19話 朝もやの中、公園を二人で

僕は、広い空間にぼんやりと浮かび、ただ、虚空を眺めていた。視点は合わず、しかし何故かここが広くて何もないことが分かっていた。僕は何も力をかけず、ただ全てに身を任せたように浮いていた。目の前から、何かがゆっくりととんできたのが自然と分かった。それは僕の身体を抜けて、後方へととんでいく。僕はそれでもまだ、何も力をかけずに浮いている。抵抗感もなかった。恐怖感もなかった。ただ通っていく、その感覚だけが、僕の中に不思議とリアルに残っていた。
気がつくと、僕は町の上に浮いていた。足下には道路があって、そこを人が、自動車が、自転車が、バイクが、通り過ぎていく。目の前には駅があって、僕はそこが見覚えのある場所であると思った。後方には大通りがある。駅の向こう側は公園になっている。この駅は三番ホームまである。僕は悟ったかのようにそれを知り、足下を眺めていた。
するとそこに見覚えのある人影が通った。美久はいつものように駅のホームへと入っていく。あの彼女は何も知らない。このあと、何が起こるかを……。
あれは事故だった。だから、誰も憎みようがない。そう、あの時は学校へ来て、そこで初めて知ったのだった。彼女が列車の事故に巻き込まれた可能性があることを。
それは彼女が通学してくる電車だった。だから、彼女が寝坊か早く来るようなことでもしなければ、乗っているはずだと。もちろん、そうなれば、巻き込まれたのは彼女だけではない。他にも、同じような目に遭っている人がいる。
聡司も確かに彼女と同じ方面から来るのだけれども、乗ってくる電車が違った。聡司の乗る電車は、その一本前だった。彼の方が来る必要のある講義が早かったのだ。だからと言って、僕は彼に対して何も言えないけれども。彼は、それを聞いたとき、一本後だったことを恐れつつも、美久の身を案じていた。
茉子はただ、ずっと心配していた。彼女は美久が来る方とは逆の方の電車から来る。それは僕も同じで、茉子と僕の乗る駅は一駅違いだった。
学校の方は、情報をいち早くと、せかせかとしていたものの、見た目上は普通に講義が進められていた。講義に携わらない、いわゆる事務のような先生は、校内を駆け回って、忙しそうにしていた。
僕自身は、ただ、異様なくらいに冷静で、心配なのは山々だったけれども、それほど恐怖感も持ってはいなかった。それがなんとも不思議で、茉子に対しては、歪にも僕から励ますくらいだった。"もしかしたら"とか"いや、でも……"なんて考えは何も浮かばず、ただ彼女に関しては、信用というより、はなからその電車にはいなかったような、でも少しは心配だという感情くらいしか抱いていなかった。
それから、しばらくして、ちょうど昼食のための時間辺りに、いろいろと情報が入ってきた。まずは風の便りというやつで、直接的な死者はいないものの数人が病院へ運ばれたという知らせだった。それが誰であるかはちっとも明白でない。それから、しばらくして、今度はうっすらとそれが誰であるかという情報が入ってきた。そこには未だこの学校へ来ていない彼女の名前が挙がっていた。
僕はそれを聞いて、やっと胸のうちから何かこみ上げるものを感じてきていた。うっすらと、瞳に汗を感じ、目の前にいたはずの聡司の姿はたちまち見えなくなってしまった。僕はその汗を拭い、ただ、何かを信じるように、何かを待ち侘びるかのように、テーブルの上に肘をついて、手に頭を預けていた。
学校の講義が終わった後、僕と茉子、それから聡司は、部活をそっちのけで、一秒でも早くと流れてきた話の中の病院へ急いだのだった──。
「おはよ」
朝。僕は何故かこんな時期なのに大量に掻いてしまった汗を拭いながら、それに答えた。
「ああ、おはよう」
「せっかく早く起きたんだから、外に散歩に行かない?」
「それって、この前も言ってなかったか?」
「そうだっけ……」
「うん」
「まあいいじゃない。それより、なんでそんなに汗掻いてるの?」
それは……、僕が一番訊きたい。
アパートの部屋の外。僕は玄関前で、美久が出てくるのを待っている。彼女は服を選ぶ必要性が(悲しくも)ないのだから、もう少し早く出てきてもいいものの、未だ部屋の中にいる。三十秒ほど経って、やっと出てきたかと思うと、今度は僕を無視して、勝手に階段を降り、アパートの前の道から僕を呼んだ。
「渡晴、早く!」
ああ、思うに僕は単に美久に振り回されているだけだろう、たぶん……。
美久と二人、朝のすがすがしい空気の中を、ゆっくりと歩く。空は相変わらず秋晴れで、空気は澄んでいるように感じる。街は、まだ活気に満ちているとは言えず、夜のような寡黙さを保ち続けている。
僕たちは、この間と同じように街中を散歩し、お互い言葉を交わすこともなく、ただただ歩き続けるのみ。お馴染みの風景の中を、ただ淡々と歩く。その手はやや触れ合う程度の位置にあって、決して握り合っているなどというような状態ではなかった。だから、僕らはお互いの愛を確かめ合うようなデートとは違っていた。
僕らのデートは、言ってしまえば暇つぶしのようなものであって、若しくはお互いに長く一緒に過ごしたいという、ラジオを聴いて過ごすより、意義のあることをやろうと、そんな気持ちだったのかもしれない。理由はともかくとして、僕らは駅とは反対の方向へと向かって歩いていた。
こちらには、駅前から連なる商店街がメインストリートを形作っていて、それに垂直に道が連なり、商店街を基にして発展していったことを物語っていた。商店街に垂直に伸びる道にも、商店街と平行に続く道があって、僕らはそこを行く。二人の歩く距離によって、時たま僕らの手は触れあい、そしてまた一定のリズムで揺れ続ける。それは、まるで買い物先で喧嘩でもして、しかしお互いに悪いと分かっているような、そんな感じだった。
四月の二十日を少し過ぎた頃から、私たちは昼食を共にするようになっていった。私たちは何かと他愛のない話をしたり、大したこともないことで軽く喧嘩したりもしていた。私は見知らぬ二人に少し遠慮がちで、距離もとっていたつもりだったけれども、どうやら二人の前ではあまり意味がないらしく、私は自ずと三人に和んでいった。
そのときは、茉子と渡晴は仲がよくて、二人がおおよそメインのような感じで、そこへ私たち二人への会話の振りや、入り口があった。そうであるから、同性同士だけで話すことだけをしていることはなかった。茉子と渡晴は、聞いている限りでは仲が良さそうであって、茉子も話していて楽しそうにしていた。あるとき、私が茉子に二人の関係を聞くと、何やら悩んだ顔をして、
「高校の同級生……かな」
と、言っていた。このときは、まさか三年間も同じクラスであったとは思いもしなかったけれども。そんなこんなで、私たちは何かの縁があって、一グループを成し、何かを為すにはまずその姿を捜し求めていた。
それから、五月になって、連休があり、暇だという同じ高校の友達に誘われて、二人で買い物に出かけた日があった。私たちは近くのデパートへと気放しに出かけ、ぶらぶらとショッピングを楽しんでいるところで、茉子と渡晴が二人で並んで歩いているのを見かけた。私はこの時点で、二人は付き合っているものだとばかり思っていた。
しかしながら、五月も十五日が過ぎたあたりで、私は急に渡晴に呼び出され、そこで見事に告白されてしまった。私はただその展開に唖然としていたけれども、目の前にいる渡晴の目は真剣だった。さすれば、茉子は渡晴にとって一体なんだというのだろうと、少し疑問にも思ったけれど、そんなことを目の前であまりにも緊張している渡晴に直接訊くわけにもいかず、私は自分の置かれた恋愛における状況から判断して、彼に対しOKの判断をした。
その頃の私は以前のなんとも苦い思い出となった恋などはおおよそ消えていて、彼ならそんな心配もすることはないだろうと考えたかどうかは知らないが、少なくとも私は断る理由というものも持ちすえてはいなかった。また、付き合ってもいいかな。それが最終的な判断を下した理由の一つであることは、とても渡晴には言えないが、今日に至ってはそんな風には考えてはいない。それでなければ、わざわざこうして現世に戻ってくるはずもない。今は自信をもって、彼にも大衆にも、彼が好きだと言い張れるのだ。もちろん、恥ずかしさなどという感情を除けばの話だけれども。

