25話 決意を新たに

朝起きれば、私は見事に束縛されていた。何かと思えば、いつの間にか渡晴が抱きついている。私は彼の胸の辺りに顔をうずめていて──それは自分の意思だ──、彼は私の背中に腕を回している。その状態で、何とか手を伸ばし、目覚まし時計を手に取ると、鳴る時間までにはあと半時間ほどあるらしい。さて、どうしたものか、この状態だととても動けそうにないし──もちろん、透ければ逃れられるのだが、渡晴だけはすり抜けたくないだとか、変な拘りをもっている──、特に半時間も潰せるほど考えることもないような気がする。
目の前には渡晴がいて、彼の腕は私の背中に回されていて、まさに昨晩に思うべき形になっているのは確かだ。それがどういう経緯だったのかは知らないけれども、せっかくだから、昨晩為せなかったことでもよいかもしれない。そう思って、私も彼と同じように彼の背に腕を回してみる。まぁ、渡晴は相変わらず寝ているけれど、この状態は自然と心が和んでくる。恋煩いのため息が、一オクターブ上がったような気分になる。
私はここにいなくて、もうどうすることもできないけれど、それでも、この格好の状態でいることがとても幸せだと感じる。何処から沸いてくるものなのか、不思議な安堵感が心へと溜まっていく。まるで帆に風を受けたときの舟のようで、順風爛漫な気持ちが高ぶっていく。安堵の気も大きく、私自身はいないのだけども、ここに渡晴がいるという存在の証明をしているようで、それが妙な安心感をもたらすのかもしれない。こんなとき、人は永久(とわ)に共にいることを望むのだろう。でも、そんなことはできないと分かっている。しかも、それがいつを以って終わりとするかを知っているのは私だけだ。だから私は彼と共にいようとか、いたいとか、そんなことを願いながら、彼を抱きしめることはできない。その代わりに、彼があの茉子と(いい意味で)長きに渡って関わりを持っていくことを直向(ひたむ)きに願いながらこうしていようと思った。

ふと意識が現なる世界に移ったとき、目覚まし時計は止められた。背に少し重量を感じてふと目を落とすと、そこには美久がいて、
「おはよ」
「うん、おはよぅ……」
と、僕は彼女に寝ぼけたまま挨拶をする。
「なんだか、久しぶりにこうしていた気がするよ……」
彼女はそう言って、僕をより強く抱きしめる。そして、僕の方へ(幽霊のはずなのに)体重をかけて、軽くもたれかかってくる。僕はどうすべきか困惑し、とにかくぎこちなくとも彼女の背に腕を回してみた。
「はぁ〜」
彼女は、ため息とは到底言えないようなまるで達成感でも得たような声で言う。
「どうかしたのか?」
「なんだか幸せだなぁって思って……」
「そんな大げさな……」
「べ、別にいいでしょ」
少し怒りながら、彼女はそう言う。
「まあ、こうしているのも悪くはないかな」
「でしょ?」
「でも、どちらかって言うと、僕は……」
「……渡晴はこうしているよりどうしたいの?」
僕は、誰もいない早朝の街中を、二人でのんびりと語りながら、気兼ねなく歩いてみたい。サインと話すことの繰り返しを、ただやっているうちにまたそう思えてきた。
「その、別にいいよ? 今なら。あの頃は、ほら、戻ったばっかりだったから、あまり落ち着いてもいなかったし、急にあんなこと言われて、私はそんなつもりじゃなかったからってだけで……今はその、なんて言うか、落ち着いてきたっていうか、そろそろいいかな〜って、思わなくもないから……」
彼女は、僕の胸元で少し赤くなりながら、そんなわけの分からないことを話している。
「それって、何の話なんだ?」
「あれ、違うの?」
「……何が?」
「えっ、いや、その……」
増して赤くなった彼女は、軽く俯いて、その顔を隠すようなふりをした。
「まぁ、いいけど。それよりそろそろここから出ない?」
「う、うん。そうだね……」
気を取り直して、とりあえず朝食──そういえば今日もカレーなのか。
何とかなくなったカレーは、結構な量を作ったように思う。もう、しばらくはカレーを食べる気はしないし、食べないだろうと思う。いくら渡晴に勧められても、それを快く受ける気はない。
