21話 台所の中、一つの玉ねぎに

学校、昼休み。僕らは相も変わらず、食堂でテーブルを共にしている。聡司は何やら楽しそうに茉子と話していて、茉子もそれ相当に返事を返している。美久は、僕の正面に立っていて──ちょうどそこは茉子と聡司の間だ──、朝と同じように僕に話しかけてくる。僕はそれに大して、また頭を掻いたり、肩を叩いたりして反応している。
改めて書いておくと、Yesが頭を掻く、Noが右肩を叩く、?が左肩を叩く、突っ込みが顔を触る、である。朝における突っ込みは、思いにもよらなかったことだけれども、それはともかくとしよう。あまり気にしすぎても仕方ない。
その後は僕は早急に右肩を叩いて、それが突っ込みという意思を示すものではないと提示したのだが、右肩を急いで叩くという行為は、少しおかしく見えるに違いない。一人で話しているように見えるよりはよっぽどましだということは分かってはいるけど、それでも違和感は拭えない。
一方、今はあのときよりは円滑に進んでいて、単に頭を掻くというだけでないのが嬉しい。頭ばかり掻き続けるのも、ここは食堂という場なので、衛生上は少し気にしているつもりではいる。この期においては、軽く触れても、一応は美久に伝わるので、不便はなく助かっていた。
「雨もまぁ、見様によってはいい風景だよね」──頭を触る
「でも、私は気にしすぎていたのかな? 単にあの日もいつもと同じように雨が降ってただけなのに」──右肩を叩く
「別に雨を意識していたわけじゃないんだけどね」──頭を触る
「あの日降った雨は実際の事故とは無関係だって分かってるのに、トラウマみたいに染み付いてて」──頭を触る
「渡晴はある? そういうトラウマみたいなこと」──右肩を叩く
「そう……。私はどうも雨に弱いみたい……。もしまた雨が降って、今日みたいになったら、無理に引っ張って連れて行ってくれても構わないからね。多分、外に出る分には支障はないだろうから」──頭を触る
「まぁ、抵抗したらそれはそれで仕方ないけど」──顔を触る
「でもどうしようもないしさ。その時は私は家で留守番でもしてるよ。雨が止んだらいつも通りに動けるだろうから、夕飯でも作って待ってるよ」──頭を触る
「渡晴は学校でゆっくりと茉子と話でもしてるといいよ」──顔を触……
「渡晴くん、さっきから何をしてるの?」
突然、茉子からそんな風に尋ねられて、僕は少し焦る。
「え、いや……」
茉子は、明確な答えを述べられない僕を確認して、美久の方を見た。聡司は、茉子が何を見たのかと茉子と同じ方を見るが、生憎彼に見えるのはただの天井だった。
「私が話すのに対して、渡晴が普通に返事を返していたら、渡晴は独り言を話しているように見えるでしょ? だから、予め何か合図を決めておいて、それで渡晴が返事してるってわけ」
茉子は、そんな美久の説明を聞いて軽くうなずき、聡司は、茉子が頷いたことのわけがわからずに、きょとんとしている。なんとも、聡司がいる前では、その理由が説明しにくい。しかしこうして、美久が説明してくれると、聡司には聞こえないから不審に思われることもないし、茉子には明確に伝わるというものだ。
「まぁ、いいけど……」
茉子は僕に対してそう言ってから、わずかに遅れてウィンクをした。おおよそ茉子も同じように美久の存在を含めた話ができないのだろう。だから、なんだか冷たいことを言って、その逆のウィンクをしたに違いない。聡司は、茉子が異様に冷たい当たり方をしたことを、不思議に思っているだろうけれども。
しばらくして、その疑問がなんとなくだと感じたくらいに、聡司はまた茉子と話していた。美久はいつに間にか僕の背後に来ていて、僕の腰掛ける椅子の背もたれにもたれていた。彼女は、僕の背後に広がる風景をぼんやりと眺めているようだった。そこにはいつもと変わらない食堂の風景があって、騒々しく会話が交わされている。窓の向こうには、落ちかかった葉っぱが何枚かぶら下がっている木が見えている。それでも、何だか彼女の背中が微妙に小さく見えて仕方なかった。
渡晴にとっては、この食堂の風景はいつものものだろうと考えるだろう。でも、私にとっては、本来はもう二度と見られない風景であった。それをたまたまこうして戻ってきているから、見れるというわけだ。しかしながら、私がこの景色を見ることのできる日も、もう限られてきている。あとどれくらいあるだろうか。雨に濡れた外の木々を見てそう考える。
