29話 手紙 〜密会への誘い〜

「少し、散歩でもしてくるよ」
彼女は突然そう言って、片手にメモ帳を持ちながら、食堂の入り口から僕が声を掛ける間もなく行ってしまった。いつもなら、僕の座る椅子の背もたれに体重を預けて、外をぼんやりと見ているのだろうが、何故か今日に限ってはそうでないらしい。彼女にしてみれば、ここでぼんやりとしていても、確かに話しようもなく仕方ないといえばそうなのだけれども。
「何かあったの?」
茉子はそう聞くが、僕には思い当たる節はない。
「いや、別に何も変わりはないけどよ。ただ、今日は起きるのが遅かったってだけで」
「そう……。もしかして気でも遣っているのかな……」
「気を遣うって、誰に?」
「うん? あっ、それなら……」
その趣旨に理解の及ばない僕を尻目に、彼女はポケットから一枚の折り畳まれた紙を取り出して言う。
「手を出して」
僕は言われるがままに、本を持っていたうちの片方の手をテーブルの上に乗せる。彼女は先ほど取り出した紙を僕の手のひらの上に乗せて、僕がそれを握るように自らの手で僕の手を覆った。僕の思考において、少なからず疑問があったことも確かではあるけれど、それよりも寧ろ握られた手に意識が飛んでいた。彼女の手は、この季節にも関わらず、ほんのりとした温かみを帯びていた。彼女はしばらくそのままの状態でいて、僕としてはどうも動きようがなかった。
「こうして、手を握るのも久しぶりかな……」
彼女はそうぼやくので、以前にそんなことがあっただろうかと過去を巡ってみる。それが、特に思い出されることもなく、元の場所へと返ってきていた。
「美久のいないところで読んで欲しいんだけど……」
それを受けた僕が早速とばかりに紙を開けようとすると、
「いや、できれば帰ってからの方が……」
「帰ってから……?」
「うん……。本当なら口で言えればいいんだろうけど、私にはそんな勇気なんてないし。目の前で開けちゃうと結局一緒でしょ?」
僕は先ほど茉子に手を握られたことさえも忘れて、手にした紙をぼんやりと眺めていた。でも、一体何がこの中に書かれているというのだろうか。勇気を示さなければならないようなもの、とは何なのだろうか。
食堂を出た後、私は廊下を通って玄関へと出た。外は晴れ晴れとしていて、これが秋晴れというのだろうかと思いながら、学校の屋上へと飛んだ。普段は立ち入り禁止となっている屋上は、コンクリート質で硬く、いくらかコケらしきものが生えていた。平面の一部に、突き出た場所があって、そこには一枚の扉がついている。誰も、ここを通らずして屋上へは来るとは思わないだろう。私はその扉のちょうど真上に座って、ゆっくりと流れてゆく雲を眺めていた。さすが晴れるだけに、雲は少なくて、小さく千切れた雲が風にその身を任せていた。空に一本の飛行機雲が走っていて、まるで異空間への通路を形成しているかのようでもあった。私は、片手に持つメモ帳と、それから胸のポケットに入ったペンを取り出して、ゆっくりと気侭に書いていった。
椅子を引く音がして、僕は思わず手にしていた紙をポケットへとしまった。そこにはいつものように少し遅れてきた聡司がいて、引かれた椅子は少しテーブルに近い目に置かれていた。椅子の背から横側へと回った彼は、椅子に座ろうとするものの、そこには彼が座るには十分なスペースがなく、結局再び横に於いて、椅子を引く羽目になっていた。ようやく座った聡司は、今日もまた、茉子の方を向いて、いつものように話していた。
最近の聡司は、所詮は共通の作家云々で盛り上がっただけであって、あまり僕とは会話をしないような気がする。講義の前に会った時は、彼は隣に座っては来るけど、何か特に会話としてくるようなこともない。それに引き換え、茉子とは見ての通りよく喋っていて、そんなときの聡司は楽しそうに見えるが、それを見ている僕は少し孤独感を感じていたりもする。まあ、致し方ない。そんなときの僕は、本でも読んでいるのが大半だ。たまに茉子が話を振ってきてはくれるけど、聡司はそんなことを他所に話を進めていくから、僕は相槌程度の参加でしかない。
聡司が食堂に来るまでには、何故かいつも十数分の時があって、僕はそんなときに茉子と話していると思う。昨日に限っては、木曜日であったから、茉子と講義が重なっていて、通例どおり、僕は彼女の隣に座っていた。昔は、僕の隣に美久が座っていて、その向こう側に茉子が座っていた。美久がいなくなってから、茉子は僕の隣に座るようになっていて、僕にとってもそれが当たり前になっていた。昨日は、茉子とは反対側に美久が座っていたけれども。それでも僕と茉子はいつものように世間話でもしていたものだ。美久は、そんな僕らを気に止めるでもなしに、ただぼんやりとしていた。
そんな状態だから、僕が学校へ来てまともに話している相手は、大半を茉子が占めている気がする。もちろん、いつも昼食を取っているメンツだけが友達であるというわけではなくて、他にも面識のある人もいるけど、そう毎日も会うとは言い切れないような状況だ。元々が部活動をしていないから、そういう友達には縁がないし、同じ講義を受けている人と話が合って話すということの方が多いだろう。たまに廊下などで会って、話すときもあるけれど、それほど多いというわけでもない。
どうも、大学で僕にとって一番身近な存在は茉子らしい。彼女は、部活もやっているから、それなりに幅が広いだろうけど……。
青い空を、時折顔を上げて眺めながら、私はメモ帳への手記を続けていた。一ページにつき、一項目。それを基準にして、目の前の紙に、記してゆく。何の順序も伴わずただ思いつくままに記していくのは、"私がここにいた"という印なのかもしれない。彼がこれをどう扱うかは、全て委ねてしまおうと思う。それでも、彼にとっては何か大切なものになるような気がする。それは必然のような気もするし、偶然のような気もする。どうあれ、彼にとってはしばらく必要となるだろうから、こうして残しておく意味はあるだろう。そうするに、越したことはない。
今、ここに、せっかくこうしているのだから。
……幽霊だけれども。

