22話 時 〜一週間〜

よく考えれば、あれから一週間が経っている。美久がこうして帰ってきてから一週間。どこから帰ってきたのか、どうやって帰ってきたのか。それは本人しか分からないが、僕は訊いてはいけないような気がしていた。
例えば天国というものが在ったとして、そこから美久が帰ってきたとするならば、美久は天国という存在がこの世にあるということを知っているということになる。しかしながら、今ここにいる僕がその存在を知ってしまうのは自然の摂理とやらに反する気がする。本来、そこは死後の世界であって、今こうして生きている僕が知り得るはずのない世界なのだ。それを僕が知ってしまうということは、普通に生きればありえないのだろう。だとすれば、いくら美久がここにいるとはいえ、知るべきではないはずだ。自分がこの世から生というものを失ったとき、初めてその存在を知ってこそ意味があるのだと思う。だから僕は敢えて、美久が何処からどうやって戻ってきたのかは訊くつもりはない。そう心に決めている。
朝食は、昨日の夕飯のカレーだった。ただ単に冷えたカレーを回しながら温めて、それを予め炊いておいたご飯にかければよい。
カレーは中辛──と、ルーのパッケージに書いてあった──で、具は少し多めだ。鍋からよく混ぜたカレーを取り出して、もちろん炊き上がりのホカホカしたご飯にかける。カレーの中の玉ねぎはある程度溶けていて、明日の夜にならずとも、既に形をとどめていないに違いない。ジャガイモに至っては、煮崩れさえしているだろう。でも、そうして数日置いたカレーがまたおいしいのだ。それは、数日置くことによってよりコクが出るためだ。そのコクこそがカレーの醍醐味ともいうべきであって、数日置いたカレーにコクが味わえなければ、それはカレーとは呼べないと、豪語したいくらいだ。それくらい、僕がカレーに掛ける情熱は大きい。
過去に還れば、実家で食べていたカレーは、これといって特別であったというわけではない。カレーの日だけ大食漢になったり、具で姉さんと争うようなことはなかったし、カレーの日を心待ちにしていたわけでもなく、当時は"好きなもの"を問われて、カレーと答えることもなかった。どちらかというと、あの頃はシチューの方が好きだったかもしれない。
それが何故こうも好きになったのかというと、美久がまだいるときに、二人でデートに行った先のとある小さな食堂で食べたカレーがあまりにもおいしかったからだ。その際、そこの人に"おいしいカレーの作り方"のようなものを聞いて、その大前提が"長く煮込むこと"であったのだった。
それからというもの、カレーを作るときには、多く作り長く食べる──こうすると自然に長く煮込まれる──という方針になった。ただ、いくらここでたくさんのカレーを作ろうとも、玉ねぎの例の涙は付き物だと思って諦めてはいたけれど。つまりは玉ねぎのあの涙に関して、対抗策とやらがあることも知らず、例えば今いる場所から別の場所に行くには移動しなければならないことと同じように、必然だとばかり思っていた。ただ冷蔵庫に入れるだけ、ただレンジで温めるだけ。そう言われると、少し玉ねぎがあっけない気もし、そんなことさえも知らなかった自分が恥ずかしくもなってくる。
元々、どちらかといえば、自ら進んで食事を作って人に振舞うでもなしに、自分が必要な分だけ、自分さえ間に合えば、それが他人にとってどう感じようとも、それでよかった。誰かが食べに来るようなものでもなく、作ったものは自分が食べるだけで、それがどれだけ粗雑なものでも他人に迷惑がかかるわけでもなかった。
そんな食事の存在が、美久の存在によって変わることになる。
彼女は僕があまりにも雑な生活をしているのが放っておけなかったらしく、自ら食事を作りたいと言い出した。僕は当初、美久に対してそれほど甘えるわけにもおかないと思って、その申し出を断ったが、彼女はそれを押し切って、結局は美久がこの部屋、この空間における夕食を作ることになった。
美久は美久で、きちんと学校が終われば帰る場所があったが、大方の日は僕と一緒にここへ来て、彼女ご自慢の夕食を作り、それを僕と食べてから帰っていた。時たま彼女がうちに来ない日もあって、そんなときは、昨日のようにカレーを作るか、若しくはコンビニに行って、適当に買ってくるか、そのいずれかだった。
彼女と付き合う前は、そのようにカレーに対して情熱を注ぐわけでもなかったから、大半はコンビニ弁当だった。学校帰りに、途中にあるコンビニに寄って、そこで弁当を買い、コンビニの袋をぶら下げたまま家へと帰る。そんな生活をずっと続けていたので、彼女が唐突にそんなことを言い出したのは当然といえばそうかもしれない。僕はとりあえず自らの食欲さえ満たせればよかったので、コンビニの弁当に入っている食品添加物や、その栄養価などは大して意識さえしていなかった。一ヶ月半という、大学のキャンバス生活が始まってから彼女と付き合うまでの期間において、一切の栄養価とその影響を無視しきった結果、それが及ぼしたものといえば、恐らくは口内炎だと思う。何かにかけて触れる度に激痛が走るものが、美久がうちに来て夕食を作ってくれるようになってからすっかり解消されたように思う。恐らくは、栄養が偏っていたに違いない。
