34話 模索 〜見えぬ道〜

美久は相変わらず、僕の胸に顔をうずめて、僕に抱きついて寝ていた。あの場で、茉子は美久に対して、僕らが付き合うことを告げたであろうに、美久はいつもと同じだった。それに、茉子が言ったであろうことには全く触れなかった。あのとき、何があったかは知らないけれども、茉子は本当に言ったのだろうか。まさか、そんなことを美久に訊くわけにもいかないし……。
今日、渡晴は何処かへ出かけるらしい。何やら朝から準備らしきことをしていて、私にも今日はアパートを空けることを告げた。
「何処へ行くの?」
「いや、ちょっと……」
渡晴は口ごもってそれを答えることを躊躇った。
「私もついて行っていい?」
「えっ、それは……」
「嫌なら別にいいけど……」
「別に嫌ってわけじゃないんだけど、ただ……」
……渡晴は、私に気を遣っているのだろうか。その場にいれば嫉妬するとでも?
「知ってるよ、あのことは。昨日茉子から聞いたから。最初と同じように、茉子に見えないようにしていればいいでしょ?」
「う、うん……」
茉子に嫉妬しないわけでもないけれど、私はそれなりに心配なんだよ……、渡晴のことが。茉子を信用してないわけじゃないんだけど……。

朝八時の駅前、僕はいつもと同じようにあのベンチに腰掛けていた。日曜日であるから、人通りはそれほど多くなかった。美久は、僕の隣に気楽な感じで座っていて、いつものように僕に話しかけていた。それに対して僕は例の合図で彼女に返答し、そしてまた美久が……ということを繰り返していた。
しばらくして電車の到着する音がしたので、僕は美久とのやり取りを止めて、駅の入り口を見ていた。駅からいくらかの人が出てきて、僕は出てきた人の中から茉子を探した。僕は、五、六人ほどが出てきた頃に茉子の姿を見つけ、ベンチから立ち上がって彼女に向けて手を振った。彼女もそれに気がついたのか、同じように僕に対して手を振り返す。僕は彼女の元へと駆け寄って、挨拶を交わす。
「おはよっ」
「おはよう」
それから、どちらからともなく歩き始めて、僕らは町の映画館を目指した。
「実は、美久が憑いてきていて……」
僕は、美久に聞こえないように、小声で茉子に呟いた。
「そう……。できれば、話したいんだけど、そういうわけにもいかないよね……」
「まぁ、茉子には見えないってことが前提だからな」
「うん。言われてみれば、なんとなくいるような気もするんだけど……、今はどうしてるの?」
僕は軽く振り返り、その様子を確認して、
「四メートルほど後ろを歩いてるけど……」
「あの距離なら何故か感じないな、嫌な気配」
「まあ、単についてくるだけだし、別にいいんだけど」
「そう? 私は少しやりにくいけど……」
彼女は少し振り返って、そこにいるはずの美久を見た。しかし、今は彼女の眼には映ってはいないだろう……。幽霊である、美久の姿なんて……。
二人は、共に歩き出した。その行き先を、私は知らない。ただ、後について歩き、二人の様子を伺うまでで、それ以外のことは何もできない。無駄に声を上げては、茉子が何かしら反応するかもしれないし、それを思えば渡晴に声を掛ける気も起きなかった。もちろん、何か言いたいのは山々だけれども、何なのかが自分の中ではっきりしていなかった。何か激しいものに駆られている自分がいるというのに、私は何なのかさえ分からなかった。ただ、それは、果てしなく高まっていくような感じがして、嫌でも何処までも迫ってくるような感覚を伴っていた。喧騒のような、雑踏のような、入り乱れたものだった。
「そういえば映画って、何を見に行くんだ?」
「メモリーレス・ラブストーリー」
彼女は何故か棒読みでそう言って、まだ後ろを気にしていた。
「あれか……」
「渡晴くんはまだ見てないでしょ?」
茉子がそう言うのも、『メモリーレス・ラブストーリー』、つまり『記憶喪失の恋物語』というのは、今非常に人気がある映画であって、原作の小説もミリオンを軽く超えているからだ。
「ああ。見に行く相手もいないしな」
その公開は美久が去ってからで、僕としては恋愛ものを男と見に行くつもりもない──一人で見に行くなどとは増してそうだ──から、見に行こうとも思っていなかったけれども。
「よかった。二度目だったらどうしようかなって」
彼女は軽く胸を撫で下ろして、軽く空を仰いだ。彼女の見上げた空は、雲一つなく晴れていた。
「……前からね、こういうのって少し憧れてたんだ」
彼女は急に話を転換して、まるで独り言のようにそう呟いた。でも、こういうのって、どういうのだろうか。それは例えば、誰かと恋愛の映画を見に行くこと? それとも男の人と一緒に映画を見に行くこと……?
見なければ、何故か異様なほど気になって仕方なかった。見ていれば、何故か異様な衝動に駆られて仕方なかった。どちらにしても、自分の中に何か晴れないものがあるのは確かだった。それでも、空は快晴だった。見上げる空は憎たらしいくらいに晴れ渡っていて、太陽はこれ以上ないほど燦々と輝いていた。
「はぁ……」
自然と溜息が出たけれども、私の中では何もかもがちっとも晴れなかった。

「茉子は原作って読んだことがあるのか?」
「いや、まだだよ。渡晴くんは?」
「僕もまだ。何処かで読みたいとは思うけど」
「でも、読む機会がないんだよね」
「うん。でも映画見るんだったら、別に原作の方はいいかな……」
まさか、この映画を見に行くことになろうとは、これっぽっちも思ってなかった。それも、その相手が茉子というのも想定外で、今思えばどうして茉子と恋愛の映画を見に行くことになっているのか、何となく不思議だった。もっとも、映画を見に行こうと言い出したのは茉子であるし、見ようと思う映画もなしに映画館に誘うわけもないだろうから、代替案さえ持っていない僕としては、何も言うことはできないけれど。でも、茉子が何故、敢えて恋愛ものを見に行くことにしたのか、それはよく分からない……。
「私は、原作も何処かで読みたいな。微妙に違うところもあるし」
「確かにね」
「渡晴くんも読みたいなら言ってね。そのときは貸すから」
「うん。ありがとう」
それは、以前茉子を優しいと言った所以なるもの。でも、何故そんな茉子ではなくて美久に惹かれたんだろうか……。"恋に理由なんてない"なんて言ってしまえば、それまでだろうけど。もちろん、今にしても美久のことが好きなことには変わりない。それは恐らく不動のものだろう、いくら美久が還ってしまったとしても……。
否が応でも二人は楽しそうに見える。二人が異様に輝き、楽しそうに見えてしまっている。なんだか、そんな自分に自分で溜息をついてしまいそうだった。
映画館の壁には、映画のポスターが張ってあって、僕らは『メモリーレス・ラブストーリー』のポスター前に立っていた。見ると上映開始時間まであと十分ほどだった。

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