18話 当事者の意思

そして、放課後。僕は、あの日と同じように、例のメインホールへと向かった。そこには、あの日と同じように先に茉子が来ていて、僕は茉子を待たせてばかりだなと、過去を思いながら少し反省していた。
茉子は、あの日と変わらず、あの柱にもたれて待っていたようで、僕が来たことに気づいたと同時に、柱から背中を離したかのように見えた。そして、僕の来る方へと少し歩み寄った。
しかしながら、僕の傍らにいた美久は、何を思ってか僕より先に駆け出し、茉子の傍に行ったかと思えば、彼女に軽く耳打ちして、僕が茉子のいるところに行くまで茉子の傍で待っていた。美久が彼女に何を言ったのか、僕には全く以って聞こえなかった。
僕が茉子の元にたどり着いたとき、美久は再び僕の傍に戻ってきて、まるで今まで僕の傍を歩いていたかのような位置についた。茉子はなんだかぎこちなさそうに俯いてしまっていて、僕には彼女の黒髪と額くらいしか見えなくなってしまった。
「……」
そこには静寂が漂っていて、あの日と同じような部活の声はまだ聞こえてはいなかった。僕は、何と切り出せばいいのか少し迷い、そして何とか喉の奥から言葉を出してくることができた。
「美久が、ちょっと聞きたいことがあるって」
それを聞いた茉子はきょとんとしていて、僕は微かに期待を外したような感覚を感じていた。僕の顔の前を微かに風が通り抜け、気づけば茉子は美久と話していた。
「その、昼食のときに好きな人がいるって話をしていたでしょ?」
茉子は少し声のボリュームを落として、
「えっ、う、うん、話してたけど……。それが、どうかしたの?」
僕は茉子にそういう人がいたことに少し驚きつつも、それが一体誰であるのかが無性に気になっていた。恐らく、高校のときにせよ、彼女からはそういうことを一切聞かなかったせいでもあるのだろう。
高三の時には、茉子は他の女子と比べれば比較的一緒にいた女性であって、僕からはもっとも近い距離にいた。彼女にしても、よく僕のところに来ていたけれど、それらしいことは一言も聞いた覚えはない。僕はそれなりには気になっていたけれど、あまり深く、直接的に尋ねることはできなかった。それでも、彼女は僕にしてみれば、唯一心の許せる女性であった。今も、そのことはあまり変わっていないように思う。
美久は確かに僕の彼女であって、こうして僕のために戻ってきてくれてはいるけれど、それでも、まだ話したことがないことはたくさんあるし、寧ろ、彼女が僕の彼女であるからこそ、疑わしいこともそれなりに抱いていた。もちろん常々心配していたし、元々美久とは僕から告白した仲だから、それ以前に誰か他の人が好きだったんじゃないだろうかとか、そんなまるで不謹慎なことを考えもしたものだった。僕は告白をした身として、彼女の選択に全く自信がなかったわけではないけれど、でもそれなりに、まるで杞憂のようなことでも心配したりしていたものだ。
ともかく、茉子は僕にとって唯一無二の友達であって、それは彼女である美久とはまた違う感情であって、愛情よりも友情や信頼とかそういうものの上にあることによって成り立っているだろう。
「えっ、今は別に……。お昼も言ったけど、あまり考えないようにしているから……」
気づけば、しばらくぼうっとしていたようで、いつの間にか話はある程度進んでしまっていた。
「それって勿体なくない? せっかく、そうやって想ってるのに、さ」
どうやら、美久は茉子に対して恋愛の先輩としてアドバイスをしているらしい。しかしそうなると、僕がここにいる意味があるのか、少し謎ではあるのだけれども……。
「でも……」
「別に連絡できないってことはないんでしょ?」
「うん、連絡はできるけど……」
「それなら、直接会って話せばいいじゃない」
「う、うん……」
「今はどうしているの?」
「えっ、い、今? えと……、その……」
彼女はそうやって急に戸惑って、あたふたとしたかと思えば、再び俯いてしまった。
「言いにくいのなら別にいいよ、無理しなくても」
「うん……」
まるで、茉子が茉子でないような感じで、彼女の別の一面を見たような気がして、僕は知らない彼女がいることに少しだけ落胆した。
「それで……、これからはどうするつもりなの?」
「私は……、もう諦めようって思って……」
「えっ、なんで?」
「負けちゃったから。今はどうなのかはっきりしないけど、先を越されたっていうのかな……。そういう感じで」
「そう……」
「三年も時間があったのに、結局何も言えてないなんて、さ……」
茉子は悲しそうにそう言って、軽く顔を上げた。そして、そのとき偶然僕が目に映ると、一瞬、ほんの一瞬だけ"はっ"とした顔をしたように見えた。それから彼女はまた俯いてしまって、僕からはまたその表情を見ることができなくなってしまった。
「そんなにがっかりすることないよ。きっと、チャンスが来るって」
「えっ、チャンスって?」
「え、いや、いい人に出会えるチャンス?」
「そうかな……」
「うん、きっと」
つまり、茉子は失恋したということだろう。その相手が一体誰であるは定かではないけれど、僕からは予想もつかない。
茉子が話すところによると、それは三年間一緒にいた人であるらしい。しかも、先を越されたということは、その人はその間に誰かに告白されたということだろう。ああ、二人から好かれるなんて、なんて幸せな人なんだろうか。僕は自分の置かれた奇妙な境遇と、その茉子が好きな人の状況を比べて、少し不憫な気持ちになっていた。
諦めようと思っている……か。その状態で、もし茉子の好きな人が告白でもしてきたら、彼女はどうするつもりなんだろうか。
もし私がそのような状況に立たされたら、と考えると、それは判断が難しいと思う。もちろん、自分の想いが叶ったわけだから、嬉しいことには相違ないのだろうけれども、その告白自体が遅れてやってきたものだから、自分に対してきちんとけじめをつけようと思うのなら、そのチャンスを断るであろうし、逆に快く受け入れる場合は、それなりに覚悟が必要だ。
忘れようと、つまりもう好きでなくなろうとしていた人と付き合うというのは、ありえないことではない。忘れようと思っている限り、まだ好きだということであるから、告白された方としては、もう忘れようとする必要はなくなるし、これからは夢にまで見たような状態になる。断るのなら、今更遅いと跳ね除けるということであって、それも自分にとってきちんときりをつけたいと思っていた心の表れでもあるわけだ。
そして、茉子の話を聞いている限り、それが渡晴である可能性というものは高まってきたわけだけれども、しかしながら渡晴はあそこにいたのにああまで話せるというのも少し不信である。
今のところは、"茉子には好きな人がいたけれど、既に誰かと付き合っていて、現在はどうなのかはっきりしない"ということになる。会うことは可能であるわけだから、茉子には今どういう状況であるかは確かめられるのだろう。でも、そうするどころか忘れようとしている。
もし、渡晴であるとするならば、会うことは当然できるし、既に付き合っているというのは恐らく私であろう。しかしながら、"どうなのかはっきりしない"とはどういうことだろうか。渡晴ならほぼ毎日会っているし、昼食も毎度一緒に摂っているので、相手の状況が分からないなんてことは全くない。
ならば、やはり渡晴とは別の人なのだろうか。確信は、いまいち掴めない。

