32話 極度の意識

あれからしばらく、何故か茉子は黙ったままだった。僕はそれに対して、言葉も掛けることもできず、静寂が辺りを包み込んでいた。
「私と渡晴くんが……、付き合って、いるように振舞っていたら、美久だってきっと……」
彼女は急に、思い出したかのように、顔を伏せたままでそう呟いた。
昨晩、渡晴が持っていた紙の意味を考える。あの場面で持っていて、隠すようなものであるから、多分茉子からの物だと思う。おおよそ、昼食のときであろうと思われるが。もし、あの紙に何か会うようなことが書いてあるなら、渡晴は茉子と会っているだろう。早朝、私も起こさずに出ていくのだから、それなりのことに違いない。問われると困ることなのかは定かではないが、どうも私を起こさずに出て行った方が、都合がいいことだろうなと思う。
それも何か、寂しい気がするけども、仕方ないか……。これが望んだことでもあるのだし……。

「もっとポジティブに、考えよう……」
彼女は頭を上げてそう言った。
「何が?」
「えっ、いや……、ちょっとね」
そう言われても、何だかその一言が引っかかる。何をポジティブに考えるというのだろうか。何かネガティブな要素──そのせいで沈黙があったなら、その理由は何なのだろうか。考えてみるも、思い当たる節が特になかった。何か、あると思うのだけれども。
しかしその一言が、あの美久が帰ってくる日の、朝の電車で茉子が言った言葉と妙に被ってしまって仕方ない。もし、あのとき、美久が帰ってこなかったら、今僕はどうなっているというのだろうか、なんて。そんな考えが浮かんできて、少なくとも、今とは違うだろうな、って。
あのとき、家に帰って美久が家にいなかったら、僕はいつもと同じようにコンビニの弁当生活を続けるのだろう。そうなれば、きっといつか体調を崩してしまっていただろう、誰かがこのままではいけないことに確実に気づかせてくれていなければ。僕はそういう面においても、ちゃんと美久に感謝すべきなのかもしれない。またあのときのように"戻ってきてくれてありがとう"と、心から言えるようなそういう別れ方をしたいと、そう願ってしまっていた。
渡晴が勝手に別れ方の理想像を立てている頃、私は一人朝食を摂っていた。どうも、心細い朝食だったので──渡晴が急いでいたのかもしれない──、冷蔵庫から卵を出してきて、一品作ってみた。どうも、こうして食べていると、まだ渡晴の夕食を作りに来る以前を思い出す。今頃、どうしているのだろうと思いながら、一人、自分の作った夕食を食べていたあの頃。今のこの状況とは何が違うのか……。味噌汁は、彼が作ったものである。そして、私には私に帰りを待たれる人がいる。あの頃のように、おいしいけれどどこか人の温かみに欠ける朝食と、繰り返される一人暮らしの日々を持つ必要はないのだ。ただ、これも残り少ないけれども──それは自分が決めたことだから、仕方ない。それでも、私はこうして待てる人がいることは幸せだと、そう思う。
茉子が失言した言葉……。
"それなら、しばらく付き合うふりをしない? 美久には、安心して還って欲しいし……"
もしかすると、茉子は美久が還ることを知らなかったのではないだろうか。だとすれば、何となく説明がついてくる。"安心して還って欲しい"と聞いたことによって、彼女が帰ることを知って驚いているのではないだろうか。僕自身は、美久が茉子に対して戻るなどということを告げているのは見たことがないし。ただ、先日にしても昨日にしても、美久は一人で茉子の家を訪れているのだから、そうと確実に断定できるわけではないけれど。
他に考えられる線といえば、その発言の前者だろうか……。美久の……、二人に付き合って欲しいという頼みの、その目的はよく分からないけれども、その頼みは茉子にとって少し無理があるものではないだろうか。突然、付き合って欲しいなどと頼まれて、すんなりと受け入れられるとも思えない……。実は、茉子はそんなつもりではなくて、美久に対してちゃんと断わるという方を、選んだのではないだろうか。だから、そのことに関して、僕に何らかの相談があった、とも考えれなくもない。それなのに、僕自身がそれを了承してしまったがばかりに、そうであることを言い出しにくくなってしまった。そう考えても、不自然ではない……。
でも、もしかすると、その逆で、"付き合うふり"ではなく、"付き合う"だったのだろうか。いくらなんでも、そんなことはないだろう。あれから茉子は少しもそんな気配はないし、僕と美久が付き合い始めたときも顔色一つ変えなかったのに……。
紙にはあれ以外書いていなかったから、昼食までには戻ってくるだろう。そのときは、一人で帰ってくるのだろうか、それとも……。
しかし昼食の時間が十二時だとすると、まだ四時間ほども時間がある。四時間も一人きりなんて、あまりにも暇だ……。

