20話 雨の中、思いを寄せた人と

「渡晴、雨降ってるよ」
彼女は、部屋の外を見つめながら、僕にそう言った。
「えっ、雨?」
僕はそう答えながら、彼女と同じ、窓からの景色を見た。いわゆる秋雨というもののようだった。
「傘が、いるね……」
彼女は寂しげにそう言う。そういえば、言い忘れていたけれど、あの日もこうして雨が降っていた。電車が事故を起こした直接的な原因ではないにしろ、彼女にとってはそれは特別なものなのだろうと思う。もちろん、僕にとっても意味のある天候であることには変わりない。でも彼女の比ではないはずだ。
ところで、雨が降っているということは、空は曇っているということだろう。しかしながら、先ほど外へ散歩に行った折は、空は晴れていて、とても雨などが降る気配などなかった。多分雨雲は何処からともなくやってきて、こうして僕らの上に負ぶさるように居座っているのだろう。
僕は空高くを眺めて、上空の様子を伺ってみた。するとそこには雲はなく、どうやら、雨は一時的なものでしかないらしいということが分かった。僕は、既に用意を済ましていた鞄を手に持ち、相変わらず空を眺めている彼女に、今しようと思うことを告げた。しかしながら、彼女はそれに反応せず、ただ、優しく雨の降る外の景色を眺めている。
僕はもう一度、その旨を先ほどより少し大きな声で伝えた。しかしながら、彼女は一行に反応する気配を見せない。僕は仕方なく、彼女の前に立ち、そこから軽く彼女の顔を覗き見た。すると彼女が泣いているのが見えて、僕は少し困惑した。
若干の時間が経って、決心した僕は、ゆっくりと何かを恐れるかのように彼女に近づき、そして軽く彼女の肩に手を乗せてみた。すると、彼女はやっと僕に気がついたみたいで、僕に対して謝ってから、再び窓の外を一瞥し、ゆっくりと外の景色を背にした。僕は落ち着き払って、彼女の手を軽く、まるで先導するかのようにひいて、部屋の玄関へと向かう。彼女は、ただ導かれるままに僕の手にひかれ、何も言わずに僕の後ろについてくる。しかし、未だに泣いているようにも感じ、僕はこのまま彼女を連れて行くべきかと少し思案した。
玄関に着いて、軽く彼女の方を向くと、彼女はまだ俯いていて、瞼の下は、少し湿ってもいるように見えた。僕は、玄関先に降りて、自分の靴を履いた。傘を手に持ち、彼女に行くことを言うと、やっと気づいたのか、僕と同じように玄関先に降り立って、僕と同じように靴を履いた。
僕は玄関のドアを開け、外の世界を見た。そこには相変わらず雨が降っていて、彼女はそれを憂うように見て、それから僕の顔をまるで何かの合図でも待つかのように見た。そんな彼女の顔は、いつもの元気のある顔ではなく、少しげんなりとしていて、まるで美久に対して悪寒を感じたときのあの茉子のようだった。何かに怯えているような、何かを感じているような、そんな顔をしていた。
僕は、傘を開いて、玄関から外に出る。外の空気は湿っていて、ぐったりとさせる雰囲気が漂っている。美久も外の空気と同じように、ぐったりとしている。足取りも覚束なく、少しふらつくようにこちらへ歩いてくる。僕は相変わらず彼女の手を引いて、誘導している。やっと玄関のドアとの境目に到達した彼女は、少し立ち止まって、何故か空を見上げた。そこには青空と雨雲の境目がくっきりと出ていて、太陽もそんな場所から半分だけ顔を覗かせていた。
僕らは階段を降り、地上へと向かった。中途半端に照らされた地面は濡れていて、雨の波紋が微かに映されていった。
僕の右若干斜め後ろに続く彼女は、何とか頭は上げたものの、しかしあまり浮かない表情をしている。僕は、少し引いて、彼女がもう少し傘の内側へと入るようにした。それを知ってか知らずか、彼女は僕との距離を詰めた。
僕らは傘の中に寄り合って入っているつもりで──他の人にとってはただ僕が意味もなく傘を寄せているだけだが──、駅までの町を歩く。
駅までの距離がちょうど半分位になった頃、彼女はようやく頭を上げた。
「ごめんね」
彼女は、微かな声でそう言った。
「いや、いいよ。それより、大丈夫?」
「うん。別に気持ち悪いとか、そういうのではないから……」
恐らく、思い出してしまったのだろう。あのとき、起こったことを。でも、それだとすれば、
「電車は?」
これはどうなるのだろう。未だに雨は降っているし、この状態で電車に乗るということはあのときの同じだ。
「電車……? えっと、多分大丈夫だと思う。もう、思い出されるようなことは一通り思い出したはずだし……」
「なら、いいけど」
「あまり、気にしないでね? もう、大丈夫だから」
「おう」
とは言ったものの、やはり心配だと思うことは止まず、最終的にこの杞憂は寝るまで付きまとうことになりそうだった。
ようやく駅に着いた。ここは、家から二十分と掛からないところである、それは分かっていたけれども随分と遠く感じた。僕らは入り口から駅の構内へと入る。そこは通勤の人でごった返していて──それは勿論いつものことだが──、ただひたすらに混んでいた。定期券を片手に持ち、僕はいつもと同じように駅の改札を通過する。しばらくして、改札が閉まろうかというときに後ろに並んでいた人も後に続いた。美久は、僕のすぐ後ろを歩いていて、改札と駅員さんは、彼女に何も言わずにそこに居た。
僕らは改札を過ぎた道を、左側へと曲がり、さらに左折して、階段を下りていった。彼女は、何も言わなかったけれども、大して思い悩むことがあるようにも見えず、ただすれ違う人となんら変わらない顔をしていた。
