27話 困惑の最中

「えっ……」
茉子は、ただきょとんとしていた。
「いや、その……」
私は私で、勢いというものを失って、たじろいでしまっている。
「……」
どう言うべきかと、私はただ俯くばかりで、上手い言葉が出てこなかった。
「美久の代わりに……、私が渡晴くんと?」
彼女は、疑問を抱くというよりは寧ろ確認するかのようにそう尋ねた。
「う、うん……」
「美久は、それでいいの? 渡晴くんが私と付き合っても」
そう尋ねる彼女の声は、私には何故か自問自答しているように聞こえた。一度、心に決めたことなのに、もう一度問い質しているかのようだった。

課題もようやく終わり、僕は一息ついていた。時計を見ると、針はいつもなら夕食を終えているくらいを差している。もし今もう一度課題のやり直しを求められても、それを承諾して成し遂げることはできないだろうと思う。それほど、腹が減っていた。でも美久には、先に夕飯をと言われてはいたけれど、一人で食べようという気は起きなかった。
致し方なく、僕はパンの袋を開けて、一つ口へ放り込んだ。あくまで間食だと確認し、聞こえてくるラヂオの声に少し耳を澄ました。
「よかったら、少し考えさせてくれない?」
彼女は私に対して丁重にそう言った。
「返事はまた、連絡するから」
「うん……。その、ごめん、急にこんな変なお願いをして……」
「いや、気にしないで。私は、その……、美久がそうやって渡晴くんのことを想う気持ちは分かるよ。だから……、その想いは、無駄にはしないから」
「うん、ありがとう……」
とりあえず、"渡晴のことをよろしく"と、そのことは是非を問わず伝わったと思う。所詮は自己満足だけど、もしも彼女の返答が否であっても、それはそれで満足だと、そんな風にも思えてきた。

ラヂオからはここ一週間くらいのヒットソングが立て続けに流れてきていた。僕は机に頬を当て、その冷たさに全てを委ねていた。気だるさの中には何もやる気が沸かなくて、しかし遠くに僅かな希望のようなものを残しているかのような、そんな期待感があった。時間は刻々と流れているのに、それが僕の中では止まっているような錯覚を覚える。まったくといっていいほど、微動だにしない身体には、時計の動く音とラヂオの音楽だけが静かに響いていた。
どうも幽霊にとって地上すれすれを飛んでいるという状態は、本来が空中を浮遊しているという状態だから、少し面倒な気がある。私は、茉子のアパートを出た後、空を浮きながら、待つ渡晴の元へと移動している。こうして、空の高いところから町を眺めると、意外にもその夜景が綺麗なことが分かったけれども、それに活かす方法がないため面倒を考えるのを止(よ)した。空はうっすらと雲がかかっていて、揚がる月はその光を柔らかくしていた。僅かに見える空の地(じ)の部分に、飛行機の明かりが見える。街はその明るさを見せつけているかのようで、夜景が綺麗といいつつも、少し禍々しさも感じさせていた。
ラヂオの報じる内容が、いつの間にか音楽番組からニュースへと変容していた。今日もどこかでイベントが開かれただとか、紅葉が綺麗だとか報じられているが、ラヂオなので残念ながらその様子は分からなかった。そんな報道が終わったときに、急に後ろに人の気配を感じて、おもむろに振り返ると、そこにはいつの間にか美久が立っていた。
「おかえり……」
「うん、ただいま。それより、夕食は?」
そう言って、彼女は辺りを見回すが、作ってもいないものは見当たるはずもない。
「もしかして、まだなの?」
腹が減ったせいかどうかは定かではないが、僕は彼女の問いに力なく頷いた。
「そう……。まぁ、私は空かないからいいんだけど、渡晴はあれから何も食べてないの?」
「パンを一つ、間食に……」
「……あ、もしかして私が帰ってくるのを待ってくれてたりしてたの?」
僕はそれに軽く頷いて、机から頬を離して椅子から立ち上がり台所へと向かう。美久はその後を静かに憑いてきていた。
私は、なんだか渡晴に申し訳なくなっていた。まさか、私が茉子のところへ行っている間、ずっと夕食を待っていたとは思いも寄らなかったのだ。私が毎夜彼のアパートに来て、夕食を作ってあげていた時期には、彼には部活が終わるのを待ってもらっていたけれど、今回はその分に茉子のアパートまで行って戻ってくるところまで含めている。だから、時間は増してかかるし、そのことは当然渡晴は知っているだろうから、先に食べているのだとばかり思っていた。それがわざわざ待ってくれていたものだから……。当然彼はおなかを空かしただろうし、退屈もしていただろうに。それを抑えてまで、私を待っていたというのだろうか。
なんだかそんな彼と、今さっき茉子のアパートに行って頼んできた自分とを比較して、自分が滑稽にも、茉子に申し訳なくも思えてきた。確かに、茉子は"無駄にはしない"と言ってくれたけど、さすがにそれが本心かどうかとまでは察することは不可能であるし、単に私に気を遣っただけだと考えることもできる。今後の動向を見れば、それがどうであったかは分かるかもしれないけれど、それではまるで彼女にお願いすることで彼女を試しているようにも思えてきて、余計申し訳なくなる。もっとも、申し訳なくなるといっても、彼女に頼むのは私がここへ戻ってきた理由の一つであるし、申し訳ないと思うことで私自身が揺らいでしまうのは、どうしてわざわざ戻ってきたのだと言いたくなるほど、まったく以っておかしな話だけど。
今の私は、こうして茉子に頼んできたことを悔やんでも仕方なく、寧ろ彼女に対して無二の期待感を寄せる方が適当かもしれない。彼女は期待に応えてくれる。そう思うことが無駄でも、自己中心的でも、時間に制約のある私が無闇に考えこんでしまっては、意味などないかもしれない……。