それはさておき、なんとかカレーをなくならせることに成功した私たちは、またもや副産物的に空いた時間を単なる駄弁(だべ)る時間として使っている。渡晴は、今すぐにでも大学へ行くことができる状態にあるし、私も同じように今すぐにでも憑いていくことができる状態だ。だから、電車にさえ間に合えばいいわけだ。この数十分の暇な時間においては、ここ数日に繰り返し生まれるものではあるけれど、渡晴は何とか毎日異なる話題を作ろうと頑張っているらしかった。しかしながら、その苦労はあまり報われず、結局、学校のこととか、夕食のことだとか……それから、明日の朝食のことだとか。私は、時には昔話でもしたいなと心のうちに思ってみるのだけど、それがなかなかそうもいかないらしい。致し方ないので、ここででも語ろうかと思う。
出会って一ヶ月半で付き合うことになった私たちは、次の日の昼食の時間に、そのことを茉子と聡司に打ち明けた。茉子は、そのことに対しては大して祝うこともなかったが、逆に憂(うれ)うこともなく、ただ"よかったね"の一言を言っただけで、それがどんな意味を含んでいるのかは定かではない。聡司は、何処吹く風であって、さしてそのことを気にしているような様子はなかった。それから、私たちは二人に認められた(?)彼氏彼女ということになった。
けれども、以前と変わったことといえば休日の過ごし方くらいで、昼食のときの会話はさして変わることはなかったと思う。そのときの茉子や聡司の反応も変わることもなく、昼食のときはいつもと同じように時は過ぎていった。
休日においては、例えば近くにある水族館に、あくまでもカップルであるということを強調して──目的は魚ではないのだ──、手をつなぎながら歩いたりしたものだった。当時はまだ出会って間もない頃で──付き合う期間が長い人にとっては今の私たちもそうであろうが──、何とか辛うじて手を繋げるほどでしかなかった。ましてや、抱きつくなどとは程遠いものであって、あれなどは……それこそ口にもできなかった。今となっては、手を繋ぐも造作もないし、抱きつくにしても公然では恥ずかしいかなという程度だと思う。所謂、あれに関しては、一応、経験なるものは無きにしも非ず、ではあるけれども一度きりだったと思う。で、あるからにして、私たちの四ヶ月の間のデートも数えられるほどでしかない。
でもまぁ、その少ないデート回数に逆行したかのように私はこうして戻ってきている。永遠に一緒にいたいと、何度も思ったことはあるけれど、もし私が事故に遭っていなければ永遠にいたかどうかとはまた別の話だろう。とにかく、あの時──この世からいなくなった時の私には心残りなど山済みで、もちろん渡晴は外せないけれど、茉子の様子も大いに気になっていた。
そんなこんなで、こうして戻ってきたわけであるけれども、この"現世に戻る"という行為にはまったく以ってペナルティがない。不思議なものだと思うけれども、せっかくその機会があるのならばと、私はそれを利用させてもらうことにしたということだ。
そういえば、聞いた話によると、期限が切れているのに意志が強すぎて戻ってこないというケースもあるらしい。いや、私にしてみれば、それでは本当の意味で目標を達成したとは言い切れないし、そんな方法で果てなく渡晴といても、渡晴は少しも嬉しいとは思わないだろう。どのみち、逐一憑きまとわれれば、必ずどこかで飽きというものは来るのだと思っている。それこそ、頻度は多くとも常ではないくらいがちょうどいいのだ、とも思っている。
ともかく、そうして彼氏彼女になった私たちは、二週間に一回程度、何処か近いところで、例えばショッピングモールとかデパートとか、さっきの水族館なんかをぶらぶらとしていた。何とか手を繋げていた私たちは──しかしながら、私自身は男と女であるという恥ずかしさしかなかったのだが、そのショッピングモールやデパート、水族館にいるという事実よりも、二人で一緒にここにいて、手を繋いでいるということの方が大きく、一度だけ行った水族館にしても、水族館の風景や泳いでいた魚よりも、二人で話した内容の方が根強く残っていた。
