31話 偽

ジリリリリ……
バンッ
鳴った目覚まし時計に瞬間的に反応してしまった僕は、その目覚ましの音とそれを叩いた音で、美久が起きてしまってはいないかどうかを寝ぼけながらも確認した。彼女は、昨日と同じように、僕の胸元で軽く寝息を立てていて、未だ夢の中だった。僕はそれに安堵し、無意識に時計を確認して──現在時刻は、六時三十分三十七秒であった──、彼女を起こさないように静かにベッドを抜け出した。
台所に立ち、彼女を起こしてしまわないように調理器具を静かに使い、可能な限り物音を立てないようにしながら、僕は朝食を作っていた。今、何かのきっかけによって美久が起きてしまった場合、僕は彼女に何らかの言い訳を作って出て行かなければならないからだ。それでは彼女に対して嘘をつく必要が出てくるであろう、それは気が悪い。言い訳をしているうちに時間を食ってしまえば、それも茉子に対しては遅れての到着となりうる可能性があるので、申し訳ない。そのためには、今美久を起こしてしまってはまずいのだ。
炊き上がったご飯と卵をリビングへと運び、焼きあがったハムとウィンナーを皿に入れて、いい頃になった味噌汁をお盆に乗せる。未だ寝ている美久を尻目に、僕はリビングのいつもの場所に座って、その朝食を食べ始める。それと同時に、予め用意しておいた紙に外へ出かける旨を書いた。そして手っ取り早く朝食を片付けて、彼女に知られないように着替えを済ます。少し彼女の様子を伺ってから、必要な荷物を持って玄関へと行く。僕は誰も返事などしないはずの室内に対して、行ってきますと挨拶してから、静かに玄関の扉を開けた。
空は薄曇だったが、雨の気配はなかった。朝のラヂオで聞いた天気予報では、今日は曇りのち晴れで、昼頃にはこの曇り空も晴れてくるそうだ。僕はそれを信じて、傘は持たずに駅へと向かう。
約束の時間にはある程度余裕があったので、僕は朝の街をのんびりと歩いていた。まだ空気のおいしい時間帯であると思う。しかし、しばらくすれば、また自動車の行き来が増えるだろう。土曜日だから、平日ほど交通量は多くはないだろうけど。
行く道には私立や部活と思われる学生が、僕と同じ方向、つまり駅を目指して歩いている。人の流れは、大方が駅向きで、その逆を歩く人は逆に珍しいくらいだった。
電車による人の流れも一息ついて、一時(ひととき)だけ静かな駅前に彼女はいた。あの日、僕が座っていたベンチとは少し離れたところに彼女は座っていて、僕の到着を待っていた。どうやら僕が今、ここをこうして歩いているのには気づいていないらしい。背後から近づいて脅かしてはとも思ったけれども、あの紙の意味深さを悟った気がして、やはりやめることにした。彼女との距離がおおよそ十メートルそこらかと思われるあたりで、僕は彼女に声を掛けた。人の少ない駅前にその声が妙に映えて、僕は少しばかり目立っていた。
「ここじゃなんだし、よかったらうちへ来ない?」
共に座ったベンチの上。少し落ち着いたかと思われるのに、彼女は突然そう言い出した。
「……?」
何か、ここでは支障があるのだろうか。
「うん? 別にいいけど……」
電車賃くらいは持ってきているから、移動するにおいて支障はない。
「ここでは、誰に会うか分からないしね……」
そう言って彼女は立ち上がり、思い出したかのようにこちらに振り向いた。
「そういや美久はどうしてる?」
「アパートに……、多分まだ寝てると思うけど?」
「そう。それなら会うこともなさそうだし、少しは安心できるかな……」
あの紙にしても美久には見せるなとのことだったし、彼女に何を秘匿しようというのだろうか。
「……美久と喧嘩でもしたのか?」
「えっ、いや、そういうわけじゃないよ」
「じゃあ、何?」
「んと……、その話、まず私のアパートについてからにしない?」
それはどうも喧嘩よりも相当深い事情があるような気がした。
電車の中、土曜日であるので平日の登校の時よりは混んではいなかった。座れる席もあって、僕は茉子と隣り合って座った状態でぼんやりと外を眺めていた。
「ごめんね。せっかくの休日なのに、こんな朝早くから呼び出したりして」
彼女は突然そんな風に言った。どんな顔をして言ったのかは定かではないけれど、少なくとも声は心から申し訳なさそうだった。僕は、彼女の方へと向き直って、