はっきりとしない外の天気が少し鬱陶しくも思えて、なんだか残りの日を考えることも鬱陶しく感じた。急がなくてはならないけれども、少しくらいゆっくりしてもいいのではないだろうか。結果を見届けなくとも、私がきっかけさえ二人に与えられれば、結果は一緒であるだろうし。確かにどうなるかは気にはなるけれども、空からでも見れなくはないのだ。ただ、彼に彼女に、結果について何か言うことができないだけ。ただ、彼の彼女の、近くからその結果を見れないだけ。少し離れたところから、見ることになるだけ……。それだけのはずだ。
でも、何故だか妙に胸が疼く。どこか、寂しく感じる。いくら、あとのことを茉子に任せようと思えても、渡晴のことを茉子に委ねようと思えても、それでも、彼とは長く居たい。いろいろと話したく、もちろん結果的に茉子と付き合うことになっても、そのことに対して何か一言でも彼には言っておきたい。茉子にも、もちろん、同じように。ゆっくりと渡晴と共に過ごし用事を少し後回しにするか、手っ取り早く用を済ませてその残りの日こそを共に過ごすか。どちらであれ、今私がこうして幽霊である限り、なんとなく納得できないのは確かだった。

学校も終わり、家路につく。駅からの道を再びゆっくりと歩く。朝と同じように、学校帰りの人や、少し早い目に終わったのであろう会社員の人たちだった。僕は、太陽が軽く射す駅前の並木道を、美久と共にゆっくりと歩いている。陽の当たる木の影を、美久は踏ままいと歩き、僕はそんな彼女の横で、彼女がそうして歩くさまを見ている。彼女は時折、"ほい"とか"よっ"とか、謎めいた声を発しながら、歩道の上を飛び跳ねている。思わず影を踏んでしまうと、悲しそうにぼやくものの、それはおぼろげにしか聞こえず、僕には認識し難かった。
しばらく歩いて、影も薄くなってくると、彼女は諦めたのか普通に歩き始めた。僕は例に倣って、自分の左肩を叩いてみせると、彼女は、
「なんだか面倒くさくなってきちゃったから……」
とぼやいて、僕との距離を僅かに詰めて歩いた。
しばらくは、ただ淡々と、大して何かを交わすわけでもなく、歩き続ける状態が続いた。美久は時折微かに空を見上げ、朝とは対照的な晴れ晴れした天気を眺めていた。それに対して、僕は空にうっすらと出ている月を見ていた。そういえば、美久はどこから戻ってきたのだろうか。そんな考えが浮かばないこともなかった。
今日はカレーだ。何故カレーなのか。作り置きができるから。それも強ち間違いではないが、渡晴が言うには"時間が増える"からだそうだ。つまりは夜にカレーを作っておけば、明くる日には夕飯は単に昨日のカレーを温めるだけで、新たに作る必要がなくなり──つまり手間が省け、それによって時間に余裕ができ、結果的に時間が増える、とのことらしい。要するに私ともっとゆっくりしていたい、ということだろう。なんせ、多少赤くもなり、半ば浮かれているのは見え透いているのだから、それ以外の理由があるとは到底考えづらい。可能性として、それ以外のことがなきにしもあらず、ではあるけれども、それが一番的確であると思う。
彼が私と話したいという意思は、私が彼と話したいということと同じであるから、もちろん私にも理解はできるけれども、カレーを作ることとなると、数日は彼の料理の勉強(?)ができなくなる。彼は実質は一人暮らしであるから、私としては私が帰るまでにしっかりと自炊できるようになって欲しいと思う。あくまでそのことはついでとは言えども、それなりに彼にとっても肝心なことだ。だから、ここでカレーを作ったからには、あとでその分を取り返すくらいのことが必要だと思う。そのときには、せっかくであるので茉子も呼んで、軽く夕食会など開いてもいいかも知れない。そこでそれなりの量の料理が作れれば、問題なしだろう。
ところで、カレーについてだが、今日はそれなりの量を作るらしい。それを作り置きして、ここ数日間の朝夕の食を間に合わせる。それが渡晴の計画であるが、そうなると本日冷蔵庫にある具材だけでは到底足りない。よって、現在渡晴は近くのスーパーで買い物中である。家で待つ私が確認したところ、カレーのルーさえ見つからなかったので、どのみち食材の量に関係なく買いに行かなくてはならなかったようだ。