商店街の端まで来て、僕らはそこで折り返した。来た道と同じところを辿るけれども、まるで巻き戻しでも見ているかのように、相変わらず何も話はしなかった。変わったことといえば、いつの間にか手がつながれていた事だけだろうか。それは強くも握られてはいなくて、ただ触れているだけのような感覚だったけれども、妙な温かみはあった。自己満足ですむのなら、このままで居たいと、何故か切に願っていたのだった。
もうすぐ、家につくであろう頃。美久は何かを思い出したかのように、僕を見て、それからこう言った。
「公園に寄っていかない?」
確かに美久の向こう側には公園があって、そこにはブランコとシーソー、それから砂場にベンチ、ジャングルジムと有り触れたものが置いてある。ここは、僕らにとっては一つのデートスポットのようなところであったが、美久がいなくなってからここには一度も足を踏み入れていなかった。
久しぶりに入ってみてもいいかもしれないと思った僕は、美久と共に公園へと入り、ブランコへと腰を下ろした。ブランコは微妙に冷たく、若干湿っていた。公園にある時計は、普段起きる時間を少し過ぎていた。しかし、朝食も着替えも済ましているため、僕にはまだ余裕があった。辺りの草木は少しざわついてはいたけれど、気候は至って穏やかだった。
僕らはブランコを少し揺らしながら、その場の空気を楽しんでいた。ゆっくりと動くこの世界に、僕らはただ静止を求めてはいたけれど、自分の力ではどうにもならないことを知っているから、今ある限りを噛み締めるかのように、こうしてゆれ続ける。言葉を多く交わすことはなかったけれど、でも何かの力が僕らの間に働いていた。

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