本来美久は茉子と同じ部活であって、美久が僕らと共に昼食を摂るようになったのも、茉子が彼女を引き入れたためだった。そして、僕が茉子に倣って聡司を引き入れたことで、四人で昼食を摂るようになった。それが四月の下旬ほどであったから、僕らは四ヵ月ほど一緒にいたことになる。
僕と美久が付き合い始めたのが五月の中ほどであるから、こちらは三ヶ月半くらいだろうか。出会って半月で付き合うのも早すぎるかもしれないけれど、何故かよぎったのだから仕方ない。今しかない、といったような感覚は、そのときに行動に移らないと損だということだろう。
そんなこんなで付き合い始めた僕らに対して、聡司はそれがあらかじめ分かっていたような態度をとり、茉子は最初の頃はそのことに関してあまり触れようとはしなかった。でもしばらくすると、茉子は僕らが上手くいかずに困っているときには相談に乗ってくれたりするようになっていた。
こんな感じに、どうしてもあの約束とその後の流れが矛盾していて、いくら茉子に好きな人がいたのだとしても、それは僕ではないとしか思えなかった。
とりあえず、様子を見ることにする、と、私は帰りの電車内で思案していた。今の状況では動いてもしょうがないので、彼女がどういう反応をするか、それを見るしかない。妙に仄めかしてみたり、その話に触れてみたり、それに対してどういう反応をするか。それを伺ってから、茉子に頼むか否かを判断しても悪くはないかもしれない。
ちなみに渡晴は、例の本を読みながら、またイヤホンをして音楽を聴いていた。つまり、音楽は読書のバックサウンドであって、それに対して神経を向けているわけではない。彼からすれば、したいことは読書であって、音楽はただ流れているだけだ。
私のしたいことは、渡晴にとって欠かすことのできない人を彼に近づけること。こうしてここにいて、渡晴や茉子と話していることは、流れている音楽と同様のようなものではないにしても、それに近いものである可能性はあるのかもしれない。