前にも話していたように、私は渡晴が初めての彼氏というわけではない。だから、四ヶ月という月日があまりにも短いことぐらいは知っている。それから、そのようないかにもなデートが水族館しかないということが、少ないことも知っている。渡晴の方は、どうやら初めてらしいので、大方は私が引っ張るような形であったのはいうまでもない。ただ、手を繋ぐことやらの接触の方はともかくとして、私と話すこと自体には抵抗や躊躇は感じなかった。恐らくは、それなりの友達がいた──例えば、茉子にしても高校三年間同じクラスであり続けて、昼食まで一緒にとっている──のだろうと、思われる。その分には結構気楽に話すことができたので、出だしもよかったと思っている。
途中──私が初めて渡晴のアパートで夕食を共にしたときからは、ほぼ毎晩会うようになっていた。それまでは、デートといえば集合→ショッピング(店内を赴くままに)→いずれかの住まいという形が多かった。それが、渡晴の夕食が私からすればあまりにも簡素で、それこそ見過ごしては置けなかったので、厚かましくも、私がその料理を買って出たというわけだ。放っては置けなかったというのが、単なる世話好きとしての理由になるかもしれない。
そんなこんなで、それからというもの、私たちは夕食を共に摂ることがほとんど常となっていた。そのことが普通と認識される頃、私はそのとき乗り合わせた電車で……、と、いうわけだ。もちろん、あまり思い出したいという気にはなれない。ただ、それも一つの事実なので、致し方ないのだろう。
あの日は雨が降っていて、私は地元の駅まで傘を差して行った。どちらかというと電車イコールというよりも雨イコールという変なトラウマの原因には理解が及ばないが、それはともかくとして、いつものように定期で以って電車へと乗り込んだ。電車は相変わらず混雑していて──ラッシュ時なのだから当然だ──、私は少し無理をして電車へ乗り込んだのを覚えている。この日も相変わらず電車はがたんがたんと揺れていて、電車の窓にはただ降り続ける雨が当たっていた。
次の停車駅で大学につく頃だというときに、突如電車は大きく揺れて……それから先はあまりよく覚えていない。ただ、気がつけば目の前に緑色のシートに覆われた自分がいて、私はそれだけで何となく自分の今ある状況を悟っていた。少し変な感覚に付きまとわれながら、私はその部屋のドアをすり抜けた。するとそこにはあの三人がいて、渡晴と茉子は同じ椅子に隣り合って腰掛けていて、聡司は向かいの椅子に座っていた。私はその状況をぼんやりと見ていて、しばらくして顔を上げた茉子とごく自然に目が合ったような気がした。彼女は少し頭をかしげて、それからまた、渡晴の手を取って、わずかな温かみを与えていたような気がするのだ。
しばらくして、眼下の、先ほど抜けてきたドアから白衣に身を包んだ人が出てきて、三人に然るべき状況を伝えたと思われる。それを聞いた渡晴の反応は早かった。ひざを落とし、足元を一瞬見つめ、それから再び上げた顔に一筋の線が引けていた。茉子も聡司も、頭を垂れて、憂鬱気にしていた。それからは、ただ渡晴の泣く声が聞こえてきたり、それを構う茉子の声が聞こえてきたり……。ただ、茉子は、まるでそこにいるのが分かっているかのように、こうして私のいる方を向いて、私に対して何かを誓っていた。それが一体何だったのかはあまりよく覚えていない。でも……、彼女には私があそこにいることが見えていたのだろうと、今になってそう思うのだ。

今日もまた、いつもと同じように学校へ行く。街中を歩きながら、サインを送り、話を聞く。そうして僕は、今日もまた、あの電車に揺られて、あの大学へと向かってゆくのだろう。茉子と昼食を共にすることを誓い、聡司の隣にたまたま座り、美久に告白したあの大学へと。

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