美久がここへ来なくなってから、つまり空の遥か高いところへ旅立ったあとにしても、その半月間は相変わらず、美久に会う前と大して変わりのない生活を送っていたものだから、それも元へと戻っていたような気がする。口内にあるが故に、増して何か作って食べようという気も失せて、ただ毎度コンビニで済ませ、たまに来た──週のうちに一回くらいだったと思う──茉子の作ってくれる料理を除けば、ずいぶんと手料理というものを食べていなかったことになる。
僕はあの酷い食事バランスから脱して例のカレーに出会い、少しは気持ちを改めた気でいた。でも、美久がいない夕飯の場は、僕にとって脱力感を醸し出す場所でしかなく、結果的に改めた気持ちさえも吹き飛んでしまったのだ。だから、ああして美久がここへ戻ってきたのも、彼女にすれば当然のような気もするし、僕にすれば改めた気持ちを恥じずにはいられなかった。
カレーの雰囲気を歯磨きによって一掃し、少しすっきりとした心持ちになって、僕らはいつものように家を出た。
今日は、昨日と打って変わって、空はよく晴れていて空気は澄んでいる。所謂秋晴れというやつで、少し肌寒い気がしなくもない。空にはいくらか雲が浮いているものの、それは絵の具を筆で紙面に向けて飛ばした程度で、それほど多くはない。空気は透き通っていて、山ほどではないにせよ、結構綺麗な状態にあると思う。霧は出ておらず、遥か彼方に山々が見えていて、いくらかとんびが飛んでいる様子が伺える。道にはいつもと同じように通勤や通学の人が行き交っていた。
美久は昨日とは打って変わって至って元気で、階段も僕より先に下まで降りてしまったし、歩くスピードもいくらか速いような気がする。いつものように僕に話しかけてくるし、僕はそれに対して例の如く頭を触ったり肩を叩いたりして反応している。
彼女は僕の前を後ろ向きに歩いていて、僕の前方、彼女でいう背後に人がいようと、彼女は諸共せず透けて通る。だから彼女を透けるまでは見えない、その前方にいる人を避けなければならない。しかしながら、彼女は少しも気にしてはいないようで、僕をしては多少辛くも思う。
彼女にとって、自身の身体を透けてくる物体がどういう感触をもって通り過ぎていくかは、僕には想像できない。しかし、僕にとっては、彼女の中を物体が通ってくるのを見ることはあまり気味のいいことではない。通り抜けてくる対象はじわじわとその姿を現し、しかし美久はそれに全くもって考慮する様子がなく、僕は少し顔をしかめながら少し横へ行き相手を避けるのだった。
美久自身はただ只管に話すし、僕自身はただ只管に避けるし、美久は反応の遅い僕に対して、少し声高になっている。いや、別に聞こえていないわけでもないのだ。そう美久に言いたいものの、とてもではないが一人で話すかのように話そうという気など起きない。致し方なく、僕は美久を通り抜けてくる人に注意し気を遣いながら、今まで通り美久に対して反応するしかなかった。
大学では、特に昨日となんら変わらなかった。
講義は……
聡司は、相変わらず僕と少し距離は置いているものの、一応話しかけてはくる。少しは解消されたようにも感じるが、美久の方は相変わらずなので、僕としては気が重くも感じる。
美久は、僕からして聡司とは反対の方向に座っていて、のんびりと本を読みつつ──机の下だけれども──、よく黒板を見たり僕を見たりしている。本を読むことに関しては、とくに集中しているような雰囲気もなく、仕方ないからといったような感じにも思える。先日、何やら僕の部屋の押入れやら本棚を漁って、よさそうな本を探していた。彼女はそのとき見つけた例の本と同じ作者の本を読み始めたらしい。
昼食は……
聡司は、茉子と楽しそうに話している。
茉子は、それを楽しそうに聞いているものの、美久を異様に気にしている気がしてならない。
美久は、僕の座る椅子の背もたれにもたれかかって、食堂と外の風景を見つめている。恐らく茉子は、ああして外を見ている美久の様子が気になるのだろう。しかし美久は、一体何を考えているのか、それが全くもって予想すらつかない。今、僕が座っている椅子を立とうとも、もたれかかっている美久に対しては影響はないけれども、どうも僕は、美久の前へ回って、彼女の様子を伺おうという気にはなれなかった。
放課後は……
聡司と茉子は部活へと行っているはずだ。
一方の僕は、美久とメインホールに置いてあるベンチに腰掛けている。電車に乗るには、まだ随分と待つ必要があったので、寒い外を避けてこうして室内で待機しているという状況だ。ホールには、他に二人ほどいるものの、どうやらその二人はカップルのようで、二人だけで別のベンチに座って話している。僕らも同じように話せたらと思うものの、隣にいるのは実体のない幽霊だから致し方ない。朝と変わらず、彼女が話す内容に対して僕がする動作によって反応を示すことを、やるだけしかない。もちろん普通に話したいのは山々だけれども。
僕は、ベンチに対して少し斜めに座って、美久に動作が分かり易い状態にしている。美久は、僕の反応に合わせて色々と話しているが、話題も尽きてきたのか少し疲れているような雰囲気が漂っていた。
そうして時間が経って、電車に乗るにはちょうどいいと思われる時間になり、僕らは学校を出て駅へと向かった。それから、いつもと同じ柄のいつもと同じ時間にホームに入ってくる電車に乗って、アパートがある駅へと到着する。太陽が大幅に傾いて、しかし夕焼け色には変化していない頃、僕らは陽に照らされた道を二人で並び、言葉さえ交わさないままアパートに向けて歩き続けた。

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