋愛感情における嫉妬。二つ目は、恋愛感情における安心感。
一度天国へと着いた時に、渡晴はあのままで大丈夫だろうかと心配だった。だからこそ、こうして地上へと戻ってきて、茉子に対して、その後を頼めないかと思ったのだ。自分の中でそう決めた時は、茉子に対してこんなにも異様な感情を抱くとは思っていなかった。私が、ここへ還ってくることに求めたものは、渡晴の今後に安心感を得たい、ただその一心だったからだ。
もちろん、今こうして本来の目的が達成できたことによって、彼に対して安心している面もある。思いもしなかった料理に関しても、彼が意欲的であるということも一因と考えられる。それは、私が思っていた彼のその後の心配を除く形になるだろう。
でも、それと共に、既に彼が私の元から離れて行ったような、虚しさと寂しさも同時に感じていて、茉子に対しては単なる嫉妬でしかなかった。いざ、その瞬間(とき)が迫れば、彼女に対して惜しむ気持ちはあるけれども、それは自分の友達としてであって、決して渡晴の次期彼女として、心の底から認めたような形にはなり得ないだろう。彼女との別れは、友との決別と同時に、自らの渡晴の彼女としての立場を譲ることにさえもなるのだから。
それは、私の渡晴に対する独占欲の存在の証であり、私が彼に対して格別の恋心を抱いている証であり、私自身がどれほど身勝手かという証明にも……、なっているのかもしれない。

僕は、隣に歩く茉子を少しぼんやりと眺めていた。茉子は相変わらず、僕の視線には少しも気づいていなかった。
僕が驚いて、彼女から視線を外すきっかけになったのは、今まで後ろを歩いていたはずの美久が、突然僕の肩に手を乗せたせいだった。彼女はそのあとすぐにまた元の場所へと戻っていったが、僕はそうもいかなかった。励ましなのか、戒めなのかはよく分からない。ぼんやりとしていた僕に、彼女はよくも聞きとれない声で捨て台詞を残していった。茉子はそれを感じる様子もなく、虚ろな視線を相変わらず宙に浮かべていた。
もう少し、茉子の彼氏としてあるなら、しゃきっとして欲しいものだと思う。ああして、何故か元気のない茉子に対して、何一つ言葉の投げかけられない渡晴が、少しみっともなくも思う。大体、私とそうやって歩く時は、ちっともそんなことはないくせに、茉子と歩く時に限って……。
なんだというのだろう、ぼんやりと茉子の顔を見て……。ああ、渡晴を見ていて、歯がゆいような腹ただしいような、複雑な気分だった。

美久も茉子も、一体何を考えているのか、僕にはよく分からなかった。逆に二人からして、僕が一体何を考えているか、分かるかどうかは判断しかねるけれども。
美久が、何故僕と茉子がこうするようにしたのか。茉子が、何故映画館内で僕にもたれてきたのか。それは、幾らか可能性というものを想定できたとしても、決して断定のできないことだった……。
何を言っているのやら、私はあんな生活を送っていた渡晴が心配だったに他ならない。現世は私の及ばない世界だから、誰かに委ねるしか方法がなかった。でも、言ってみれば、何も二人が付き合う必要性はそれほど大きいものでもないのかもしれない。しかし、確実に安定できるためには、そうするしかなかったように思う。不確定事実であったけれども、茉子には任せられるような気がしていた。戻ってきて、茉子が渡晴を気にしていることは、分かったことであるし、だとすれば、と。
しかし、渡晴の考えることは分かるのだけれども、やはり茉子だけは、何か越えられない一線があるような気がしてならない。今日のアレにしても、昨日のアレにしても、思いにもよらなかったことであるし……。
茉子は……、昨日のあの時、私の身勝手さに対して怒ったのだろうか。でも、茉子だって、渡晴のことを……。今ある状況、こうなることは、茉子の望んだことなのではないのだろうか……。