「いや、別に構わないよ。それより敢えてああして呼び出すくらいだから、何か特別なことでもあるんだろう?」
「うん……」
でなければ、茉子が突然こんな時間に呼び出したりしないだろうし。
「ちょっと相談に乗って欲しいっていうのかな。頼みごとでもあるんだけど……」
「うん」
言いたいとか渡したいではなくて、相談や頼みごとか……。
「やっぱり今ここで言うのは、どうも抵抗があるから……、着いてから話してもいい?」
そう言う彼女は、僕の目には何故か普段よりも小さく見えていた。
茉子のアパートは駅から比較的近いところにある。前の、茉子の実家のように駅までは自転車で行った方がいいような立地ではなく、徒歩で十分行ける便利な場所だ。
大学に入学した時分に、一度だけここに来たことがあるけれども──茉子に誘われてだが──、ここ最近はそんな気配さえない。もちろん、美久のこともあるだろうけれども、彼女が一度きりで誘わなくなったのは何かそれ以外の理由があるような気が、当初はしていた。ただ、今はここへこうして来たことが、久しく懐かしく珍しくもあった。
駅前のこのアパートは、私営の学生寮として開いているものだけれども、僕らの通う大学からはある程度の距離があることもあって、それほど高くはないと彼女は言っていた。訊くところによると、一応基本は女子寮ではあるらしいのだが、特に男性厳禁とかいう縛りもないらしい。一方の僕の住む方は、普通のアパートであって学生寮という訳ではないが、駅からある程度の距離があることも幸いしてそれほど高くはない。それなりに、毎日手間はかかるけれども、これも一つのスクールライフと思えばそれほどでもない。茉子の住むこの寮は二階建ての、比較していえば新しめで、僕のそれと似たような造りになっている。何か違うことがあるかと問われればその趣で、僕の方は年期がはいっているような気がする。それにこっちの方が幾分か広いし……。
「それで、渡晴くん、改めてなんだけど……」
彼女は懐かしんでいた──同時に少し羨んでいたのも確かだが──僕に対して、そんな風に切り出した。
「うん」
「一昨日の木曜日に、美久が私のところに寄ってから帰るって言ってたでしょ?」
「うん。てっきりホールにでもまた誘うのかと思っていたんだけど」
「あのときに、美久がここへ来て……」
それが、部活の終わった後だとすると、あの時間に帰ってきたのも何となく納得ができる、などと考えているうちに茉子は言葉を続けて、
「私に、渡晴くんと……、付き合って欲しいって頼んできて……」
「えっ? 僕と?」
思わぬ不意打ちを食らって僕は反復してしまっていた。確かに、以前に美久は、"いい人見つけて、結婚しても"なんて言ってはいたけれど……。でもそれは、将来的なことで何も今すぐという緊急を要することでもないであろうし、そして何より相手が茉子というのも、何だか美久の考えていることがよく分からなかった。
「うん……。それで、その……」
少なくとも美久が、この現世に敢えて戻ってきて、そんな到底人には頼めないようなことを敢えて茉子に頼むくらいであるのだから、彼女にはそれが一つの目的なのだろうと思う。普通に考えれば、他人(ひと)に特定の人と付き合うことを頼むなんてことは誰もしないことであると思うのに、美久はそれを敢えて茉子に対して頼んだのだ。以前美久に感じた不信感……、何か隠し事をしているような感覚は、このことだったのだろうか。それならそれで、美久にはそれなりに満足して還って欲しいと僕は思う。そのためには……。
「それなら、しばらく付き合うふりをしない? 美久には、安心して還って欲しいし……」
「えっ……」
彼女は何故かその僕の提案に呆然とし、しばらく何も言わなかった。
「茉子……?」
「っ、ごめん……。そ、そうだね……。そうすれば美久も、安心……できるだろうし……」
彼女は俯いたままそう言って、それからまた黙り込んでしまった。
気づくと、隣に渡晴はいなかった。部屋は実に静かで、人気(ひとけ)がなかった。ベッドから重い身体を起こして、リビングへ行くと机の上には一枚の紙が置いてあった。
"少し出かけてきます。台所には、朝食用に味噌汁を置いておきます。"
出かける? 何処へ?
それに当てがなく、私は取り残されたような気がしていた。

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