昼休みが終わるという時にも、彼女は戻っては来なかった。もちろん、僕と茉子はその行き先を知らない。だから、探すにしても、この広い講内をどう探せばいいのか、という問題が付きまとう。休み時間の明けには、次の講義があるから、それにも間に合う必要性も出てくる。ならば彼女を探すよりも、彼女を待つ方が良策かもしれない。どうあれ、結果的にアパートには戻ってくるのだろうから。
昼食後の講義にて。美久は未だに帰ってくる気配さえない。彼女が何処で何をしているのかが少し気になるものの、このポケットに入れた一枚の紙もまた気になる。確かに、彼女は家で読んで欲しいとは言っていたけれども、彼女がそう言う所以は、目の前で読まれるのがという話であるから、今ここで読む分には支障はないだろう。でも、一応そういう約束であるから、今開けるというのはまずいかもしれない。
しかし、アパートに帰ってからでは、一体いつ、美久の目を盗んで見るべきか。今は、彼女はここにはいないから、よりスムーズに見ることのできるだろう。そう考えれば、今、この紙を見ておいた方がよほど得策ではないだろうか。そう思って、僕はゆっくりとポケットから紙を取り出してみた。四つ折にされた紙は、何か便箋でも書くような仕様だった。それをゆっくりとめくって、その中身をいざ確認しようと、少しずつ、開けてゆく……。
何時か、チャイムが鳴っていたような気がする。もう、昼食の時間が終わるような時間なのだろうか。ふんわりと宙に浮いて、コンクリートの壁に取り付けられた、実際近くで見ると意外に大きな時計を見に行く。確かにその時間は、思った通りの時間で、今頃彼は次の講義の準備でもしているかもしれない。或いは、彼に私を見つけることはできないけれど、私を探しているのだろうか。散歩と言いつつも、同じ場所に留まり続けている私を。
しかし、彼が今何の講義を受けているのかはまったく以って覚えてもいないので、私としても彼の元へ行きようがないのは確かだ。彼はそれなりに勉強には熱心だから、講義をサボってまで私を探したりしないかもしれない。

そこには、シャーペンで書かれたと思われる文字が連ねてあった。やけに丁寧に書かれたその文字は、紛れもなく茉子の字で、何か、特別なことでも起こりそうな予感がしていた……。

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