夕食を食べたあと、僕は一人で風呂に浸かっていた。アパートの風呂なので、さして広いというわけでは決してないものの、一人で入る分には不便はない。思うに、二人で入ろうとするものなら、風呂に浸かるのと身体を洗うのとで分けない分には、少し無理があるように思う。しかし、風呂がついているだけでもいいもので、それ以上を願うのは欲張りというものだ。そんな風呂の中、僕は浸かりながら、天井を見上げて惚(ほう)けていた。美久が来て、それから僕が料理を学びたいと言い出してから、とりあえず炒め物から煮物まで一通りはやったように思う。もちろん、各々にレシピは控えたので、忘れても心配は要らない。ただ、それはあくまで真似事でしかなくて、僕のオリジナルでもなんでもない。だから、必要最低限を持ち合わせるだけではなくて、あとは僕が図るべきなのだろう。まだ、あれから一週間だから、彼女は僕が教わったものよりもっと多くのレパートリーを持ち据えているには違いないが、それに頼ってばかりではいけないだろう……。
やっぱり、落ち着く場所といえば、恋人の傍とお風呂の中は外せない。あとは実家と自室と、それから親の元か。こうして浸かっていると、禊でもするような、心にゆとりが持てるような、そんな気分になれる。自然に優しい気分になれるだとか、ゆっくりと休まる気分になれるだとか。細かいことがやたら気になっていても、それもどうでもよくなっていきそうだ。それが、いいことなのかどうかは、定かではないけれど、心身にとって休まることには違いない。一時的なものであっても、癒されていると感じれば、気が休まるだろう。もっとも、私は肉体など伴ってはいないのだけれども。
とりあえずは、私は何も考えないでおこうと思いながらお風呂に浸かっていた。ぼうっとしてはみるものの、しかし異様に頭の中に疼くものがあって、それが気になって仕方なかった。湯船の外壁にもたれて、頭をその側面に当て、全身の力を抜ききっても、それでもまだ、気になる。天井を虚ろに眺めて、そこに溜まっている水滴を目にすると、あの雨を感じさせる。あまり気分のいいものではないけれど、ここはお風呂だから仕方ないか……。

風呂あがりには身体から湯気が上がるというイメージがあるけれど、この部屋の風呂はそれほど熱くはない。確かに秋ではあるけれど、それほど高くする必要もないと思う。美久は、風呂の温度などに関しては何も言わないので、現状維持でしかない。風呂から今さっき出てきた彼女にしても、湯気など立ってはいなかったし、見る限りは満足そうだった。ただ、少し曇るものもあったけれど、しばらく前に風呂の天井の水滴がどうとぼやいていたので、多分そのことだろうと思うから、敢えて気にするものでもないだろう。
風呂からあがってきた彼女は、椅子に座っていた僕の向かいに座って、それから何かを思い出したかのように立ち上がり、台所へと入っていった。僕は、相変わらずラヂオを聞いていて、キャスターが読み上げる原稿を聞いていた。目の前には醤油瓶と七味の入れ物が置いてあって、醤油はおおよそ瓶の半分ほどの位置まである。所詮は二人で暮らしているのだから、その減りは非常に遅く、前にこの瓶に醤油を入れたのはいつだったろうかと回想してみても思い当たらなかった。醤油はいつのものだろうかと巡らしてみても、よくは分からない。それから、これが何時までもつのか、それもよく分からない。おそらく、この醤油がなくなるまでに美久は帰ってしまうだろうなどと考えていると、なんだか愛しく感じてしまう。
そんな時に、美久が台所から戻ってきて、僕の前に一杯のホットミルクを置いていった。それから、先ほどの席に座って、持つコップに入ったホットミルクを飲んでいた。
「ありがとう」
僕は、置かれたコップを手にとって、それを包みながら、彼女にそう言う。
「いえいえ」
彼女は僅かな笑みを伴ってそう応えると、再び静かにホットミルクを飲むのだった。
ベッドの上、布団の中。
渡晴は、寝るのでなしに、天井をただぼうっと眺めていた。静寂が包む中、時々瞬きをしながら、白色の天井をうっすらと。私は、そんな彼の方を向いて、天井を眺めるその目を眺めていた。渡晴は、多分私の視線には気づいているだろうと思うけれども、何の反応も見せる気配はなかった。しばらく経って、彼はそれでも反応を見せないものだから、私は何だか退屈になって、彼の横腹(よこっぱら)から抱きついてみた。すると彼は、私の方を確認してから、右手を私の背において、またぼんやりと天を仰いだ。
「さっきから、何を見てるの?」
私は、彼の見る先に何があるのかと、彼との距離をより詰めて、彼の頬に自らの頬を当てて、同じように天井を見ていた。しかしそこには何かあるでもないし、ただ見慣れた天井が広がっていた。
「ちょっと昔を、ね」
頬から声の振動が伝わってきて、微妙にくすぐったくも感じる。
「出会った頃とか、初めてのデートとかさ。そういうのをちょっと想い出してたんだ」
出会ったのは茉子のお陰。初めてのデートは水族館。ただ、彼は水族館にデートに行くのはやめた方がいいということを知らなかったのだろうか。それも、初デートで行くというのはあまりにも大胆不敵で無鉄砲だと思う。まあ、知っていたとして、敢えて最初に行ったのだとするのならば、私は大いに感心するけれど。
「あまり時間は経ってないはずなのになんだか懐かしいよね」
「そういえばあの時さ……」
今夜はやっと昔話に花が咲きそうだ。

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