とはいえ、彼女には何も聞けなかった。少し落ち着いた僕らは、一杯のお茶を前にいつも通りの会話に戻っていたからだ。でも茉子が少しぎこちなさそうに話しているような気がする。僕にはその理由は候補としては上がってくるけれども、断定はできなかった。
「そういえば渡晴くんが、ここに来るのも久しぶりだよね」
「ああ、美久と付き合ってからは来る機会なんてなかったしな」
「うん……、別に呼びたくなかったってわけじゃなくて、何となく気まずかったから。ああ、いや、美久とだよ?」
「人の彼氏を家に呼ぶのも気が引けるからな」
「まぁ、そんな感じ……。でも、今は、い、一応……」
彼女は目の前に置かれたお茶をしばらく見つめたかと思うと、それを少し飲んで、
「一応、私の……、彼、氏、だから……」
と、心配そうに、少し俯き加減で呟く。
「うん。大丈夫、茉子の彼氏役、抜かりなく努めるから」
「……ありがとう」
茉子は僕のお茶を足しながら、嬉しいような、悲しいような表情でそう言った。
言ってから、何となく考えてみた。"彼氏役を抜かりなく努める"とはどんな状況だろうかと。もともと、"彼氏役"の時点で既に抜かりがあるような気がする。"彼氏"ではなくて、それは単なる役どころでしかないのだ。その時点で既に本物ではない状況にあって、それが"抜かり"であるような気がする。
彼女の本物の……、つまり役などではなくて、彼氏として付き合っていくこと。それを自分はどう思っているのだろうか。彼女のことが好きかどうかと問われれば、"友達として一緒にいたい"というのが本音かもしれない。でもそれは、茉子の彼女として一緒にいればこそある、別れるという恐怖心から自分自身を離れさせるために、"友達"という一歩離れた場所において、茉子と居たいと思っているだけかもしれない。しかしながら、彼女に対して自覚のある"好きだ"という感情は抱けてはいないのだ。
異性において、一緒にいたいと思うことと、好きであるということは必ずしもイコールではないのだろうか。親しい友がそばにいるとき、頼もしさと孤独でない安心感があるけれども、彼女のそばにいることは、それよりもそれが茉子であるという安心感の方が勝り、それは美久が隣にいたときとは同等か若しくはそれ以上のような気がしてならない。しかしながら、その安心感や、更には羞恥心をある程度捨て去れる感覚は、恋愛感情とは異なる気がする。
彼女は人付き合いもいいし気も利くし優しいし、相談事はお互いに訊き合う仲で、付き合いも高校三年間と大学半年間あるし、僕にとって一番の親友である……。
それに反して、何故僕は美久に惹かれたのだろうか。彼女が加わったときは、そこに何か新鮮さがあって、新たな風が吹き込んだかのようだった。僕はどこかで、新しい刺激のようなものを何となく求めていたのかもしれない……。
「昼には帰るんでしょ?」
「ああ。昼を食べてくるとは言ってないから、美久が待ってるしな」
「うん……、その、もしよかったら、私も行っていい?」
「いいけど、それだと僕が茉子と会ってたって言うのと同じだろ?」
朝七時に家を出て、眠っている美久を起こさずに、彼女には秘密でここへ来たことを考えて、そう言う。
「いや、別にいいよ。美久には何処かで言わなきゃならないんだし」
確かに、二人が美久の頼みを受け入れたことを、彼女に告げる必要がある。それが、遅くとも早くとも、結局は同じことか……。
とても人がしそうにもないこと──つまり、茉子に例の件を頼むことを、彼女は敢えてした。だからそれが、彼女が戻ってきたことと関係があることは明確で、戻ってきたあの日に言いかけていたことは、多分このことなのだろうと思う。でも、茉子に対して僕と付き合って欲しいと頼むことが、何故彼女が戻ってきた目的なのかは全く分からなかった。それどころか、そんな妙なことを頼んだ美久に対して、少し不信感を抱いているのも確かだった。いくら考えても、他人(ひと)に誰か特定の人──自分自身である場合を除いて──と付き合って欲しいと頼むのは……、変だと、それを美久も知っているだろう。何かよほどの理由があったと考えるにせよ、その美久の行動が不審を帯びていることには変わりなかった。

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