30話 疑問と期待と真意と

"明日の午前七時、美久に見つからないように、渡晴くんの街の駅まで来てください。"
薄ピンクの紙には、そう書かれていた。……それが一体何を意味するのかがよく分からなかった。
茉子の意図することは、美久に分からないところで僕と会おうということ。つまり密会である。それは美久にばれてはならないことがあって、そのことを僕に教えるなり渡すなりするということぐらいしか思いつかない。でも、その事項に関して思い当たることが何もない。一体、僕は何のために彼女に呼ばれて、駅前へと行くのだろうか。それは、明日の朝までまったくといっていいほど不可解なことだった。
渡晴が学業を終えて、自宅へと戻るであろうと思われる時間。ちょうど、書いていた内容にもきりがつき、私はそろそろかなと区切りをつけた。校舎の上高くからゆっくりと浮き、降りて、学校のグランドへと足をついた。放課後の、部活動真最中のグランドには、砂煙が舞っていた。野球部が向こうの方でバッティング練習をしていて、こちらの方ではバトミントン部が練習試合をしていた。そこの光景に、妙な懐かしさを感じて眺めていると、あるとき自分の中を流れ玉が通過していって、ぼうっとしていたことにはっと気がついた。こんなことをしている場合でなくて、家へと向かった渡晴を追うべきだろう、と。目的を正して、私は一人、グランドを校門の方へと向かって歩き出した。
空には雲が流れていた。風は微弱ながら、しかし確実に吹いていた。電線は僅かに揺れていた。僕は歩道をのんびりと歩いていた。すれ違う人は知らない人ばかりだった。
そんな中で、僕はぼんやりとあの紙の意味を考えていた。彼女が僕に告げたいこと、渡したいもの。今更、何があるというのだろうか。僕と彼女との間に。それも、美久には内緒で。"本当なら口で言えればいいんだろうけど"と彼女は言っていたけれど、実際紙に書かれていたことはさほどでもないよう。僕にしてみても、単に会う約束など、相手が特別な人でない限り、まったく容易いことだろう。それなのに、彼女は"そんな勇気"が必要だというのだ。でもこの紙自身は特別な意味を秘めたものではない。ただ、会う約束を取り付けただけのもの。すると、"勇気"にはまた別の意味があるというのだろうか。"会ったあと"のことを考えれば、何かそれに必要なのかもしれない。
空は、幾切れかの雲が舞っていた。太陽は雲の陰になっていて、地面はうっすらとした光が照らしていた。数十メートルほど先には、雲の末端が描かれていて、しばらく歩くと直接太陽が注ぎそうだった。光あるところと雲の影とは、何か異様な隔離感があった。歩き、雲から抜けると、何故か自分の気分も晴れたような気がしなくもない。しかし、その晴れた気分とはなんだろうと考えるも、思いつくようなことがないような気がしていた。どうあれ、今の状況はそのようなことでは変わらないようである。
私自身は、相も変わらず意中の人は渡晴であるし、もちろん嫉妬心も抱く。茉子は、一体誰がどうなのかは分からないけれども、何か渡晴が特別──例えば無二の親友とか──であるのは確かな気がする。渡晴は、もちろん私のことを想っているだろうし、茉子は友達だという認識だろう。
さて、私が彼女に頼んだということは、己が嫉妬心を押さえ込んだということに他ならない。普通に考えれば、想い人を他の人に託すというのはありえないことだ。それは、自分が以後その人に会える見込みがないときなどを除いて。それは、その人に幸せに生きて欲しいと願うが故で、結局自らの気持ちに"せめても"と想う気があることに相違ない。結局は、その人のことを自分の心中から捨て去ってまで他人に頼み込むようなこともできないような気がするし、事実、私も彼女に期待して"せめても"と思ってしまっているのだ。茉子のためではないというわけではないけれど、やはり自分や自分の愛する人のためだといった方が的確だった。彼女については、あの昼休みに渡晴と何らかの接触があることは、期待していてもいいと思う。彼女がどう思っているのか、それこそまったく読めもしないけれど。