家に着く。と、いえども、アパートの一室なのであるけれども、僕にとっては、実家に代わる第二の家である。そんなところで、事実上僕らは同棲生活をしているということになるのだけれども、そのことに大して違和感を抱かなかった。何故なのかは明白ではないけれども、恐らく以前から美久がここによく出入りしていたからではないだろうかと、僕は思う。
見る限り、部屋は美久がいた頃と何も変わらず綺麗になっていて、置いてあるものが落ち着いている。半月ほどの美久がいなかった期間の方が逆に違和感があって、今に比べれば少し汚かったと思う。そのときは、いつも何だか落ち着かなくて、喪失感が全体に漂っていた。そこはまるで異空間で、歪んでいたかのようなイメージだった。
今はこうあって、落ち着いているけれども、美久が帰ってしまった後はここはどうなってしまうのだろうか。僕はまた、あのときのように、歪んだ世界の住人と化してしまうのだろうか。
夕方。家に帰ってから、十数分。その時には、渡晴は課題をちまちまとやり始めていて、私は例の本を地道に読んでいた。
それから、一時間ばかり経った頃、どうやら渡晴の課題が終わったらしかった。
恐らく外が少し茜色に染まっているだろうと思われる頃、私は本を読み終えてしまって、渡晴のベッドの上で、ぐたっとしていた。一方の渡晴は、先ほど夕食の買い物に出かけてしまって、今頃は近所のスーパーをうろうろとしている頃だろう。彼が出ていったときも私は本を読んでいて、それを考慮してか、彼は私に"買い物に行って来る"と軽く声をかけて、部屋を出ていった。
私は一人残されて、天井を眺めながら、大学に入る前後のことを思い出していた。高校から大学へ進学が決まったときは、それなりに満ち足りていたけれども、周囲の仲の良い友達に同じ大学に進む人がいなくて、私は少し心細かった。
大学に入って、私は高校からやり始めたテニスを再び取り組むことにして、とりあえずは部活を通じて、いくらか人の輪を広げていけたらいいかなと思っていた。そこで出会ったのが、前にも話したように茉子であって、私は彼女に誘われて、渡晴や茉子と昼食を共にすることになったのだった。しばらくして、くどいようだけれども、渡晴が聡司を連れてきたというわけだ。私は、元々昼食は空いた席で適当に取るようにしていたから、彼女から誘われたことは嬉しくて、誘いには即答したのを覚えている。
これによって、昼食の時間が楽しみになって、学校生活もそれなりに楽しむことが出来るようになった。私たちは、最初の頃はお互いの入っている講義について話したりしていた。
それから、一通り話がつくと──この辺りで、被る教科では比較的近くに座るようになった──、高校時代の思い出なんかを話していた。これによって、茉子と渡晴が高一のときからずっと同じクラスであったことが分かった。聡司は、私の住む市の隣の市にある高校で、意外に近いことも分かった。……後者は、だからといってどうであると言うものはなかったけれども。そんなこんなで、私たちはまとまった一つのグループとして、成立したわけだった。

僕が買い物から帰ってきたとき、彼女は思っていた通り僕のベッドの上で寝ていて、相変わらずな寝顔をしていた。
あの黄色いTシャツも相変わらずで、彼女は何の夢を見ているのか、少し困ったような顔をしていた。僕はそんな彼女に対して、何故かわけもわからぬ妙な不信感を感じていた。それは何かを隠されているような感覚であって、しかし僕にはそれが何なのか全く想像もつかず、ただただ彼女の寝顔を眺めていることしかできなかった。

←17話 19話→

タイトル
小説
トップ