私はそうして出かけていった渡晴を待つにあたって、渡晴の部屋にあったMDコンポに、ボックスに徒(いたずら)に入れられたMDを入れて、何となくそのスイッチを入れてみた。MDからは年度初めに売れたJ-POPが、二番から流れてきた。それは、ちょうどこの曲の半分の位置で、所謂折り返し地点だった。

買い物から帰ってきたとき、部屋の中には音楽が流れていた。
少し和やかな雰囲気が続いたかと思えば、急に速くなったりする忙しい曲だった。それはもちろん、僕が借りてきてMDに落とした曲だ。ベッドの上では、美久が寝そべって、部屋においてあった例の本を読んでいた。音楽の音量は普段どおり、やたらうるさいわけでもなく、隣室ならささやかに聞こえてくるかもしれないという程度の音量だった。
美久の様子を軽く伺ったあと、僕は台所に行き、買ってきたものを冷蔵庫に入れた。その間も尚、美久は僕が帰ってきたことに気づいているかどうかさえ定かではなく、ただ只管に本を読んでいた。僕がようやく全部を入れ終わって自分の部屋へ戻ったとき、やっと美久は、
「おかえり」
と、本から目も離さずに言った。その素っ気無さに少し虚しさも感じながら、僕は寝転がっている美久の隣に同じように寝転がってみた。隣では、美久が本を真剣に読んでいる。僕は、昨日の夜にかけて読んでいたおかげで、昨日やっと読み終えた。展開はもちろん美久に言うことはできないが、そこにはあっと驚く結末が待つのだ。ちなみに、その本は推理小説で、気侭な探偵が最後だけあっというような推理を振る舞い、推理が終わると元に戻ってしまうというやつだ。別にそんな彼の振る舞いに惚れたわけでもなくて、ただ、推理の論理的思考を学ぼうと思っただけのことだった。つまりは作者の推理小説におけるトリックなどのことだ。
自分の参考にしようと思って、その推理の様子を買ったわけだが、今ではいつの間にか幾つもここにある。きっと何かに魅入られてしまったに違いない。そして、これからもまた、次回作が発売されるのを待ち続けるのだろう。
美久は、今こうして読んでいるのが、彼が描く小説を初めて読むときだろう。僕は、彼女に肩を寄せて、その傍らから彼女の読む本を覗き込んでみる。本は半分を少し過ぎたくらいで、この分なら一晩集中的に読めば終わるだろうと思われる。
しかし、眠らなくとも大丈夫な彼女が、そのように読もうとはしないのは恐らく僕を配慮してのことだろう。本を読むにしても、もちろん明かりは必要であるし、この部屋には天井に吊るさせている電器しかない。だから、夜には読めないのだ。
そういえば、よく考えればこんなことをしている場合ではなくて、さっさとカレーを作る場合だ。見ての通り、美久は本を読んでいるし、大方カレーなら、ルーの裏パッケージを見れば、そこに書いてあることをするだけでいい。おおよそ、わざわざ美久の手を借りなくとも、一人で作ればいいのだ。そうと決まれば、早速行動にうつせばいい。思い立った僕は、ベッドから立ち上がり、台所へと入った。
一区切りがついて、私は本を閉じて傍らに置いた。気づけば隣にいたはずの渡晴はいつの間にかいなくなっている。私は彼を探すために、ベッドから起き上がって、リビングを覗いてみた。しかし、彼はそこにはいなかった。何か音がするような気がして、その音の方向を辿ってみると、台所からのものだった。
様子を伺うようにゆっくりと台所を覗くと、そこには案の定、渡晴が立っていた。彼の横へ移動すると共に、彼がたまねぎを切っていることが認識でき、さらには現在ちょうど一つ目を切り終えた頃らしいことも分かった。横から彼の顔を伺うと、少し目を細めていた。
「なんか、催涙弾でも食らった気分……」
「もしかして、それって買ってきてすぐのやつ?」
「うん。そうだけど?」
「……冷やしてない?」
「冷やすって?」
どうやら渡晴は、玉ねぎの硫化アリルに対抗する方法を知らないらしい。
「玉ねぎは冷やしたり、電子レンジで温めてから切ると、涙が出にくくなるの」
それを聞いた渡晴は、呆気にとられている。
「へぇ……」
そう言って感心した彼は、まな板の横にあった玉ねぎに手を伸ばし、それをまな板の上に乗せて、包丁でそれを切ろうとする。
「……人の話、聞いてた?」
「えっ、う、うん」
何処が聞いていたのだろうかと、今度は私が彼に対して呆気にとられてしまっていた。

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