33話 見えない感情
僕らは共に、行きに乗ってきた電車と同じ路線を走って、僕の住む町の駅へと到着した。その間、僕と茉子は隣同士で座っていたけれども、行きとは対照的に、あまり多くを話さなかった。茉子は窓側に座っていて、ずっと窓の外を眺めていた。僕は何となく落ち着かなくて、少しそわそわしながら、惰性的に彼女の隣に見える外の風景を眺めていた。 着いた駅には、相変わらず待ち受けていた数台のタクシーと、数台の車があって、駅前は普段よりも人が多かった。駅前の通りを抜けて家を目指す道中も、彼女はあまり喋ろうとはしなかった。その場の空気に嫌なものを感じていた僕は、仕方なく彼女に自分から話しかけてみることにした。あのときの美久と同じ問いを再び茉子にするために……、いや何となく気になっていたから。 「茉子って、今誰かと付き合っているのか?」 「いや、誰とも付き合ってないけど……」 彼女は俯き加減でそう答える。 「……じゃあ、今までに付き合ったことは?」 「ないよ、まだ。中学校のときは部活ばかりに熱中していて、そっちの方は何もなかったし。逆に、周囲でそういうカップルができていたのを不思議に思うくらい……。高校の時は……、それは、言わなくても分かるよね……」 「ああ……。でも、それなら、前に"三年も時間があったのに"って言ってたのは、高校のことだろ?」 それを聞いた彼女は驚いて顔を上げて、 「えっ、あんなのまだ覚えていたの?」 「お、おう……」 「そう……」 彼女は再び俯いて、そう呟いた。 「ああ、だからあのとき……」 聞こえるか、聞こえないかくらいの声で、彼女は何か核心を掴んだかのようにそう言った。 「何のこと?」 「いや、気にしないで。ちょっとした、独り言だから……」 それ以後、僕は話しかけにくい雰囲気に圧されて、アパートに着くまで一言も話せなかった。 茉子は僕の後ろに立っていて、僕が鍵を開けるのを待っている。僕はポケットから鍵を取り出して、扉にある鍵穴に差し込む。そして、それを回そうとすると、扉は突如開き、僕の顔に激突した。 「痛っ……」 「おかえり。あっ、茉子も一緒だったんだ」 「おかえりじゃなくて、何で急に扉を……」 顔を少しばかり赤くして──ぶつかったのでどの道赤いが──、僕は前に立つ美久に対して抗議する。 「ははは……」 彼女は苦笑いをしていて、その理由については何も語ろうとはしない……。 「はあ……」 僕は深く溜息をつくも、背後では茉子が小さく笑っていた。僕は、また溜息をつきそうになったが、やっぱりと思いとどまった。 リビングには、僕と美久、それから茉子がいる。一見、さっきのことがあって、少し和んだ気がするけれども、どこか緊張感があった。部屋には、昼食の用意はなく、時計はもうすぐ十二時になろうかという位置にある。しかし、美久にしても僕にしても、その準備をしようという気はなかった。茉子はそのつもりで来てはいるけれど、その前に済ますべきことがあるのではないだろうかと、多分三人ともそう思っているだろう……。 「渡晴くん、よかったら席を外してもらえない? ちょっと二人で話したくて」 「ああ……」 僕は、茉子のその求めに応じて、静かに自分の寝室へと退陣した。そして、MDプレーヤーを取り出して、ベッドに横になった。どうも、僕があの部屋にいると話しにくいものなのだろうか。 しかし、美久も僕に何の相談もなしに、茉子にあんな頼みごとをするなんて。茉子にしてみれば……、あの頼みごとを聞いた瞬間はそれこそ我が耳を疑っただろう。それに、僕と付き合って欲しいなどという突拍子もない要望を受けるのも難しいものだと思う。 でも、こうして偽装工作のように付き合うふりをして、美久が安心して逝けるなら、僕は悪い気はしなかった。 しばらくして、茉子がその静かな緊張の糸を緩めた。 「例の返事なんだけど、渡晴くんもOKしてくれたから……」 「うん。これで晴れて、渡晴と茉子は付き合うってことだよね」 やっぱり二人は会っていて、例の話、ということだろうな……。 「うん……」 「おかげで、私も安心して逝けるよ。茉子になら任せても大丈夫だし」 "安心して"とか"大丈夫だ"とか。正直、そういうものは、駆られるような嫉妬と隣りあわせで何とか落ち着き払えるような状態だった。今でさえ、自分が望んだことであるというのに、胸の中で何か沸々と泡立て湧き上がるようなものがある……。 「それで……、美久に聞きたいことがあるんだけれど……」 「聞きたいこと?」 否が応でも沸いてくる嫉妬心を押し殺して、私は反復した。 「うん。前に美久が私にチャンスがどうのこうのって言ってたでしょ? あれってこのことなの?」 茉子に真意を聞こうと思っていたあの日のことだろう。 「うん。戻ってきた時から、そのつもりだったし……」 「そう……」 そう言った彼女は、軽く俯いてしまっていて、ここからではあまり表情を伺えなかった。 「結局、茉子が好きだった人って、渡晴でしょ?」 そう言えども、彼女から返事は来なかった。 「茉子なら、渡晴とは高校で三年間同じクラスで、昼食のときも仲良かったし、彼のこと任せられるかなって思ったから。でも、茉子が渡晴のことを好きじゃなかったらって思って、しばらく様子を伺っていたんだけど、どうもそうだなって思って。それで、茉子に頼もうって思っ── 「美久が、私の何を知ってるって言うの!」 