駅のホームに着き、僕はホームの雨よけを支える柱の一つに寄りかかって、電車が来るのを待った。雨は未だ降り続け、彼女はずっとそれを眺めていた。
向かいのホームに電車が入ってきて、そこからいくらかの人たちがホームへと降りた。雨は未だ降り続け、彼女は向かいの電車を一瞥して、また雨を眺めていた。向かいの電車から一通り人が降りると、今度はホームに居た人たちが電車に乗り始める。電車の向こう側に見える階段を、黒いスーツや黒い制服に身を包んだ人たちが登っていく。雨は、いつの間にか少しましになったような気がした。時計を見ると、電車が来るまでは、あと二分くらいだった。ホームにはそれなりに人が集まり始め、電車の混雑を窺わせる。美久は空を眺め、僕はそんな彼女を眺めていた。
来たる電車に、下がる人々。アナウンスでは、"黄色い線の内側まで……"と流れている。僕はもたえかかる柱から少し離れ、前方を走る電車にその視線を当てた。美久は僕の隣に来て、同じように電車が止まるのを待っている。ただそれだけなのに、いつものことであるのに、何故か僕は異様に緊張している。
電車がホームに対し、ゆっくりと速度を落とし、次第に落ち着き、そして止まった。ドアが開き、そこから人があふれてくる。多少その渦に揉まれ、後方へ少し下がる。その波が収まると、今度は後ろから別の波が押し寄せる。ただそれに従って、押されてゆき、僕らは電車の中になんとか収まった。美久は大して動じてもおらず、いつも通りだった。雨が降ろうと、さして影響はなさそうだった。
電車も無事に駅に着き、僕らはまた人の波に押されて外へ排出された。ホームへついたところで、僕はいつものように一息つく。
「雨の日は、あまり気分が浮かないよね……」
そうぼやく彼女に対し、僕はラッシュに参っていた。もっとも、彼女は幽霊であるからにして、他の人がどれだけ詰めて入っていようが関係ない。椅子にゆっくりと座ることも、当然できるわけだ。それに対して僕などは、見事にやられている。
「さぁ、行こう」
何故だか、電車から出てきた彼女は、電車に乗る以前の彼女よりも、あまりにも元気になっていたのだった。僕にはその理由など、不思議もいいところである。
駅から大学までは歩いて数分のところにある。駅の名前にも、大学前と入っているほどだ。だから電車は、この駅を過ぎると大分乗り心地がよくなる。
そんな駅をあとにして、僕らは通学者が多い道を学校へと向かう。雨はいつの間にか止んでいて、傘は片手に持っている。傘を持つ反対の肩の鞄を、掛け直す。美久は僕の横に並んで歩いている。彼女は大分落ち着いていて、先ほどとは随分違う。今は何やら楽しそうにしていて、しきりに僕に話しかけてくる。僕にしてみれば、周囲には同じ大学生が同じように大学に向かっていて、勿論顔見知りも何人かいるわけで、そこでまるで一人で話すようにはするわけには行かない。それは勿論彼女も理解しているのだろうけれども、何やらやたらと話したいことがあるらしい。
僕が直接的に返事を返さなくとも、何かしら合図のようなもの──例えば、頭を掻くとか、顔を触るとか、肩をたたくとか──を決めて、彼女に僕の意思が分かるように、取り決めを(今さっき)させられた。僕としては彼女と話したいのは山々だから、そういう方法ででも何らかのコニュニケーションができるのならば嬉しい。
「やっと、気分がすっきりしてきたよ」
そういう彼女に、僕は右手で頭を掻いてみせる。つまり、いわゆる"同意"の念で、ここではいうなれば、"よかったね"だ。あとは、右肩を凝ったかのように叩くのが"反対"で、左が"疑問"、顔を触るのが"なんでやねん"だ。何故に突込みがあるのかと聞かれると、美久が勝手にそう決めた。僕にはその意味がよく分からないけれども。
「雨も止んだし、傘を差さなくてよくなったのは嬉しいでしょ?」
そこで止まる彼女のセリフ。僕はまるで相槌を打つかのように、自分の頭を掻く。
「私はやっといつもと同じでいられるから、大分楽になったよ」
そう言う彼女に、僕は左手で頭を掻いてみせる。
「やっぱり、あの時も雨が降ってたからかな。なんか朝から調子悪くて。よく分かんないけど、涙まで出てきちゃってさ」
僕はまた、左手で頭を掻く。
「何でだろう。確かにあの時は気が動転していたし、そりゃもう、いやってくらい痛い思いはしたけど、何も今になって泣く必要はないような気がするのに」
僕は例によってまた、頭を掻く。
「それでも、今日の朝はものすごく感傷的になっていて……」
僕は仕方なく、また頭を掻いてみせる。美久はそれに待ってましたとばかりに話を続ける。
「それで、気づいたら目から汗が……、いや、涙が出てて」
僕は若干白けたように、頭を掻いた。
「何も、そんなつもりじゃなかったのに、渡晴を取り乱させちゃって……」
ああ、頭を掻く以外に反応のしようが見つからない気がする。僕は少しがむしゃらになって、頭を掻いた。
「ごめんね。変な気を遣わせてしまって。家を出るときにしても、もっときちんと動くつもりだったのに、何だか上手く動いてはくれなくて」
ああ、もう、僕はどれだけ頭を掻けばいいのだろうか。考えてみても、それに対するいい解決策が全く見つからない。だから、僕は思案し、腕を組んで、頭を悩ました。
「えっ、"なんでやねん"?」
彼女は何故か突然そう言った。気づけば、僕の手は悩むあまり、いつの間にかあごの下で親指を立てて、考えるポーズになっていたのだった。

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