気づけば、腕の時計は十二時半を指していた。その間、何か目的があるというわけではなく、ただ徒に、二人で店内を巡るだけだった。茉子は、時々僕に対して話題を投げかけてはいたけれど、それも二言か三言程度で収束がついていた。何故か会話はあまり続かず、仮にもこれはデートだというのに、盛り上がりに欠けていた。茉子だって、今こうして来ているからにはそんなデートは望んではいないだろうに。
「そろそろ、お昼にする?」
腕時計から顔を上げた僕に、彼女はそう言った。
「ああ、お腹も空いたしな」
「どこか、行きたいお店ってある?」
「いや、特に……。その辺りは、茉子に任せるよ」
「そう。じゃあ、お好み焼きは?」
何故お好み焼きなのだろう。そんな疑問が湧かないわけでもなかったけれども、
「うん。いいよ」
僕は、そんな返事を返していた。何故か、断わりたくないような、そんな気がしていた。
お好み焼き屋さんは、見るからに混んでいた。店のレジの前に、幾らかの椅子が並べてあって、席が空くのを待つ人がそこに座っている。昼時なので仕方のないこととはいえ、他の店よりもより多くの人集(ひとだか)りだった。そのせいか、レジの前にある椅子にある"空き"は、一席のみだった。
「入ろう」
そう言う茉子の視線は、明らかに一席だけ空いた椅子に向けられていた。
「……ああ」
僕は彼女に従い、その後をついて行く。彼女は、店内に入って、"いらっしゃいませ"の社交辞令的な声を受けて、あの椅子の前で立ち止まった。
「別に、座ってくれていいよ?」
「ありがとう」
そう言って、彼女は椅子に腰を下ろし、僕は傍の壁にもたれかかった。
「何だか、美久に悪いことしてるような気がするよ……」
彼女はあまり元気のない声で、そうぼやいた。
「でも、こうするように頼んだのは、美久だろ?」
「そ、そうだけど……」
「別に気にすることないって。美久だって、それくらい承知だろうからさ」
僕は茉子にそう言って、美久の顔色を伺おうとした。でも、いるべき場所に、彼女はいなかった。
うっかりしていた。いつの間にか、二人を見失ってしまったらしいのだ。思いつく限りを探してはみたが、それでも見つからなかった。
「はぁ……」
出したくもないものを出して、致し方ないので渡晴よりも先にアパートへと帰ることにした。ここで二人の動向が分からないのは、渡晴と一緒にいるのが茉子だけなのは、少し癪だったけれども。仕方ないじゃない……。

「見ていられなくて、先に帰ったのかな……」
それは、落胆してはいたが、残念そうには聞こえなかった。
「……」
どこへ行ったんだろう。本当に、見るのが嫌になって、先に帰ってしまったのだろうか。それとも、何か他に……。
あれから茉子は、さっきよりかはまだよく喋るようになっていた。決して嬉しそうというわけではなかったけれども、少しばかり積極的に話題を投げかけていたことには違いない。美久がいなくなったことは、茉子にとってよかったことなのだろうか。
アパートに帰ると、美久は本当に先に帰っていた。聞くところによると、(若干拗ねながら)途中で僕たちを見失ってしまっていたと言っていた。
僕は、美久がいなくなったことによって少し積極的になっていた茉子に対して、妙に悲観染みた印象を覚えた。それと同時に、美久がいなくなったことによって消極的になっていた僕に対して、励ましてくれた茉子に、好感を抱いていたことも確かだった。ちなみに、あのお好み焼きは何故だかとても美味しかった。それは、彼女は勧めただけある、と捉えるべきなのだろうか。
その日の夜は、渡晴とあまり話さなかった。何故か、あまり話したい気分じゃなかったから……。渡晴自身も、あまり私に話しかけてはこなかった。
私は単に少し拗ねていたのかもしれない。本当なら、時間の限られた帰還であるのだから、もっと話すことがあると思うのだけども、でも……。
私たちはベッドに入ってからも背中合わせで、少しも言葉を交わさなかった。その状況は、何故かここへ帰ってきたばかりの頃を思い出させていた。愛おしく、懐かしい記憶で、どこか遠い昔のような気もしていた。そう思うのは、今がこんな状況であるからかもしれない。
……あと、それから、渡晴に、そろそろ自分から求めてもいいんじゃないかなとも、思っていた。その一方、茉子に対してあんな風な渡晴に、それは甘いのではないだろうかとも、思っていた。
どこかで、それも……。

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