彼女は急に立ち上がって、私にそう叫んだ後、隣の渡晴のいる部屋へ駆け込んでいった。 「……」 部屋に残ったのは、勢いよく扉を閉めた反響と、それから思わぬことに吃驚している私だけだった。 何か大きな音がしたと思えば、僕は膝に僅かな重みを感じていた。ベッドに横になって音楽を聞いていた僕は、少し頭を上げてそこにいるのが茉子であることを確認してからイヤホンを外して、身体を起こす。 「茉子……?」 名を呼べど、そこから聞こえてくるのは微かな泣き声だけで、彼女は何も反応しなかった。横の扉を見ると、そこに微妙な隙間があって、その向こう側に微かに美久の姿が映った。僕は反射的に溜息をついてしまいそうになったのを押さえた。 「何があったんだ?」 「別に、何もないよ……」 とてもそんな風には見えなかったけれども、この状況で一度訊いて答えの出なかったことを追及しても仕方ない。 「とりあえず、ベッドに上がって来いよ。そんなところにいても仕方ないし」 そう言う僕に、茉子は返事を返さなかったが、その代わりベッドの上、僕の横にその身体を預けてきた。相変わらず、その表情は伺えず、微かに泣き声がしていた。僕は再びベッドに横になって、うつ伏せになったままの彼女をぼんやりと眺めていた。 彼女が怒った理由がいま一つ分からなかった。道を歩きながら考えてみるも、怒るようなことであったのかと不思議になってしまう。結局、あの部屋は渡晴と茉子の二人きりになったし、二人は何のために家へ帰って来たのかよく分からない。昼食を摂る前にあんな感じでは、とてもではないけれどおいしく食べられるとは思えない。仕方なく、昼食に関しては、二人に任せるとして、私はしばらく街を巡ってみることにしたのだった。 しばらく経って、再び耳を傾けると、いつの間にか茉子は泣いてはいなかった。 「茉子、起きてる?」 そう問えども、返事はなかった。彼女は寝てしまったのだろうか。そう思って、昼食のために彼女を起こそうと肩を軽く揺すってみた。それによって起きたのか、彼女はようやく顔を上げて、おぼろげな視界で僕を見た。 「ごめん、なんだか寝ちゃってたみたいで……」 「なんなら、もう少し寝てても大丈夫だけど?」 「いや、いいよ。別に眠かったわけじゃないから……」 茉子はそう言って上半身を起こして、軽く伸びをした。 「それなら、これから昼食作るから、適当にして待ってて」 「うん」 ベッドから立ち上がった僕は、寝室の扉を開けた。しかしながら、そこに美久の姿はなく、テーブルの上に一枚の紙が置いてあった。 "二人の邪魔をしないよう、この辺りを散歩してきます。夕食前には帰るので、昼食は二人で摂って下さい。" 「……」 美久は、身勝手な幽霊だ。僕はその紙を取って、寝室の方へと戻った。ベッドに腰掛けて本棚の本の背表紙を眺めている茉子にその紙を渡すと、 「私も昼食作るの、手伝うよ」 彼女はそう言って立ち上がり、一人台所へと入っていた。茉子なら、美久を心配するような気がしたけれども、何やら様子がおかしかった。さっき茉子は美久と何があったのだろうか……。 街はあれからさほど変わってもいなかった。思い入れのある場所も、普段大して通らない通りも、それからあのアパートも。空を飛んでいることによって、新しい発見はいくらかあったものの、それほど感動的になることもなかった。それは、渡晴のアパートにあの二人を二人きりにして残してきたことが、気掛かりだからかもしれない。二人が一体何をしているのか、そんなことを気にしながら住んでいたアパートを懐かしんでも、何だか仕方ないような気がしていた。 結局、僕は茉子を手伝う形で昼食を作った。本来は、僕を茉子が手伝うはずだったのだけれども、昼に何を作るか、僕がいい案を浮かばなかったからだ。現状の把握がままならないような状態で、昼食をまともに考えることすらもできなかった。もっとも、茉子もそれほどいい状態であったというわけではなかったようだけど。 しかし茉子は僕のアパートへ昼食を食べに来るつもりだったのだろう。それを、茉子が作っているという状況は、何かやるせないものがあった。昼食を大した会話もないまま摂ったあと、茉子は一言残して帰って行った。 "美久が帰って来たら、電話をして"と。 美久はあの紙の通り、夕食前に帰って来た。彼女にあの時に何があったのかと問えども、よく分からないそうで、明確な答えは出なかった。美久が帰って来たので茉子に電話を入れるとき、その美久は夕食の準備をしていた。 「もしもし、茉子?」 「うん……。電話してきたってことは美久が帰って来たんでしょ?」 「うん。今夕食作ってる」 「よかった……」 茉子は美久が帰ってきたことを聞いて安堵した様子で、ここを去るときに比べれば随分落ち着いた雰囲気だった。 「それで……、渡晴くん、明日空いてる?」 「明日?」 「うん。よかったら、映画でも見に行かない?」 「映画か……」 「別に、無理にとは言わないけど。よかったら、どうかなと思って」 「うん、よろこんで」 「じゃあ明日の……」 多分、美久あってのデートを兼ねることだろう。"彼氏役を抜かりなく努める"の約束と、自分にある時間、それから少しばかりの義理的な人情……、それを据えて、僕は彼女の誘いに乗ることにした。でも、本当に理由はそれだけなのだろうか……。 |