ベッドの上に寝転がって、いつものように天井を眺めていた。外は風の笹鳴く声が聞こえてくるが、それ以外は至って静かな空間だった。部屋にはまだ美久は帰ってきてはいなかった。今頃どこにいるかなんて、分かりもしないことだけど、だからといって彼女を探しに行こうという気はまったくといっていいほど起きなかった。彼女なら大丈夫だという安堵感よりも、寧ろ今はこの一枚の紙が占める意味を考えることの方が勝(まさ)っていた。その分、考え込みすぎていたのかも知れない。彼女は突如、何の余興もなく目の前に現れて、僕が見ていた天井に浮いていた。それにも、僕は大して驚きもせず、なんら反応を示すことができなかった。
「ただいま」
彼女はそう言って、静かに床の上へと降り立った。
「おかえり」
「……その紙は?」
彼女は僕がもっている紙を指差してそう言った。
「えっ、これ? いや別に……」
突然指摘された僕は、慌ててその紙をポケットへと仕舞う。ぼんやりしていて、指摘されるまでその存在の秘匿に努めることができなかった。
「まあ、いいけどね」
彼女はそう言って、僕の隣へ同じように寝転がった。
「あれからどこへ行ってたんだ?」
「言ったじゃない。ただの散歩だよ?」
「学校の中を?」
「うん。戻ってきてから一度も巡ってなかったからね。ちょっと昔を懐かしんできただけ」
「そうか……」
「うん」
自然に終わってしまった会話を、大して気にする風でもない美久は、その表情を横目で伺う僕さえも気にせずに、ぼんやりと天井を眺めていた。何を考えているのか、些か気になったものの、それを真剣に考える気はなかった。茉子にしても、あの紙の意味するところは、僕が考えられる範囲では所詮想像でしかなくて、その本意を突き止めることはできそうにない。ただ、茉子がああ言うからには、それなりに意味のある紙だ、という程度しか分からない。何かが変わるような予感はするのだけれども、それが一体何なのかも分からないし。これ以上、あの紙について考えてみても、何の進歩もなく、今はただ、時の過ぎ行くのを待って、明日の朝七時とやらにあの駅へ行くことしか打開策はない。これ以上のあのピンクの紙に関する思案は無駄だろう……。
まずは、一枚の紙。それが何を意図して書かれているかはよく分からないが、彼女には大きな意味があるに違いない。紙に関すること以外は、私に対してそれほど反応も見せなかったものだから、今のところはあれ以外に何もなさそうだ。どちらかというと渡晴はそれほど秘匿が上手い方ではないから、詰め寄れば、何があったかくらいは聞けるだろうけど、そこまでして知っても仕方ない。まずは、彼女が言う返事を待つばかりで、その間彼女が渡晴に対してどのような行動に出ようと、私が及ぶべき範囲ではないのだろう。
もう、言うなれば渡晴は茉子に、女としては任せる意向であるのだから、そこに口出しするのはタブーのような気がするのだ。彼女は、それに対して承諾していないとはいえども、私は……。私は、それほど、物言える立場でもない。彼女には無理言っているのだし、これ以上の注文もないと思うのだ。まずは、ゆっくりとその動向と返事を待つ、ただそれだけだろう。

何を思おうとも、彼女は天井を眺めていた。僕は彼女との時間を完全に持て余していた。ずっと天井(そら)を眺め続ける美久が隣にいても、暇なことには変わりがなかった。それに手持ち無沙汰で、指をくるくると回してみるものの、やはり暇なことには変わりがなかった。
……。僕は、空いているうちの一方、美久の側にある手をそっと彼女に向けて伸ばしてみた。それから、あのときのように、その手を彼女の頭の上に乗せてみた。彼女はそれに気がついて、一瞬こっちを見ると、少し僕との距離を詰めて、また同じように天井を眺めていた。相変わらず僕の手は彼女の頭の上に乗っていたけれども、それからの彼女は反応を見せなかった。
……。そうして、結局はまた暇な時間と空間が繰り返した。

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